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(増補版)282E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月~1868年5月)

2016-01-25 03:21:15 | 日記
題:(増補版)282E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月~1868年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年5月3日(4月11日)江戸城受渡し
  江戸城受渡しの時、
  官軍の方からは、予想通り、西郷が来ると言うものだ
 から俺は安心して寝ていたよ。
  そうすると皆のものは、この国事多難の際に、勝の気
 楽には困ると言って、つぶやいていた様子だったが、
  なに、相手が西郷だから、むちゃな事をする気づかい
 はないと思って、談判の時にも、俺は欲は言わなかった。
  「ただ、幕臣が飢えるのも気の毒だから、それだけは
 頼むぜ」と言ったばかりだった。
  それに西郷は、70万石くれると向こうから言ったよ(
 氷川清話)
1868年5月3日(4月11日)勝海舟、城地・武器等引き渡し済
 む。
  8日より11日まで、昼夜四方を巡行し、その動静を伺う。
  是日、海軍局の屋上より砲撃を望ませる。
  若し、一度不測の変が起これば、官軍に駆入り、その
 誤りを一身に受けようと決心したのに、無事だったのは
 天与云々(氷川清話)
  徳川慶喜が、水戸へ向け出発した日。「御城、武器等、
 引渡済む〈勝海舟日記)」の日であった。
1868年5月3日(4月11日)徳川慶喜、水戸へ
  江戸城が無血開城され、同じ日、徳川慶喜は、上野寛
 永寺を出て水戸へ向かう。
  彰義隊は、護衛を申し出たが許されず、わずかに天野
 八郎ら彰義隊の幹部が、千住大橋まで見送った。
  春も未だ あはれと思へ 大方の、春を春とも 知ら
 ぬ我が身を、
  旧暦2月13日から4月11まで、慶喜は、春の上野に過ご
 した。
  全山桜の山である。
  普通なら、心浮き立つ春の美しい桜も、心痛で・・、
 慶喜には、よその世界のように映ったであろう。
  有栖川宮大総督が、江戸に到着する。
  官軍が進駐し、江戸近郊では、小規模な戦争が展開し
 た。
  幕臣の日記:薄曇り。上様(慶喜)今朝、千住御通に
 候ふ由。
  御鑓一節御鉄砲一挺も無き、御馬うえに候ふよし。
1868年5月3日(4月11日)榎本武楊が軍艦に立てこもり
  館山に去り、撤兵頭・福田八郎右衛門は、部下を引き
 連れ上総下総に脱走と、多くの幕臣は「無血開城」を潔
 しとしなかった。
  江戸周辺では、官軍とのごぜりあいが続発した。
  そして、砲火を浴びる危険が増し、官軍の検問も厳し
 くなった。
  氷川清話:勝海舟、総督より軍艦取扱御委任あり、つ
 いで房州に行き、開陽丸に入り説諭し、品海に乗戻させ、
 4隻引渡、事務完了。
1868年5月3日(4月11日)西郷・・去る、
  官軍が江戸城に入ってから、市中の取締りが甚だ面倒
 になってきた。
  これは幕府は倒れたが、新政府が未だ敷れないから、
 ちょうど無政府の姿になっていたのさ。
  しかるに、大量なる西郷は、意外にも、実に意外にも、
 この難局を、俺の肩に投げかけておいて、行ってしまっ
 た。
  「どうかよろしくお頼み申します、後の処置は、勝さ
 んが何とかなさるだろう」と言って、江戸を去ってしま
 った(氷川清話)
1868年5月3日(4月11日)彰義隊と官軍のこぜり合い
  慶喜が去った後、
  残された彰義隊に「慶喜守護」の名目はなくなり、「
 輪王寺宮と徳川霊廟の守護」がその名目となる。
  官軍の江戸占拠を面白くなく思う者たちは、彰義隊に
 投じ、各藩脱藩の者も加わった。
  最初は、一橋家随従の士を中心にした思想集団であっ
 た彰義隊は、2~3ヶ月の内に水膨れした。
  その数3000ともいう。
  かなり整然とした組織と、守備の部署を持っていた。
  江戸の市民の中には、彰義隊を頼もしく思い、占領軍
 である官軍を快く思わない者が多かった。
  吉原では「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」と言って
 大いにもて、一方、薩摩などは「田舎侍」として軽くあ
 しらわれた・・らしい。
  会津も人気があった。
  下谷坂本あたりで遊んでいた子供が、官軍の錦ぎれを
 見て、坊は会津だから坊にお従い、と言い、官軍は色を
 なして親に、お前たちがもの弁えもなく、常に、官軍を
 そしり、会津を誉めているから、子供までそういうのだ、
 と腰の刀を揺らめかした、と閏4月の「此花新書」に出て
 いる。
  そのうち、官軍と彰義隊の前哨戦がいたる所である。
  官軍の酔っ払い3~4人が、谷中三崎町で、18番隊の使
 い手・関規矩守(きくもり)とすれ違った。
  いきなり関に向かって「馬鹿」と罵った官軍を、関は
 一太刀でやり、そこへ17番隊の者が通りかかって、あと
 二人を追いかける。
  一人は、本郷坂まで追われて地蔵塚前でズタズタにさ
 れ、もう一人は、団子坂上千駄木町大観音町で、左右の
 腕を斬り落とされて死んだ。
  「これがたいした評判で、3人とも薩摩の侍だという噂
 であった」と「戊辰物語」は伝えている。
  この三人の死者の墓は、三崎町大円寺にあり、本名も
 分かっている。
  その他にも、彰義隊との斬り合いがあり、まさに一触
 即発、おさまらない官軍は、西郷の手ぬるさを責める。
  勝安房は、4月末の日記に書いた。
  「此頃、彰義隊之者等、頻(しきり)に遊説し、其等
 倍(ますます)多く、一時之ふそう軽挙を快とし、官兵
 を殺害し、東台地屯集、ほとんど4000人に及ぶ」と。
1868年5月3日(4月11日)岸田吟香(きしだぎんこう、画
 家の岸田劉生の父、新聞事業の先駆者)が編集する新聞
 「横浜新報もしほ草」が発刊した。
  官軍が、江戸占領後、一時、江戸の新聞は、すべて発
 行を中止されたが、この新聞は、横浜居留地での発行で
 あり、また、外人所有のため明治政府の干渉を受けなか
 った。
  内外のニュースを平易な文章で紹介した貴重な新聞で
 あった。
  また、この新聞が有意義だったのは、幕府を支持する
 フランス、そして、薩摩(さつま)・長州の両藩を後援す
 るイギリスなどを、内乱の虚に乗ぜんとする外国勢力の
 恐るべきことを繰り返し警告した。
  1870年3月に、第42編で発行を中止した。
1868年5月12日(4月20日)官軍が、会津に向ふ
  幕臣の日記:晴夕風立。官軍会津に向ふ。
  この頃の武士の母の気持ち・・、
  大村藩の北伐軍二番隊の鼓手の浜田勤吾(鼓手は、兵
 隊が進軍するときに列が乱れないようにするためや、兵
 士を勇気づけるために太鼓を叩く人)は、
  秋田の角館の郊外・刈羽野での激しい戦いで戦死して
 しまった。
  大村兵や角館の人達は、死を悲しみ、手厚く葬った。
  その時、勤吾の衣類の襟に縫い付けてあった勤吾の母
 の歌が見つかった。
  「二葉より 手くれ水くれ 待つ花の 君がみために
 咲けやこの時」
  母は、二葉の様な幼少の頃より、あなたに手くれ水く
 れて、花になるのを待っていました、今がこの時です、
 君がみために、今、大いに咲きなさい(公・おおやけの
 のために大いに働きなさい・・殉じても良いという気持
 ちで・・)。
  この歌に心を強く打たれた角館の方達は、勤吾の母の
