新聞の広告欄で「ランドセル俳人」という文字と、登校拒否の小学生が詠んだ俳句を見ました。しみじみと心に伝わるような俳句だと思いました。文字というのは不思議な力を持っているようです。
私の父は、若い時期の数年間を、当時死の病であった脊椎カリエスを患い闘病をしていたようです。家は大変に貧しく、長男であるのに働くこともできず、苦しい思いをしたようです。働く母の代わりに、病院に弁当を届けに来たのは、知的障害者であった妹だったと聞きます。当時は、障害者への差別もあったでしょう。様々な苦しみの中、毎日毎日病院のベッドの中で、死と向き合いすごしたようです。
当時の貧乏は、私の想像する貧乏とは違い、本当の貧乏だったようです。着る服にも困るような・・・。
そして、病院の看護師さんやドクターに教えていただきながら、短歌を詠みだしたようです。ある時、高浜虚子に自分の辛い状況を詠んだ歌を送りました。
スリッパをまた盗まれし看護婦は貧しき我を白眼視する
思いもよらず、高浜虚子から、返事がきました。ハガキには、一つの俳句が書かれていました。
初鏡人の心を映すべく 高浜虚子
この句に大感激した父は、病を克服し、働きだしました。そして、明治神宮春の大祭奉祝に、歌が選ばれました。
その後、父は、鎌倉の高浜虚子邸に、お礼に行ったようです。この時のことが、俳人のバイブルと称される「虚子俳話」の中に書かれています。白河から作業服姿の青年が訪ねてきたことが・・・。そして、父の短歌と共に歌詠みとして紹介されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/a6/e15d85ac3d059271e9c4cfbe003d3a7a.jpg)
写真は、高浜虚子の直筆の手紙をガラスに焼き付け保存したもののコピーです。原本はお返ししても、あまりの嬉しさに記念に残したかったようで、父が他界した後、金庫の奥にあるのを発見しました。宝物だったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/bf/bb9203621ca4185953ba94038e6c79b6.jpg)
虚子俳話・・・1冊は、鎌倉でいただいた本。1冊は、父との俳話が書かれた本。そして、「無名者の歌」には、父の短歌も掲載されています。最近では、「白河の歌人」と言ってくださる方もいて、とても嬉しく思っていますが、最後まで自費出版もせずに、質素に暮らしていました。自費出版などは、貧乏人がすべきではないと考えていたのでしょう。
このガラス版やハガキなどは、すべて長野県の高浜虚子記念館に寄付しました。父も喜んでいると思います。高浜虚子全集の書簡の巻には父のいただいた手紙が父の名前と共にあります。これは白河市の図書館に寄付しましたが、その後行方不明(後日検索してもなかった)。白河市と高浜虚子とのつながりを示す貴重な本だと思い、白河市図書館に置いてもらえるか確認した上での寄付でしたので・・・残念。まぁこれも人生ですね。
また、長野に寄付した数年後、「訪問記」なるものを発見しました。そこには、当時の会話の内容が詳細に書かれていました。また、父は俳句の指導を受けたようで、虚子からいただいた言葉が書かれていました。毎月5句を送るようにと言われ感激したようですが、残念ながら亡くなる直前の話のようです。
この時の高浜虚子の言葉は重く深く、今となっても意味ある重要な教えだと思います。機会があれば紹介させていただきたいです。
さて、それから数十年後、晩年の父は、徳富蘇峰に傾倒していたようです。またまた、いただいたハガキを家宝と詠み、蘇峰の著書の一文を書き写した紙を、大切に財布に入れ、お守りのように持っていました。理由は今も謎です。
徳冨蘇峰は、「八重の桜」の八重の今後の夫である新島襄の門下生だそうです。多分、今後ドラマに登場すると思います。蘇峰の弟は、徳富蘆花です。徳冨蘆花といえば、トルストイを訪ねた日本人であり、トルストイアンと呼ばれるほどトルストイ的な生活をした人。父の書棚には、トルストイの「人生論」もあり、時代を超え、親子が同じ作家に関心を持っているように思います。遺伝子でしょうか。
私は、貧乏は恥ではないと思います。人格者は身なりでは判断しません。バカにするような人は相手にする必要はないと確信しています(最近、私の家族が某公務員から貧乏人と言われたそうだが・・・)。父は、貧乏だと思われても平気でした。それは、服装や職業や学歴などで判断する人ばかりではないと知っていたからだと思います。
高浜虚子は、私にとっても命の恩人です。あの俳句がなければ、私は生まれてこなかったのですから。
