気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

丸瀬布郷土資料館の松浦武四郎マップ~sakagさんから情報を送られた

2012-11-19 12:11:36 | 旅行
2011年9月11日(曇り、気温13度)前日の北見市中ノ島公園の松浦武四郎河川利用説明版を見学して夕方北見駅近くのホテルに一泊。早朝、ホテルを出発して国道333号を遠軽町方面に向かった。端野町の役場を左折しガソリン給油。仁頃川の睦月橋の側に川の由来が書いてあった。
二・コロは(Ni・Kor「木・を持つ)で、ニコロ・ベツの下略された形。木の多い川という意。隈川より上がったところの常呂川西支流・・・と書かれている。
仁頃川の由来

丸瀬布郷土資料館

 丸瀬布の産業や発展の様子が展示されている。また町の歴史を知ることができる。
sakagさん(一人歩きの北海道山紀行のホームページ管理者)から丸瀬布に松浦武四郎の足跡・宿泊マップがあることを教えていただいていたので、是非行ってみたいとおもっていたところでもあります。
安政五年、松浦武四郎の足跡・宿泊マップを間近に見学

武四郎の山川地理取調べ地図

資料館の中には松浦武四郎研究会の名誉会長の秋葉實氏が貴重な資料を寄贈されたものもあるので、帰りにお礼を兼ねて秋葉氏にお逢いしたいとお仕事をされている工芸館を訪ねた。玄関先で失礼しようと思ったところ、突然の訪問にもかかわらず、快く事務室に招き入れてくださった。標津の森林公園で桑田立斉のアイヌ種痘の碑を見てきました・・・というと、たくさんある武四郎の資料から「桑田立斉」の貴重な小冊子をいただいた。感謝でした。
森林公園いこいの森の中の雨宮号(実際に動きます。)
  
 雨宮21号は森林鉄道蒸気機関車で、職員の方がメンテナンスや、実際に燃料を入れているところでした。
昭和3年から33年まで木材を運搬して、丸瀬布の産業を支えてきたとのこと。

山彦の滝
  
 この滝は高さ28mあり、滝の裏側からも見ることができます。冬には滝が凍結し、ライトアップされている。マイナスイオンをたっぷり・・・パワースポットかと思う。滝の裏にはろうそくなどが置かれていた。信仰の滝でもあるようです。
 大きなからくりハト時計
留辺蘂の道の駅 「おんねゆ温泉」にある高さ20メートルの時計「果夢林」果てしない夢が広がる木(林)の町という意味が込められているという。

北見市内の松浦武四郎踏査地を訪ねて

2012-11-19 09:51:46 | 旅行
2011年9月10日、北見市のピアソン記念館やハッか記念館を見学した後、松浦武四郎の顕彰碑などを探した。
松浦武四郎踏査跡地の顕彰碑
 
この碑は北見市の新興住宅街の常呂川の土手近くにあった。平成八年に建立されている。説明には『私たちの郷土北見は松浦武四郎の探検記録「戊午登古呂日誌により初めて歴史に登場した。安政五年(一八五八年)二月、幕府より山川地理取調方を命ぜられた武四郎は弟六回最後の蝦夷地探査のため凾館を出発、道東地域を踏査した。日誌によると、同年六月二十三日、斜里から陸路常呂に到着した武四郎は、翌日土地のアイヌの人々に案内役を依頼し、丸木舟で常呂川を遡上した。工程はクトイチャンナイ(常呂町福山)ムイコツネ(東八号線)で書く一泊、六月二十六日にヘテウコヒ(北見市中之島、北光)を経てクッタルヘシベ(訓子府町日の出)に至り、往復四泊五日の内陸探査の旅を終えた。』北海道及び北見国の命名者である探検家の偉大なる業績を後世に伝えるため、北見市開基百年の意義ある年に当たり、踏査のち常呂川の岸辺に記念碑を建立する・・・と書かれている。北見市民の方にとっても郷土の歴史を知る貴重な記念碑と私は思う。北見市には知人はおりませんでしたが、今は医療系の大学の教授になられて平成24年度から赴任された方や、高校時代を北見で過ごしたという知人がおります。北見が身近に感じられた。
 次は常呂川の中ノ島公園内の武四郎の説明版を探すのであるが、以前、音更町の鈴蘭公園内にある武四郎の碑を探す際、公園に着いたはいいが、広大な公園内のどこにあるのか探すのに苦労したことがある。今回も無加川と常呂川に挟まれたような公園を探すのは大変と思い、土手をウオーキングされていた方に「松浦武四郎の碑を見たことがありますか?」と聞いたが・・・中ノ島へはあの橋を渡って行けばいいのだが・・・」と言いながら、案内をして下さった。ご親切な方に感謝です。
 公園は森林であまり人が見えなかったが木々の間に看板らしきものを発見!案内をしてくださった方もご一緒に見た。彼は帰りまでお付き合いをしてくださったのです。お陰様で北見市の方との温かい触れ合いも嬉しい旅になりました。
 案内の方と橋を渡る