 気持ちを思い、涙を流した。
  今でも角館では、大村兵や勤吾少年の事が語り継がれ
 ているという。
  また、この縁で、昭和54年(1979年)、大村市と角館
 町(現:仙北市)は姉妹都市になった。
  そして、勤吾少年の記念碑が大村公園と、角館の神明
 社に建てられている。
1868年5月、戦いは、会津へと移って行く・・、
  場所をかえて続く戦いによって・・和は、抜きがたい
 ものとなっていく。
  海舟は、だからこそ、いよいよの場合は、慶喜を船で
 逃がし、海外に亡命させる手も考えたという。
  日清戦争までの明治の28年間だけでも、事件は絶えず、
 平穏な時とてなかった。
  その間にあって、不平士族というものがいつも問題の
 中核にあった。
  徳川家臣団の存在、すなわち、静岡県士族の不平とい
 うものも決して見過ごす事の出来ない問題であった。
  これを慰撫して、さまざまな機会、特に、明治10年の
 西南戦争にも動揺させないために、海舟は、目に見え
 ない所で苦心していた。
  それには、慶喜、家達(いえさと)はじめ徳川一門の
 動きにも厳重な注意と配慮が必要であった。
  旧徳川家臣団の中から反乱が起こっては、あの江戸城
 無血引渡しの意味がなくなってしまう、と海舟は考えて
 いた。
1868年5月13日(4月21日)神戸に湊川神社(みなとがわじ
 んじゃ)を創建した。
  楠木正成を主神とし、楠木正行・楠木正孝ら一族将士
 を配祀する。
  正成は、九州から攻め上る足利尊氏を迎え撃ち、ここ
 で敗死した。
1868年5月14日(4月22日)伊藤博文(兵庫県知事)が、木
 戸孝允を招き、国内で初めて馬車に試乗す(湊川神社の
 参拝の折)
1868年5月15日(4月23日)東山道の官軍が、下野宇都宮を
 復す(大鳥圭介逃れて日光山に入る)
1868年5月16日(4月24日)奥羽の官軍が、白河城に迫る。
1868年5月16日(4月24日)最初のハワイ移民
  ハワイへの移民は、急増するサトウキビ畑や、製糖工
 場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、
  また、関税が撤廃された1876年以降に、その数が増え
 始めた。
  中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットラ
 ンド、プエルトリコなど、様々な国から移民がハワイ島
 行ったが、日本から行った移民が最も多かった。
  日本からの移民は、1868年から開始され、
  1902年には、サトウキビ労働者の70%が日本人移民で
 占めらた。
  1924年の排日移民法(1924年移民法)成立まで、約22
 万人がハワイへ渡った。
  この移民法は、アジア出身者について全面的に移民を
 禁止する条項があった。
  そして、アジアからの移民の大半を占めていた日本人
 が排除されることとなった。
  アメリカ合衆国政府に対して、日系人移民への排斥を
 行わないよう求めていた日本政府は衝撃を受けた。
  白人以外は、すべての人間は移民禁止とされ、露骨に
 肌の色で差別する、日本人を標的にし、人種差別を行な
 った。
  卑劣な事に、日本人漁業禁止令や、日本人児童の修学
 拒否など、数々の排日行為が行われた。
  しかし、移民した日系人たちは勤勉で粘り強く仕事を
 こなし、ある程度の成功を掴む者も現れた。
  そして、日本からの移民の多くは、契約期間満了後も
 ハワイに定着し、日系アメリカ人として、ハワイの社会
 の基礎を作り上げて行った。
1868年5月17日(4月25日)京都裁判所を京都府と改め、最
 初の府知事に長谷信篤を任命した。
1868年5月19日(4月27日)大村益次郎が、新政府の軍防事
 務局判事に任命された。
1868年5月19日(4月27日)坂本龍馬が率いていた海援隊が
 解散した。
  同時に「土佐商会」も閉鎖となった。
1868年5月20日(4月28日)官許を得ざる出版刊行物の領布
 売買を禁じ、出版物の取締を厳にす。
1868年5月(4月)福沢諭吉が、芝新銭座に英学塾を移転し、
  慶応義塾と改称した(1871.3-芝三田に再移転)。
1868年5月(4月)神田に西洋洗濯店が開業する。
1868年5月22日(閏4月1日)慶喜の移封などを建白
  肥前佐賀藩・大木喬任と江藤新平は、岩倉具視に建白
 書を提出した。
  今だに関東以北がくすぶるなか、速やかな慶喜の移封
 と天皇陛下の東幸、「天子東方御経営の御基礎の場」江
 戸城をもって東京と定め、東西の両京の設置を唱えた。
  両者の提出した意見書に、「江戸城を以って東京と」
 定め、行く行くは「東西両京」の間に鉄道を開設するが、
 まず、天皇陛下が、関東と東北の平定と鎮圧のために、
 東京に行幸すべきと述べた。
  これは二都論だった。
  この新鮮さは、江戸を東の京とし、そこに天皇陛下が
 乗り込んでゆくという発想だった。
  これ以後、政府内では「東京の説(=江戸を東京とす
 る説)」が一躍大きな課題となった。
1868年5月22日(閏4月1日)パークスが、大坂城にて、ビク
 トリア女王の信任状を、明治天皇に提出した(外国によ
 る最初の明治政府正式承認)
1868年5月23日(閏4月2日)勝海舟、総督府より昨今の時勢
 につき苦慮尽力を深く感心され、尚、この上の見込み忌
 なく申し出る旨、及び、江府鎮撫万端取扱御委任の旨御
 沙汰あり(氷川清話)
1868年5月24日(閏4月3日)明治新政府の初の言論弾圧、
  福地源一郎(政治評論家)が、江戸で、「江湖新聞(
 佐幕派の新聞)」を創刊した(主筆・福地源一郎)。
  旧暦5月の彰義隊が上野で敗れた後、掲載した記事・・、
  「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権
 が徳川から薩長に変わっただけではないか。
  ただ、徳川幕府が倒れて、薩長を中心とした幕府が生
 まれただけだ」と厳しく述べた。
  後に、新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分となった。
  そして、第16号に載った「強弱論」のため福地は逮捕
 された。
  木戸孝允が取り成して無罪放免になったが、明治政府
 初の言論弾圧行為になった。
1868年5月26日(閏4月5日)近藤勇が処刑される。34歳(旧
 暦4月25日説あり)
  閏4月5日。晴れ、午後曇り。
  近藤勇は、流山にて彦根の人数に生け捕られ、王子辺
 り首を切られ其首はすぐにいづれへか持ち行き候由(幕
 臣の日記)
  近藤勇は、鳥羽伏見の戦いを経て関東に下り、甲州勝
 沼、下総流山で官軍と戦ったが破れて降伏し、板橋庚申
 (こうしん)塚で死刑になった。
1868年5月26日(閏4月5日)小栗上野介忠順が、斬首された。
  知恵袋と言われた小栗(旧暦4月6日、1868年4月28日説
 あり)、
  最後の将軍・慶喜に信頼され、外国奉行や勘定奉行の
 要職を歴任し、財政の立て直しをした小栗。
  また、横須賀製鉄所の建設や、日本初のフランス語学
 校を設立したり、貢献度の大きい小栗。
  確かに主戦論者で強硬論派であったが、この様な主張
 は彼だけではない。
  そして、罷免された後、静かに領地の上野の権田村(
 現在の群馬県)で暮らしていたところを、急に捕縛され、
 ろくに取り調べもなされず、斬首されてしまった。
  榎本武揚らは、凾館まで行って抵抗したのに死罪とな
 らず、新政府にまで用いられている。
  小栗は、何が違ったのか?