真に偉大な人は、その「心」もまた偉大だと、教えていただきました。偉大な俳人高浜虚子に、心から感謝しています。
私の父は、若い時期の数年間を、当時死の病であった脊椎カリエスを患い闘病をしていたようです。家は大変に貧しく、長男であるのに働くこともできず、苦しい思いをしたようです。働く母の代わりに、病院に弁当を届けに来たのは、知的障害者であった妹だったと聞きます。当時は、障害者への差別もあったでしょう。様々な苦しみの中、毎日毎日病院のベッドの中で、死と向き合いすごしたようです。
当時の貧乏は、私の想像する貧乏とは違い、本当の貧乏だったようです。着る服にも困るような・・・。
そして、病院の看護師さんやドクターに教えていただきながら、短歌を詠みだしたようです。ある時、高浜虚子に自分の辛い状況を詠んだ歌を送りました。
スリッパをまた盗まれし看護婦は貧しき我を白眼視する
思いもよらず、高浜虚子から、返事がきました。ハガキには、一つの俳句が書かれていました。
初鏡人の心を映すべく 高浜虚子
この句に大感激した父は、病を克服し、働きだしました。そして、明治神宮春の大祭奉祝に、歌が選ばれました。
その後、父は、鎌倉の高浜虚子邸に、お礼に行ったようです。この時のことが、俳人のバイブルと称される「虚子俳話」の中に書かれています。白河から作業服姿の青年が訪ねてきたことが・・・。そして、父の短歌と共に歌詠みとして紹介されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/a6/e15d85ac3d059271e9c4cfbe003d3a7a.jpg)
写真は、高浜虚子の直筆の手紙をガラスに焼き付け保存したもののコピーです。原本はお返ししても、あまりの嬉しさに記念に残したかったようで、父が他界した後、金庫の奥にあるのを発見しました。宝物だったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/bf/bb9203621ca4185953ba94038e6c79b6.jpg)
虚子俳話・・・1冊は、鎌倉でいただいた本。1冊は、父との俳話が書かれた本。そして、「無名者の歌」には、父の短歌も掲載されています。最近では、「白河の歌人」と言ってくださる方もいて、とても嬉しく思っていますが、最後まで自費出版もせずに、質素に暮らしていました。自費出版などは、貧乏人がすべきではないと考えていたのでしょう。
このガラス版やハガキなどは、すべて長野県の高浜虚子記念館に寄付しました。父も喜んでいると思います。高浜虚子全集の書簡の巻には父のいただいた手紙が父の名前と共にあります。これは白河市の図書館に寄付しましたが、その後行方不明(後日検索してもなかった)。白河市と高浜虚子とのつながりを示す貴重な本だと思い、白河市図書館に置いてもらえるか確認した上での寄付でしたので・・・残念。まぁこれも人生ですね。
また、長野に寄付した数年後、「訪問記」なるものを発見しました。そこには、当時の会話の内容が詳細に書かれていました。また、父は俳句の指導を受けたようで、虚子からいただいた言葉が書かれていました。毎月5句を送るようにと言われ感激したようですが、残念ながら亡くなる直前の話のようです。
この時の高浜虚子の言葉は重く深く、今となっても意味ある重要な教えだと思います。機会があれば紹介させていただきたいです。
さて、それから数十年後、晩年の父は、徳富蘇峰に傾倒していたようです。またまた、いただいたハガキを家宝と詠み、蘇峰の著書の一文を書き写した紙を、大切に財布に入れ、お守りのように持っていました。理由は今も謎です。
徳冨蘇峰は、「八重の桜」の八重の今後の夫である新島襄の門下生だそうです。多分、今後ドラマに登場すると思います。蘇峰の弟は、徳富蘆花です。徳冨蘆花といえば、トルストイを訪ねた日本人であり、トルストイアンと呼ばれるほどトルストイ的な生活をした人。父の書棚には、トルストイの「人生論」もあり、時代を超え、親子が同じ作家に関心を持っているように思います。遺伝子でしょうか。
私は、貧乏は恥ではないと思います。人格者は身なりでは判断しません。バカにするような人は相手にする必要はないと確信しています(最近、私の家族が某公務員から貧乏人と言われたそうだが・・・)。父は、貧乏だと思われても平気でした。それは、服装や職業や学歴などで判断する人ばかりではないと知っていたからだと思います。
高浜虚子は、私にとっても命の恩人です。あの俳句がなければ、私は生まれてこなかったのですから。
真に偉大な人は、その「心」もまた偉大だと、教えていただきました。偉大な俳人高浜虚子に、心から感謝しています。