松浦武四郎 当地方初踏査の利用河川

北見の常呂はカーリングが有名ですが、市内のピアソン記念館や蝦夷地探検の松浦武四郎の貴重な歴史遺産も忘れてはならないことかと・・・それぞれの郷土を思う。
説明版には
『幕末の探検家、松浦武四郎は弘化二年(一八四五年)から安政五年の間にいまだ未開の蝦夷地を六回探検して膨大な日記類と地図を残した。この中の「戊午登古呂誌」に常呂川流域を詳しく記録した。(中略)常呂川探索は旧暦五月十四日に出発して、クトイチャンナイ(常呂町福山辺り)泊~ノヤサンヲマナイ(端野町二区辺り泊~ヘテウコヒ(北見市中ノ島辺り)を経て相内辺りから無加川・訓子府川を渡って常呂川のクッタルシベ(訓子府町日の出辺り)泊。探索はここまで。(中略)翌日は仁頃川全域、無加川の相内より上流、常呂川のクッタルシベからの上流は同行したアイヌの案内人からの聞き取りを記録している。』

モヨロ貝塚~北見ピアソン記念館

2012-11-18 19:06:13 | 旅行
2011年9月10日の10時30分頃、網走市の網走川河口付近にあるモヨロ貝塚に着いたが、入り口には新築工事のため、閉鎖中の紙が・・・掛かって、モヨロ貝塚資料館は残念ながら見ることが出来なかったが、入り口から見学できる竪穴住居跡など記念に撮影する。
資料館新築工事中の説明版
 
 モヨロ貝塚の竪穴住居跡の景色 
    
(工事中にも関わらず、もう一組の見学者がいた。)
この貝塚は司馬遼太郎著「街道をゆく 38」の「オホーツク街道」オホーツク街道にモヨロ貝塚発見者の米村喜男衛翁が少年時代に畑で人の手で削られた鋭い石をひろった。受け持ちの先生が「大昔、金属がなかったころ、石を削って刃物にした。この石はきっとそれだろう。」と教えてくれ興味をもったよう。「考古学雑誌」の定期購読をしたり、採集に熱心だった米村喜男衛氏が貝塚発見に至ることや金田一京助博士や知里真志保教授とのこと、20代にアイヌの研究をしようと函館の湯の川で2年間遺物の収集をするなどアイヌについての知識をふかめた・・・とある。それから函館を去って、米村氏は網走に着いて網走川の河口に高さ二、三十メートルの高さの砂丘の断崖面に貝殻層が露出したのを見つけたことが、米村氏のモヨロ貝塚発見のはじまり・・・と司馬遼太郎氏はトロイアを発見したシュリーマンに似て、「米村さんのトロイアが始まったのである。」と述べている。米村氏は東京で修業した理容師の技術を活かし理髪店を経営し、店内に発掘物を展示したのが、モヨロ貝塚館のスタートと思われる。また、この地には道内の高校生も発掘調査に来たとのこと。この高校生の中から考古学者も出たとのこと。この高校の中には私の母校の先輩たちも参加していたことが分かった。
 この後、北見市内に向かい、ピアソン記念館や北見ハッか記念館、松浦武四郎踏査跡地 顕彰碑や中ノ島公園内の武四郎初踏査の利用河川 説明版を探した。
 ピアソン記念館(北海道遺産)
  
 ピアソン邸は2年ががりで故郷エリザベス市の自然に似た美しい高台にピアソン夫人が好むスイス風山小屋を思わせる家が建てられたとのこと。
ピアソン夫妻は三十五年間北海道を函館~室蘭~小樽~さっぽろ~旭川~北見へと南から北へ都会から農村へと開拓者あっちの心に忍耐と勇気と愛の灯をともしながら、伝道をつづけ、小樽と札幌で本道初期の女子教育に貢献し、札幌農学校の学生を教えた。また、旭川では軍人電動、廃娼運動、監獄指導、アイヌ伝道、学校教育の振興に尽くした方である・・・。昭和3年に故郷のアメリカに帰ったが、十五年間住み慣れたその地「みかしわの森」に別れを告げたことを北見市教育委員会がピアソン宣教師夫妻の功績を記念して旧ピアソン邸を復元保存し、展示したと説明がある。
ハッカ記念館内部蒸溜装置
 