  近藤勇は、捕縛された後、ちゃんと取り調べや尋問を
 受けた、斬首になったが・・、それなのに、小栗は?
  そのカギを解く言葉が、大隈重信にある・・、
  「小栗は、謀殺される運命にあった。
  何故なら明治政府の近代化は、そっくり小栗のそれを
 模倣したものだから・・」と、
  また、薩摩藩邸焼き討ち事件などで、小栗を恨む勤皇
 の志士たちが居たという説もある・・、
  この、時機を逸した新政府の小栗処刑には、色々な説
 があった・・後ろめたさが、新政府にあったのも確かだ
 った。
  榎本武揚のように、優秀な人材ゆえに、用いればよい
 ものを、腹を割って用いることのできなかった新政府側
 に問題があったと言える。
1868年5月27日(閏4月6日)小栗忠順、無念の死、勝は、
 言った・・、
  明治となる1868年の正月には、早くも伏見鳥羽の戦い
 が開かれ、300年の徳川幕府も瓦解した。
  小栗も、今は仕方がないものだから、上州の領地へ隠
 居した。
  それを、かねて、小栗を憎んでいた土地の博徒(ばく
 ちうち)や、また、小栗の財産を奪おうという考えの者
 どもが、官軍へ讒訴(ざんそ)したによって、小栗は、
 ついに痛ましい最後を遂げた。
  しかし、あの男は、案外清貧であったということだよ
 (氷川清話)
(付録)・・識者の言葉・・、
  宗教と道徳と歴史を学ばずして、君たちはどうして精
 神を立てるのだ。
 (志を教える 上甲晃 P80 会田雄次(京都大学教授)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)281E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年5月)

2016-01-24 02:47:57 | 日記
題:(増補版)281E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年4月27日(4月5日)官報の始まりといえる太政官日誌
 が、発行された(毎月6回) (旧暦2月23日、1868年3月16
 日説あり)
  明治新政府が、太政官総裁局日誌司に編集させ,京都
 の御用書物師・村上勘兵衛に命じて発行(創刊)させた。
  明治10年1月22日(1877年3月6日)の1177号まで発行さ
 れた(1877年1月までの説あり)。
  日誌の内容は、新政府の法令,人事,伺書への回答な
 どであった。
1868年4月28日(4月6日)明治天皇陛下が、大阪城中におい
 て、諸藩兵(陸軍)の操練を観給う。
  明治天皇は、明治元年3月21日(1868年4月13日)には
 大阪行幸をなされて、
  3月26日(1868年4月18日)には、天保山(てんぽうざ
 ん)沖の海軍をご親閲になられていた。
1868年4月28日、西郷とイギリス公使との接触・・、
  勝海舟が進んで接触し、その力を利用しようとしたの
 はイギリスの公使パークスと、その書記官のアーネスト・
 サトウであった。
  アーネスト・サトウの書いた『一外交官の見た明治維
 新』にその事が出ている。
  「4月1日(1868年)には、江戸へ出て、同地の情勢を
 探ったのである。
  ・・私の入手した情報の主な出所は、従来、徳川海軍
 の首領株であった勝安房守であった。
  私は、人目を避けるため、ことさら暗くなってから、
 勝を訪問する事にしていた。
  勝は、慶喜の一命を擁護するためには戦争も辞せずと
 言い、
  (戦争は)天皇の不名誉となるばかりでなく、内乱を
 長引かせるような過酷な要求は、必ずや、西郷の手紙で
 阻止されるものと信じると述べた。
  勝は、また、ハリー・パークス卿に、天皇の政府に対
 する卿の勢力を利用して、こうした災いを未然に防いで
 貰いたいと頼み、長官も、再三、この件で尽力した。
  特に、西郷が、4月28日に、パークス卿を横浜に訪ねた
 時には、
  卿は、西郷に向かって、慶喜とその一派に対して、苛
 酷な処分、特に体刑をもって臨むならば、ヨーロッパ諸
 国の世論は、その非を鳴らして、新政府の評判を傷つけ
 る事になろうと警告した。
  西郷は、前将軍の一命を要求するようなことはあるま
 いし、
  慶喜をそそのかして、京都へ軍を進めさせた連中にも、
 同様に寛大な処置が取られると思うと語った」。(氷川
 清話)
1868年4月28日、海舟の趣旨は・・、
  幕末の討幕運動の過程で、「徳川に代わるものは、薩
 摩か、長州か」といった、関ケ原の合戦の仇討的な私闘
 に終わらせず、
  できるだけ「公的」なものに高めようとしたのが、竜
 馬・海舟・南州らの悲願であった。
  慶応4年4月28日付で「西郷参謀之与へて方今人心離散
 之基源を論ずるの建言」という海舟の文章の中に、「第
 4、一家不和を生ずれば一家滅亡す。一国不和を生ずれば
 其国滅亡すべし」とあるが、
  海舟の頭脳には、あの長崎伝習所いらい夢寐(むび、
 眠って夢を見ること。また、その間)にも忘れない「近
 代国家」のイメージがあった。
  その国家観念は、「私」でなく「公」であり、「不正」
 でなく「正」「一正」「大正」でなければならなかった。
 ・・と同時に、この建言にあるように「和」(連帯感)
 が無くてはならない。
  平和裏に江戸城を引き渡した海舟の「趣旨」は、日本
 を近代国家に作りかえるためには、泥沼の闘争に陥って、
 救いがたい分裂と憎悪とを国民に残してはならない、と
 いう点にあった。
  幕府は、日本政府として「公」であり、これは政権返
 上の際に既に譲渡して今はない。
  残るのは徳川家とその家臣団であり、生活権は主張で
 きるが、それ以上は「私」に過ぎない。
  その「私」のために戦うとすれば、私闘になって、大
 義名分は失われる。
  しかし、実際問題として、徳川慶喜を死罪にすれば、
 徳川家臣団の恨みは残り、国家の不安定な状態に陥る。
1868年4月30日(4月8日)大総督の有栖川宮熾仁親王が、本
 営駿府を発った。
1868年4月、学習院・・再興・・、
  京都に学習院が再興された。
  この年の4月、京都学習院を大学寮代と改称した。
  学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育
 機関にあった。
  19世紀の初め、光格天皇は、朝廷の権威の復活を強く
 意識し、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を構
 想した。
  続く、仁孝天皇の時代に、公家のための学問所を作る
 計画が決まり、
  孝明天皇に代わった1847年(弘化4年)3月、京都御所
 の東側に学問所の設置が実現し、講義が開始された。
  翌々年の1849年(嘉永2年)に、「学習院」の額(=勅
 額)が下賜され、学習院の名称が定まった。
  勅学 当初の学則には、「漢学」とともに「和学」を重
 視する教育方針が示されていた。
  1853年(嘉永6年)、ペリー来航という大きな転機を迎
 えて、幕末の動乱が始まり、尊王攘夷運動が拡がり、長
