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ナウシカ考 赤坂憲雄

2020年03月21日 | 漫画
 あんまりおもしろくなかった。というか、著者と気が合わないというか。
 そもそも、漫画や小説をこういうふうに読むのって、どうなのかなあと思ってしまう。
 宮崎駿の別の作品との比較とか、時代背景などをひいてきて、作品として表現されたあれこれを分析したり、あるいは憶測したりすることはある意味おもしろいし、問題ないと思う。
 だが、この場面でのナウシカの発言から、彼女の無意識の差別意識とかなんとか、ここでのせりふはこうだからそれがこう変化していていることを反映している、などと考えることに意味があるのだろうか?、だって、所詮著者宮崎駿の作品でしょう?彼が矛盾した考えやイメージを持っていてそれが出ちゃっただけということもあるだろう。もちろんそこまで考えてることもあるだろうけれど、どうかなあ。

 ドストエフスキーのこと。
 いや、僕はドストエフスキーを読み込んでいるわけでもないので、何とも言えないけれど、少なくとも小説と漫画とどっちが上かな、なんて意味のない議論だと思う。だってそれは器の比較に過ぎず、また一方、内容の比較ではすぐれた作品はどちらも素晴らしく、文学作品にしても漫画、あるいは映画でも音楽でも、ある作品の価値というのは多面的でもあり、個人的でもある、どっちが上かなどという1次元的なものでは断じてない、と僕は思っている。
 バフチンの「ドストエフスキーの詩学」が引用されていて、そこでドストエフスキーの創作した人物のことを、著者(ドストエフスキー)にさえ反旗を翻す能力をもつ、と、つまりそういうキャラクターを生みだした創造主ドストエフスキーをほめたたえているのだけれど、だって、たとえば非常に多くの漫画家が自分の生み出した「キャラ」がかってに動くのよー、と言っているじゃないか。それだけのことじゃない?違うのなら教えてくれ。
 やっぱり、学者先生はあたりまえのことを小むずかしくえらそうに言ってるだけなんじゃない?と思ってしまう。

 音楽が趣味の僕としては、ポリフォニー=多声音楽のことは看過できない。
 もちろんこの本は音楽とはほぼ関係ないのではあるが、それでも「ポリフォニー小説とは音楽技法に名を借りた」とあり、「ポリフォニー(音楽)は(中略)「ちょうど音楽が単声性の限界を越え出ようとしたとき」に登場したものであり」
 なんて書いてあると、ちょっと待ってよ、と言いたくなる。単声=ホモフォニーが先で、複雑なポリフォニー=多声音楽が後から生まれたわけじゃない。
 歴史的にはむしろルネッサンス期のポリフォニックな音楽から、古典派のホモフォニー音楽(ハーモニーの上に美しいメロディーが乗る)に変わっていったのだし、さらにさかのぼって、音楽の根源みたいな民族音楽なども多声のものがたくさんあり、音楽の最初の最初がホモフォニーなのかポリフォニーなのかさえ定かではない。(僕でなく、音楽研究者がそう書いている。)もちろんホモフォニーよりポリフォニーがすぐれているというわけでもない。
 いくら音楽が専門でないとはいえ、いいかげんなことは書かないでほしい。

 ついでに。粘菌と黙示録のこと。著者はちゃんとわかっているのかなあ?ま、僕も黙示録のことは特によくわからないでいるのだけれど。