小清水原生花園~モヨロ貝塚・卯原内・丸瀬布・北見へ

2012-11-18 14:24:50 | 旅行
2011年9月10日(土曜)網走湖荘ホテルを早朝に出発して、網走エリアをぶらりドライブする。秋の小清水原生花園は誰もいないが広々とした平野を見渡す。花の見ごろは美しいのだろう。その次のポイントは天都山にある北方民族資料館と網走監獄などを見学。
小清水原生花園駅の看板写真 
  
 
天都山の二ポポ 
 
  二ポポはサハリン(樺太)アイヌの人たちのことばで『小さな木の子供』という意味を表しています。
  その昔、の人たちは木の枝や幹を細工し、小さな人形を作り、お守りとして大切にしていました。
  二ポポを身につけ、手をふれると事故にあうことなく、幸せをもたらしてくれると信じていました。網走市はこの二ポポを郷土の民芸品として捜索し4、網走刑務所で一括制作しております・・・と説明があった。
北方民族資料館
    

トンコリやシーカヤック、トーテムポールなどの展示物 
 
マンモスのはく製  
網走監獄博物館
   
能取湖 卯原内のサンゴ草
       
 日本一のサンゴ草群生地となっているが、サンゴ草は色がくすんで残念ながら真っ赤なサンゴの色ではなかった。土壌の変化によるものということであった。(後程新聞報道でその原因を知ったが・・・)
旅の参考にし、時々読み参考にしている司馬遼太郎著の「街道をゆく 38」ではウバラナイとはアイヌ語で、河口が死んでいるという意味らしい・・・」と書かれている。秋になると真っ赤なサンゴ草が見れるはず・・・。
 また、松浦武四郎著、秋葉実解読の「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」では卯原内川について次のように記録している。
『此辺浅くして洲多く皆蘆萩生繁り。岸には赤楊、柳多し。川有、幅十間余り、沼内第一番の川なり。其名義はしれず。』と調査の記録がある。

女満別朝日が丘のひまわり 
   

札幌:開拓神社~旧北海道庁舎・定山渓の温泉で止宿した松浦武四郎

2012-11-04 10:54:01 | 旅行
2012年8月30日、今回の道北の松浦武四郎の足跡を訪ねる旅の閉めは命名の地音威子府筬島から一路南下、士別剣淵の高速ICから札幌へ向かい、北海道神宮の広い敷地内にある開拓神社へ参拝。開拓神社には北海道の開拓に功労のあった先人、歴史などで名前を聞いたことのある島義勇・間宮林蔵・最上徳内・十勝、帯広の開拓に功労のある晩成社の依田勉三そして北海道探検家、開拓判官の松浦武四郎など37柱が祀られている。
  開拓神社    
中央区にある旧庁舎(通称赤レンガ)の文書館には松浦武四郎の蝦夷山川地図やその他の資料がある。また、二階に上がる階段を上ると廊下の壁に岩木英遠作の「阿寒湖畔の松浦武四郎」の大きな絵が掛けられている。カムイヌプリやカムイトウの景色の中に武四郎の人物像が描かれているものである。
阿寒湖畔の松浦武四郎  
旧道庁・蝦夷山川地図の写真  
    
 岩戸観音前の案内板に「定山渓温泉の由来」について説明がある。この中に『調査のため、アイヌを道案内として虻田より中山峠を越えてこの地に到着・岩間に浴槽を掘り旅の疲れを癒し、一泊した。これが温泉のはじめである。』とある。松浦武四郎著、秋葉実解読の「戊午東西蝦夷山川取調べ日誌の上」には定山渓のことを以下のように記録している。
第二巻東部登呂留守知之誌を読むと『ヨイチヲマフナイ(白井川のこと)川口巾三間、滝に成りて本流に落ちる。惣て山は岩山に椴の木陰森としたり。此川源はヨイチ岳の方より来るが故に号。惣て此辺の北は蛾々たる絶壁、南岸平地にして椴木立、川は皆大岩簇々としたり。其川岸二丁も下る哉、川中に温泉有るをト子ンバク、ショウロク見当り。一同驚嘆し、先は此処に来たりせば、最早三四日にして石狩へ下る事必せり。此間中の草臥(くたびれ)を此処にて休むべしと、未だ四つ頃(午後10時ころ)なるに、此川に止宿する。然るに、温泉はこの川北岸其よく涌き出る様に見しまま椴の木五六本倒し、其をもて石より石へわたし橋として、一同雪中に涌出ず温泉に浴して、先達て中よりの癒ける。』と定山渓の温泉に浸り疲れをいやしたということが書かれている。

定山渓岩戸観音前の写真