 州藩士をはじめとする尊攘派の志士は、京都に参集した。
  そして、同派の公家と結んで朝廷を動かそうとした。
  京都の学習院は、一時期、尊王攘夷派の公家と志士た
 ちの集会所として利用されたりした。
  だが、1863年(文久3年)に公武合体派による朝廷内で
 のクーデター(八月十八日の政変)がおこり、尊攘派と
 長州藩の勢力は京都を追われた。
  ここで、学習院は、本来の教育機関の姿に戻った。
  そして、1867年(慶応3年)の大政奉還直後まで講義が
 行われた。
  系譜を引く京都大学校は、1870年(明治3年)に廃止さ
 れた。
1868年5月1日(4月9日)大久保利通が、初めて、明治天皇
 に参謁した。
   無上の光栄に浴して、感涙に咽ると・・、
1868年5月2日(4月10日)会津戦争へ
  藩論が分かれた美濃・郡上藩は藩士47名を秘かに脱藩さ
 せ、幕府軍側の一隊として凌霜隊(りょうそうたい)を
 結成させた。
  会津を救いたいという意見と・・二論があった。
  そして、この日、江戸の本所中の橋菊屋に集合し、江
 戸湾を船で出発した。
  海路北上し、会津へ向かった。
  出身藩の郡上八幡城郭にその功績を標す碑がある。
  この碑には隊長・朝比奈茂吉以下35人の名が刻まれて
 いる。
  4万8千石の藩の存亡がかかる故に藩論が分かれのだろ
 うが・・、
  会津へ向かった隊士たちは懸命に戦った。
  また、籠城戦を白虎隊らと共に必死に戦うが・・、
  生き残った隊士たちは、郡上へと護送された。
  藩は、新政府の目を気にして隊士たちを入牢させ、
  一時は処刑となったが、城下の寺の住職たちの嘆願に
 よって中止された。
  慰霊碑は、官軍・新政府側についたであろう藩士の子
 孫の方たちによって建立されたという。
  官軍側につくか、会津側につくか・・は、紙一重で・・
 同じ藩の隊士だったという優しさが建立の行為となった。
  また、この日に、伊予松山藩・水戸藩の脱走者から成る
 草風隊(そうふうたい)が、会津を救いたいと、会津へ
 向けて出発している。
  草風隊は、元幕府陸軍奉行・大鳥圭介の脱走に呼応し
 て、市川の鴻ノ巣台に屯集して一隊を組織したとも・・、
  隊長の天野花陰と村上求馬で、隊士はフランス式伝習
 をうけた旧幕歩兵の精鋭で、総勢100人とも・・、
  大鳥のすすめで、他の脱走部隊と共に日光へ・・、
  その途中、結城街道の武井村で官軍と遭遇し、撃退。
  この後、小山→壬生→宇都宮と転戦、そして、会津へ、
 藤原の戦いで激戦をしたことが有名。
  この隊は、凾館での戦いでも勇名を馳せた。
  隊長の村上求馬は鬼怒川の戦いで戦死した。
  明治2年5月18日(1869年6月27日)箱館の五稜郭の陥落
 で降伏し、解散となった。
1868年5月2日(4月10日)江戸城開城前日の勝海舟と将軍・
 慶喜
  西郷との談判が成立して、江戸城の無血開城が、4月
 11日と決まった。
  その同じ日に、前将軍・慶喜は、上野の大慈院を出て、
 水戸へ隠棲すべく出発した。
  精鋭200名がお供をし、見守る者は、ただ涙雨の如くで
 あった。
  「前日の夕べ、明日引き渡しの式はかくの如しと述べ、
  主公大いに苦慮したまひ、汝が処置はなはだ果断(か
 だん、物事を思い切って行うこと)にすぐ。
  宜しく沈思熟考して、次いで後事(こうじ、将来のこ
 と)に虜(おもんばか、思いめぐらす)るべしと・・、
  此際にいたって、あに他に道あらんや。
  汝にその前、臣が大任にたへずと思ひ、固辞再三つい
 に御許容これなし。
  今にして別に深慮あられんや、ただ臣一片の心あり。
  この百万の民をして、生殺二途に出でず。
  義のあるところ殺すべき共に死し、活かすべき道あら
 ば共に生きんか。
  人事を尽くして成否を天に任す。
  臣此際にあたり終に一点の疑念なく、また、一点の恐
 懼(きょうく、おそれかしこまること)なし。
  ただ希(ねが)ふ、疑念一片その胸中に出せば、冥々
 (めいめい、暗いさま。暗くて見分けがつかないさま)
 中大いに感触生じ、迷想百出、ついに初心貫徹せず。
  若し自ら信じて疑いはざる時は、終に貫徹せざるなか
 らんか。
  歳月は過ぎ易く、心中 し易く、危うきを忘れ、難を
 いとふは人情の常なり。
  臣ここに思ふところあり。
  今後十数年間、臣が肝識(知識、見識が習慣化し、本
 人の特性、徳性までになった段階)衰へざるを了悉(り
 ょうしつ、ことごとく理解すること)す。
  もし命の存するあらば、必ず我が趣旨をして貫徹せし
 むべきなり」。
  慶喜と勝。ここに人間の資質の差がある。
  慶喜は利口そうに見えても所詮殿様育ちである。
  有能な事は、かつて蛤御門の変で、桂小五郎をして「
 東照神君の再来か」と驚かしめたほどの勇気もあり知略
 もあるが、大変に処して節を全うするにはなお弱い所が
 ある。
  「将軍江戸を去る」の日にあたっても、まだ勝に向か
 泣き言を言っている。
  万事一任した筈の勝に向かってまだ文句をつけずにい
 られない。
  勝が何を考えているか、その深謀遠慮、その古井戸の
 様な心の深さは、慶喜には届かない。
  今後十数年間、命のある限り、勝は「必ず我が趣旨を
 して貫徹せしむべきなり」と誓う。
  その「趣旨」とは何か。
  何を貫徹するつもりなのか。
  幕臣からは「腰抜け」「意気地なし」「大逆賊」「薩
 長のイヌ」と罵(のの)られ、
  「徳川を売るもの」といわれ、
  今また、慶喜からさえも、「汝が処置ははなはだ果断
 にすぐ」と文句をつけられている。
  しかし、勝は、衷心深くこの政治的解決は正しかった
 と自分に言い聞かせている。
  その正しさを今後十何年かかっても歴史において証明
 すると心に思っていた。
  江戸城無血引き渡しは、歴史の終末、結論ではなくて、
 このままでは未完成で、これからまた、舞台が始まる。
  これは、一緒に仕事をした大久保一翁にさえ分かって
 もらえてない。
  維新の頃には、妻子までもおれに不平だったよ。
  広い天下に、おれに賛成する者は一人もなかったけれ
 ども(山岡や一翁には、後から少し分かったようであっ
 たが)、俺は、常に、世の中には、道というものがある
 と思って、楽しんでいた・・と、
  海舟は、孤独であった。
  「この道や 行く人なしに 秋の暮れ」(芭蕉)
  江戸の戦争を回避し、慶喜の命を守り、徳川70万石を
 確保してみても、
  海舟の心は、寂たるものであったろう(氷川清話)
1868年5月2日(4月10日)勝海舟、前日と同じく池上へ行く
 (氷川清話)
1868年5月3日(4月11日)江戸城開城。
  江戸城が無血開城した。
  氷川清話:江戸開城。江戸城を朝廷に差し出す。慶喜、
 水戸に下る。
  受渡式の官軍代表・西郷隆盛、徳川方代表・大久保忠
 寛。
  政体書を公布し、新官制を定めた(三権分立、官吏公
 選)
  徳川慶喜が、水戸へ退去したこの日に、榎本武揚や大
 鳥圭介らの幕臣が、海陸両軍を率いて江戸を脱走した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

2016-01-23 04:03:58 | 日記
題:(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月5日(3月13日)神仏分離(神仏判然令)(~1868
 年12月1日)
  新政府が、太政官布告で「神仏判然令」を出す。
  政府の政策的意図による神仏分離令・排仏毀釈により
 神仏混淆がなくなる。
  神道振興で、諸社が格式をそなえ、神社と仏寺の習合
 が禁じられる。
  多くの仏寺が、神社として存続するが、廃滅を余儀な
 くされた寺もある。
  廃寺改称が30か寺にのぼる。順次移り変わる。
  ローマ法王が、日本の神道は良いが、仏教は駄目と言
 った。
  キリスト教の偏するNHKはその為、この明治の神仏
 分離令的な行為を現代でもしている。
  仏教を蔑視し、無視するNHKとなっている。
  明治の廃仏毀釈も酷かったが、今のNHKもひどい。
  神道の国教化の方針を採用し、神仏習合を排した。
  神道の神に仏具を供えること、また、「御神体」を仏
 像にする事を禁止し、
  神社に奉仕していた僧侶に還俗を命じた。
  これをきっかけに、全国各地で廃仏毀釈の運動が起き
 た。
  各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。
  神官や国学者が煽動した。
  西洋は、良いのだとか、西洋に追い付けの盲目の意思
 も働いた。
  尚、この様な破壊の例は、キリスト教宣教師が、民衆
 を扇動して行なった例がある。
  この時は、神社や仏閣のみさかいが無かった。
  豊臣秀吉から「何故、穏便にできないのか」とたしな
 められた位だった。
1868年4月7日(3月15日)川路聖謨(かわじとしあきら、幕
 臣)が没。
  川路聖謨が、この日、江戸城開城を悲観し、自邸でピ
 ストル自殺をした。
  河村修就と同様に幕府の外交官として、開国に向けて
 力を惜しまなかった人物の自害であった。
  徳川将軍家への忠誠を精神の背骨におき、海外事情に
 通じ開明性をもち続けた人だった。
  「天つ神に 背くもよかり 蕨摘み 飢えし昔の 人
 をおもへば」。
1868年4月7日(3月15日)有栖川宮熾仁親王が、筑前、津和
 野両藩の兵を率いて京都を出発した。
1868年4月、勝海舟、江戸城地引渡しを談ず
  勝海舟、池上に行き、先鋒総督府に江戸城地引渡しの
 ことを談ず(氷川清話)
1868年4月、陛下に御拝謁・・、
  大久保は、行幸の行在所の大阪本願寺別院で天皇陛下
 に拝謁した。
1868年4月12日(3月20日)徳川家処分に関し、三職会議(
 三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、
 広沢正臣ら)
1868年4月12日、秋山真之(あきやまさねゆき、海軍中将)
 が愛媛県に誕生(1868年~1918年)
  日露戦争(1904年)で東郷司令長官の参謀。
  戦略家として知られた。
  「天気晴朗なれども波高し」などの戦報の文章は有名。
  1897年にアメリカに留学し、翌年・1898年にアメリカ
 =スペイン戦争観戦のためアメリカ運送船『セグランサ』
 号に乗組んでいる。
1868年4月(3月)徳川家事務を田安邸に移す(氷川清話)
1868年4月(3月)各藩に貢使を命ず(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)明治天皇が、親征と大坂行幸の
 ため、京都を出発。閏4月8日京都に還幸。
  天皇大阪に行幸(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)英軍艦で将軍を亡命・・、
  1968年3月21日と27日の両日の「海舟日記」には、
  「英吉利人来訪、我が心理を話す、彼、善(よし)と
 称す」とか、「英公使パークス氏並海軍総督キップル氏
 を訪ふ、
  此程之趣意を内話す、英人大に感ず」と書き留めてあ
 る。
  これは、パークスが、海舟の立場に同情して、海舟に
 協力することを約束したのであり、
  横浜にある英軍艦アイロンヂック号の艦長キップルに
 紹介し、その艦の出発を一か月延期して、品川に留めて
 おこうと言ったのであった。
  その意味は、もし西郷との談判が不調に終わって、戦
 争となったら、慶喜を坊主にして法衣を着せて、浜御殿
 から小舟に乗せてアイロンヂック号に運んで、そのまま
 イギリスに亡命させようという計画であった(氷川清話)
  そして、また・・、氷川清話
  勝海舟、英公使パークス氏を訪い、英軍艦の艦長キッ
 プル氏を招き、厚意を謝し、密事を談じ此の艦を1ヶ月
 滞船させることを約束。これは海舟の深思遠慮の所であ
 る(氷川清話)
1868年4月、軍艦4隻朝廷に納む。その余4隻徳川に賜る
 (氷川清話)
1868年4月、勝海舟、狙撃される・・、
  勝海舟、半蔵門外で官兵に狙撃され落馬し死を免れる
 (氷川清話)
  慶応4年4月末に、官兵3、4人が小銃を以って俺を
 狙撃した。
  しかし、幸いに体には当たらないで、頭の上を通り過
 ぎたけれど、その響きに馬が驚いて、後ろ足で立ち上が
 ったものだから、俺はたまらず、あおむけざまに落馬し
 て、路上の石に後脳を強く打って、一時気絶した。
  けれども暫くすると、自然に生き返って、辺りを見回
 したら、誰も人はおらず、馬は平気で道端の草を食って
 いた。
  官兵は、銃丸が当たったものと心得て立ち去ったので
 あろう(氷川清話)
1868年4月16日(3月24日)パリにて、初めて邦字新聞が、
 発行された(石版刷「世の噂」)
1868年4月16日(3月24日)「九州鎮撫長崎総督府」が、九
 州の34藩の全てを管轄することになった。
1868年4月18日(3月26日)天皇陛下が、軍艦を観閲された。
  日本最初の観艦式が行われた。
  朝廷は、2月6日に、海陸軍務総督の名で7藩(鹿児島、
 山口、土佐、佐賀、久留米、福岡、広島)から各軍艦と
 汽船1~3隻を徴発して集め、この機に在大阪の軍艦を一
 同に会わせて、3月26日に、天保山沖で天皇の親閲を行な
 う事を決めた。
1868年4月24日(4月2日)勝海舟らに、江戸の取締りを命ず。
 (4月29日説あり)
1868年4月24日(4月2日)ストーンウォール号(甲鉄艦)が、
 横浜に入港した。
  (官軍の海軍先鋒の大原俊実が、これを抑留した)
  ストーンウオール号(甲鉄艦)は旧名で、東艦(あず
 まかん、1872年12月7日に改名)と言った。
  この艦の艦歴は、1867年に幕府がアメリカに買取を約
 束したが、1868年に戊辰戦争が勃発し、幕府が崩壊する
 と、新政府側で買い取りたいと言い出した。
  旧幕府は、これに反発。
  横浜に至ったアメリカは、戦いの決着がつくまで売ら
 ないとした。
1868年4月、大原侍従・・、
  勝海舟が、横浜に出張し、大原侍従の旅館へ参謁(さ
 んえつ、参上して目上の人や尊貴な人に会うこと)、公
 の厚意を謝し、
  且つ、主家の至誠、又、臣節(しんせつ、臣下として
 守るべき節操)の重きを述ぶ(氷川清話)
  大原侍従は大原俊実のことで・・、
  佐賀藩の海軍奉行の島義勇は、この年3月(1868年4月)
 に、官軍の海軍編成を命じられている。
  そして、この月末に、彼(島義勇)は、勝海舟に面会
 し、勝を新政府側に帰順させようとした。
  海舟日誌に、以下の記述がある・・、
  「海軍先鋒・大原俊実、佐賀藩士・島団右衛門義勇を
 して旧幕府陸軍総裁・勝義邦に説き、旧幕府の軍艦を納
 れて帰順せしむ、義邦、之を辞す」と。
  官軍、もしくは、佐賀藩主は、、徳川海軍をどうにか
 せよと命じたのだろう、そして、官軍の大原俊実と佐賀
 藩士・島団右衛門義勇が動いた。
1868年4月25日(4月3日)近藤勇・・、
  近藤勇が、下総流山にて、官軍に抗して虜となった。
1868年4月25日(4月3日)新聞の発刊・・、
  福地源一郎が、江潮新聞を発刊した。
1868年4月25日(4月3日)慶応義塾・・、
  福沢諭吉が、運営する英学塾を芝新銭座に移し、「慶
 應義塾」と改称した。(閏4月説あり)
  尚、1871年に、三田へ移転している。
  慶応大学のホームページには・・、
  「4月 鉄砲洲から新銭座に移り、時の年号(9月改元)
 に因んで慶應義塾と名づける。
   同月 長女里が生まれる。
  5月15日 上野彰義隊の戦の砲声を耳にしながらウェー
 ランド経済書の講義をする。
  8月ごろ、幕臣をやめて帰農。
  この年、明治新政府よりたびたび出仕を命ぜられたが、
 固辞する」・・とある。
  新銭座移転後は、もっぱら民間で活発な著作活動を行
 なった・・ともある。
  「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」など
 は、その代表作であり、
  その中で、近代文明を紹介するとともに、門閥制度に
 対する徹底的な憎悪を吐露し、官尊民卑を激しく攻撃し、
 儒教に関わる実学を主張した。
  「独立自尊」の4字に集約される国民の創出に努め、
 政府及び民衆に比類ない影響と勇気を与えた。
  一方、「演説」を創始し、明六社に参加し、さらに、
 家族道徳の革新には終生関心を持ち続けた。
  しかし、自由民権運動が起こると批判的となり、国民
 主義に移行した。
  日本の偉大な教育家であり、思想家。
  福沢諭吉は、その著「文明論の概略」で説いたものは、
 西洋文明を見習えとは言ったが、福沢諭吉の主張すると
 ころ、説くところを突き詰めれば、西欧起源の近代科学
 技術であった。
  その思想や宗教とは違う。
  西洋文明を無批判に取り入れる、まだ、何も知らなか
 った明治初期において、福沢は、冷静にものを見分けて
 いた。
  しかし、この明治初期に、福沢の様に、ものがよく見
 分けられないでキリスト教に入って行った日本人が多く
 居た。
1868年4月26日(4月4日)江戸開城の勅使が参向した。
  勅使(ちょくし、勅旨を伝える使者)が下向。
 西郷は、勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、
 旧暦4月4日には、大総督府と徳川宗家との間で最終合意
 に達し、
  東海道先鋒総督・橋本実梁、副総督・柳原前光、参謀・
 西郷らが、兵を率いて江戸城へ入城した。
  橋本らは、大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶
 頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等
 を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。
  そして、旧暦4月9日(1968年5月1日)には、静寛院宮
 が清水邸に、
  旧暦4月10日(5月2日)には天璋院が一橋邸に退去した。
  旧暦4月11日(5月3日)には、慶喜は、謹慎所の寛永寺
 から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大
 総督府が接収した。
  それより前、旧暦4月8日(4月30日)に東征大総督熾仁
 親王は駿府を発し、旧暦4月21日(5月13日)に、江戸城
 へ入城した。
  ここに、江戸城は、正式に大総督府の管下に入り、江
 戸城明け渡しが完了した。
  また京都では、旧暦4月9日(5月1日)に、明治天皇が、
 紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を
 平定したことを報告された。
..
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(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

2016-01-21 01:56:46 | 日記
題:(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年4月6日(3月14日)翌日の会談・・江戸開城談判
  再度、翌日に、西郷隆盛と勝海舟との会談が行われた。
  幕府全権の陸軍総裁の勝安房(海舟)と、新政府軍参
 謀の西郷隆盛の和平交渉が行なわれた。
  幕府側は、大久保一翁(利通)や山岡鉄太郎(鉄舟)
 、東征軍側は、村田新八、桐野利秋らが同席した。
  交渉は、江戸高輪の薩摩藩・江戸藩邸だった。
  前日に続いての、この会談で、江戸城を開城し、新政
 府軍に明け渡されることになった。
  新政府軍による江戸城総攻撃は、4月7日(旧暦3月15日)
 と、この会談の日の翌日と予定されていたが、勝の説得
 に西郷が応じた。
  江戸が戦火に巻き込まれずに済んだ。
  この後、5月3日(旧暦4月11日)に、江戸城が無血開城
 された。
  真の「名誉革命」だった(イギリスの名誉革命は偽り)。
  城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれた。
  徳川慶喜は、謹慎所の上野寛永寺から、水戸へ。
1868年4月6日(3月14日)品川談判2、
  勝海舟は、この日の事を書いた・・、
  「翌日、すなわち14日に、また、品川へ行って、西郷
 と談判したところが、
  西郷が言うには、「委細承知した。しかし乍ら、これ
 は拙者の一存にも計らい難いから、今より総督府へ出掛
 けて相談した上で、なにぶんのご返答をいたそう。
  ・・が、それまでのところ、ともかくも、明日の進撃
 だけは、中止させておきましょう」と言って、
  そばにいた桐野や村田に、進撃中止の命令を伝えたま
 ま、後は、この事について何も言わず、
  昔話などして、従容(しょうよう、ゆったりと落ち着
 いているさま)として、大事の前に横たわるを知らない
 ありさまには、俺もほとほと感心した。
  この時の、談判の詳しい事は、いつか話した通りだが、
 それから、西郷に別れて、帰りかけたのに、この頃、江
 戸の物騒なことといったら、なかなか話にもならないほ
 どで、
  どこからともなく、鉄砲玉が、始終、頭の上をかすめ
 て通るので、俺も、こんな中を、馬に乗って行くのは険
 呑(けんのん、危険な感じがするさま)だと思ったから、
 馬をば別当に引かせて、俺は、後からとぼとぼ歩いて行
 った。
  そして、ようやく城門まで帰ると、大久保一翁をはじ
 めとして、皆々が、俺のことを気遣って、そこまで迎え
 に出ておったが、
  俺の顔を見るとすぐに、「まずまず無事に帰ったのは
 めでたいが、談判の模様はどうであったか」と尋ねるか
 ら、
  その顛末(てんまつ)を話して聞かせたところが、
  皆も大そう喜んで、
  「今し方まで、城中から四方の模様を眺望していたの
 に、初めは、官軍が緒方から繰り込んでくるから、これ
 は、必定、明日、進撃するつもりだろうと気遣っていた
 が、
  先刻からは、また、反対にどんどん繰り出して行くよ
 うなので、どうしたのかと不審に思っていたのに、
  君のお話によれば、西郷が進撃中止の命令を発した訳
 と知れた」と言うので、
  俺は、この瞬間の西郷の働きが行き渡っているのに、
 実際、感服した。
  談判が済んでから、例え、歩いてとは言うものの、城
 まで帰るには、時間は幾らもかからないが、
  その短い間に、号令が、ちゃんと諸方へ行き渡って、
 一度、繰り込んだ兵隊を。また、後ろへ引き戻すという
 働きを見ては、西郷はなかなか凡の男でない、といよい
 よ感心した。
  ひっきょう、江戸百万の人民が命も助かり、家も焼か
 れないで、今日の様に繁昌しているのは、みんな、西郷
 が「諾(よし)」と言ってくれたおかげだ。
  俺は、始終、この事を思っている(氷川清話)
  勝海舟、再度、同所で西郷と会談、徳川恭順の旨を伝
 える。
  彼、よく情実を察し、明日の進撃を中止す(氷川清話)
  14・15の両日、薩摩屋敷で大総督府参謀・西郷隆盛と、旧
 幕府陸軍総裁・勝海舟の会談が行なわれた。(無血開城
 で交渉成立)。
1868年4月、海舟の後日談・・、
  海舟の「江戸城無血開城」の策が受け入れられなかっ
 た場合の・・次なる策の「江戸の町の焦土作戦」・・、
  そして、そのために用意した品々が・・、
  無血開城策が受け入れられたので、無用の長物となっ
 て・・品川の沖に捨てる事になり、
  その事を行なったが・・、余りに怪しい行為だったの
 で、大いに疑われた・・という、幸い、笑い話になった
 が、
  そこまで考えていた海舟を、結果として、この用意が
 無駄に終わって良かったのだが・・、
  人は、その愚を、海舟に感謝しつつ苦笑し、笑った。
  しかし、海舟に言わせれば・・、
  「予も亦甚だ愚拙(ぐせつ、愚かでつたない者、男性
 が自分をへりくだっていう語)を知る。
  然りといへども、若しかくの如くならざりせば、14、
 15両日の談、予が精神をして活発ならしめず、又、貫徹
 せざるものあり」。
  つまり、外交談判というものは、「気迫」である。
  いくら正理正論を述べても、人はその論に聞かず、そ
 の人に聞くものである。
  その気迫の充実、その気合いの鋭さによって、同じこ
 とを言っていても、通る時と通らない時とある。
  背景に力があり、自信がなければ、どんな立派なこと
 を言ってみても、それは「口舌の徒(こうぜつのと、言
 葉は達者であるが実行力の伴わない人を軽蔑していう言
 葉)」にすぎない。
  相手に見透かされてしまう。
  だから一見無駄なようであるが、それだけの用意、手
 配というものは無駄でないのである。
  西郷を押し切るだけの迫力があるかないのかが問題だ
 ったのである(氷川清話)
1868年4月6日(3月14日)五箇条の御誓文
  (民主主義は、日本自らのもの、既に持っていたもの、
 欧米から得たものではない)
  氷川清話:五箇条の御誓文が発す。
  明治天皇が、南殿に渡御し、公卿諸卿を率いて、天地
 神祇を祭り、五箇条の御誓文を下す。
  明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を
 標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。
  慶応4年1月、福井藩出身の参与・由利公正が、「議事
 之体大意」五箇条を起案し、
  次いで、土佐藩出身の制度取調参与・福岡孝弟が、修
 正し、そのまま放置されていた。
  それを、同年3月に入って、長州藩出身の参与・木戸孝
 允が加筆し、同じく、参与の東久世通禧を通じて、議定
 兼副総裁の岩倉具視に提出した。
  昭和21年の天皇陛下の人間宣言において、御誓文が引
 用されているが、
  天皇陛下が示されたお考えは、「これまでも皇室が決
 して独裁的なものでなかったこと示すために・・」と、
 明治天皇の五箇条の御誓文を加えられた。
  また、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召し
 である・・そうして、五箇条御誓文を発して、それが、
 基となって明治憲法が出来たので、民主主義というもの
 は決して輸入物ではないということを示す必要が大いに
 あったと思います」と。(1977年8月23日、記者会見)
  「五箇条の御誓文」の、まず、最初に・・
  一、広く会議を興し万機公論に決すべし・・とある、
  これこそ・・民主主義である。
  第二次世界大戦のとき、日本は、民主主義を欠いてい
 たから侵略戦争を起こすに至ったと、アメリカは繰り返
 し、繰り返し・・言ったが、・・
  言いがかりだ。
  アメリカは、五箇条の御誓文などの日本の歴史の史実
 などを知っているのだろうか?
  「我々(アメリカ)は、知っている」が、日本は、民
 主主義を知らないと言うのは・・蔑視だろう。
  アメリカにある蔑視意識・・キリスト教国にある有色
 人種に対する蔑視意識である。
  欧米の民主主義に匹敵するものは、既に、日本にもあ
 った。
  また、平等の考えについても、とうの昔からある日本
 なのだ。
  平等院に見学に来る外国人たちに、欧米列国より、と
 うの昔からあるという話にびっくりするが、佛教にある
 平等の理念が、既に、日本にあった。
  西欧の市民革命より600年以上も前に、日本には平等の
 教えがあり、根付いていた。
  平等院という建物さえある。
  この1例の様に、日本には、その様な教えの数々がある。
  逆に、欧米にある唾棄すべき奴隷という意識・観念は、
 日本には、まったくない。
  キリスト教の聖書には、キリスト教の神が率先して「
 奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫び、隣国の民を自国のた
 めにだけに利用しようと奴隷観念を教え、そして、説く。
  その様な教え・教義に感化された社会とは違う日本な
 のだ。
  アメリカの独立宣言の文を書いたジェファーソン(第
 3代大統領))は、奴隷を多く使った大きな牧場を経営す
 る牧場主で、人種差別の悪の行為をしている。
..
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(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

2016-01-20 03:42:30 | 日記
題:(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月1日(3月9日)山岡鉄舟が、駿府城にて、西郷隆
 盛と会見した。
  (勝海舟の和平解決の書面を提示した)
  山岡、駿府で西郷に面会、総督府の御内意を齋し帰府
 す(氷川清話)
  勝安房は、慶喜の助命嘆願の下工作のため、山岡鉄太
 郎を駿府の大総督府に派遣した。
  薩人・益満(ますみつ)、休之助を連れ、勝の書状を
 携えた山岡は、するすると敵中を抜けて、3月9日、駿府
 へ到着した。
  西郷と会談し、
  (1)城の明け渡し、
  (2)城中の家臣を向島へ移す、
  (3)兵器・軍艦を渡す、
  (4)慶喜の妄動を助けた者に謝罪させる、
  (5)幕府で鎮撫できず、暴挙する者は、官軍が鎮定
    する、
 ・・と言った朝命7ヶ条が示された。
  「慶喜の備前藩のお預け」だけは君臣の情として忍び
 難いと、山岡が言うと
  西郷は「慶喜殿の事、吉之助一身が引き受け申した」
 と確約した。
1868年4月、両雄の会談のまえ・・、
  西郷は、東征軍の総参謀長となった。
  最上位の地位である。
  西郷の謀略は凄かった。
  江戸かく乱工作に功のあった相楽総三は、東征軍の先
 鋒として中山道を進んでいたが、偽官軍の汚名をかぶせ
 られた。
  そして、諏訪湖畔で処刑されてしまった。
  歴史のダーティな部分を知るために消されたのだった。
  処刑を命じたのは西郷だった。
  江戸に帰った慶喜は、抗戦を説く幕臣には耳を籍さず、
 ひたすら恭順の意を示そうとした。
  そうとは知らぬ西郷は、江戸開城に猛りつつ、駿府ま
 で攻め上っていた。
  その時、幕臣・山岡鉄舟が、陸軍総裁・勝海舟の手紙
 を持参し、自らも訴えた。
  「戦に逸る(はやる、あせる、勇みたつ)だけでは王
 師(おうし、王の軍勢、官軍)とは申せますまい。徳川
 もまた帝(みかど)の民でございます」。
  西郷は、臆する事のない山岡の度胸と誠意に動かされ、
 「慶喜公は、この西郷が身命に代えてお守り致す」と言
 った。
1868年4月2日(3月10日)官軍、来る
  東海道の官軍、神奈川から六郷辺りに到る。
  府下の殺気充満、
  中山道東下の土州兵、尾州邸に入る、
  駿府より上野法親王、御東帰(氷川清話)
1868年4月5日(3月13日)両雄の会談(江戸の薩摩屋敷)
  西郷隆盛と勝海舟の両雄が、江戸の薩摩屋敷で会見し
 た。
  旧暦3月9日の山岡と西郷の話し合いの結果が、勝安房
 に伝えられ、
  勝は、腹を決めて、旧暦3月13日に、芝高輪の薩摩邸で
 西郷と会見し、
  旧暦4月11日に、江戸城は、無血開城されることとなっ
 た。
  氷川清話・・では・・、
  西郷におよぶことが出来ないのは、その大胆識と大誠
 意にあるのだ。
  俺の一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。
  俺だってここに処して、多少の権謀を用いないことも
 ないが、ただ、この西郷の至誠(しせい、きわめて誠実
 なこと)は、俺をしてあい欺くことが出来なかった(氷
 川清話)
1868年4月5日(3月13日)勝・西郷会談
  江戸城総攻撃の時が迫る中で西郷(39歳)は、芝・田
 町の薩摩屋敷に勝海舟(45歳)を迎えた。
  4年前に初めて会った時、西郷は、勝の偉才に惚れた。
  しかし、総参謀長として、西郷は最後の質問を放った。
  返事次第では、会談は決裂するだろう。
  勝も、江戸を自らの手で焼く手はずをすでに整えてい
 る。
  勝は言った「江戸を焼けば、この国も支那やインドの
 轍を踏むことになる」・・と。
  大きく首肯(しゅこう、うなずくこと)した西郷は、
 隣室の側近を呼ぶと告げた。
  「江戸城総攻撃は取り止め」。
  江戸の無血開城によって幕藩体制は終焉した。
  列強の植民地化の危険も去った。
  西郷は、我が事なれりと野に下ったが、新政府は、西
 郷を迎えて、筆頭の参議に据えた。
1868年4月5日(3月13日)官軍との談判で・・、
  勝海舟は、慶応4年に、西郷との会見に臨む。
  勝は、「氷川清話」に書く。
  「当日、俺は、羽織袴で馬に騎って、従者を一人連れ
 たばかりで、薩摩邸へ出掛けた。
  まづ、一室へ案内せられて、しばらく待って居ると、
 西郷は、庭の方から、古洋服に薩摩風の引っきり下駄(
 のこぎりで引いて切った下駄)をはひて、
  例の熊次郎という忠僕を従へ、
  平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、
 と挨拶しながら座敷に通った。
  その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思わ
 れなかった。
  さて、いよいよ談判になると、
  西郷は、俺のいふ事を一々信用してくれ、その間、一
 点の疑問も挟まなかった。
  「色々、むつかしい議論もありませうが、私が一身に
 かけて御引受けします」、
  西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財
 産とを保つ事ができ、
  また、徳川氏も、その滅亡を免れたのだ」。
  この会談は、きわめてスムーズに進行したような印象
 を受けるが、
  真実そうでない。
  勝は、破談になった時の事を考えて、謀略を巡らせて
 いる。
  それは、第一に、西郷に対し、ナポレオンの教訓を教
 えている。
  ナポレオンが、ロシアに攻め入った時に、ロシア軍は、
 自らモスクワに火を放ち、それによって、ナポレオンも
 敗退させたという事で、
  いざとなれば、江戸でも、それと同じ焦土作戦をやる
 と言って西郷を脅した。
  その手は、実際、打ってあった。
  一方、イギリス公使館通訳官、アーネスト・サトウを
 通じて、イギリス公使のハリー・パークスも動かしてい
 る。
  勝が、西郷と最初の会談を行ったまったく同じ日に、
 パークスは、東海道先鋒総督府・参謀の長州藩士・木梨
 精一郎と会談をしているが、
  パークスは、この時、
  「横浜が混乱して、貿易に支障を来すと、日本のため
 にも、不利益を生ずる事になる。
  従って、とりあえず、英仏両国の軍隊で警備を当たっ
 ているから、左様ご承知おき戴きたい」・・と発言して
 いる。
  これは、官軍が、江戸に攻め入るようなら、英仏両軍
 を敵に回す事になるという脅しに他ならなかった。
  勝との2回目の会談を始める前に、当然、西郷に、この
 情報はもたらされていた。
  鳥羽伏見の戦いでは、官軍の近代兵器や、整然とした
 軍律から見ても、幕府軍に、到底、勝ち目は無かった。
  勝は、西郷との駆け引きで、江戸の治安は自分が守り、
 彰義隊も自分の手の上にある・・と、
  そして、慶喜公の安全を得たいと考えていた。
1868年4月5日(3月13日)勝海舟、高輪の薩摩藩邸で参謀・
 西郷吉之助に面会、静寛院宮進退の事を述べる(氷川清
 話)
  勝海舟は、江戸開城前の西郷隆盛との会談の際に、幕
 府に居る静寛院宮(和宮)や天璋院の存在について話を
 している。
1868年4月5日(3月13日)品川の談判、様子を伺う兵たち
  この時の談判が、まだ始まらない前から、桐野利秋な
 どという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、秘かに様子
 を伺っている。
  薩摩邸の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけ
 ている。
  その有様は、実に殺気陰々として、ものすごいほどだ
 った。
  しかるに、西郷は、泰然として、辺りの光景も眼に入
 らないものの様に、談判をし終えてから、俺を門の外ま
 で見送った。
  俺が、門を出ると、近傍の街々に屯集していた兵隊は、
 どっと一時に押し寄せて来たが、
  俺が、西郷に送られて立って居るのを見て、一同、う
 やうやしく捧げ銃(つつ)の敬礼を行なった。
  俺は、自分の胸をさして兵隊に向かい、「いずれ今、
 明日中には何とか決着いたすべし。
  決定しだいにて、あるいは足下らの銃先にかかって死
 ぬることもあろうから、よくよくこの胸を見おぼえてお
 かレよ」と、言い捨てて、西郷にいとまごいをして帰っ
 た。
  この時、俺が、ことに感心したのは、西郷が、俺に対
 して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、
  談判の時にも、始終、坐を正して、手を膝の上に乗せ、
 少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するという
 ような風が見えなかったことだ。
  その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊(かいか
 つ)で、見識ぶるなどという事はもとより、少しもなか
 った(氷川清話)
..
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