題:(増補版)101C3/3:気になった事柄を集めた年表(1603年~1605年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1603年、江戸の建設
江戸は、家康の覇権確立によって、徳川氏の城下町か
ら幕府の所在する政権の中心地に発展した。
これと同時に、諸大名の証人(人質)差出が多くなり、
大名屋敷が儲けられるようになった。
こうなると、大規模な城郭と、江戸町の建設が必要と
なり、
家康は、将軍宣下の直後から、諸大名を動員して、そ
の工事に取り掛かった。
まず、1603年には、諸大名を動員して、神田山(駿河
台・お茶の水丘陵)を掘り崩し、
その土で外島(豊島)の洲崎を埋め立て、市街地を拡
張した。
今の日本橋浜町から南の新橋辺りに至る下町は、こう
して作られた。
日本橋が掛けられたのもこの時で、商工業の中心にな
って行く。
こうして、市街地を拡張しておいて、翌1604年には、
江戸城普請の計画を発表し、
西国の外様大名を中心に、石船調達の課役を命じて、
石材を伊豆から運ばせた。
1603年、豊臣家の処遇
関ケ原から2年半の時が経て、家康が征夷大将軍になり、
江戸に幕府が開かれた。
ここに明らかなる主従の逆転が生じて、その状況が画
定的になった。
秀頼は、摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(い
ずみ)となり、合わせて65万7000石の一大名となった。
家康は、豊臣家に配慮して、また、秀吉の遺言でもあ
った孫娘の千姫を秀頼の正室として大阪城に嫁入りさせ
た。
ここに淀殿の、思い入れが生じた。
「家康は、きっと、秀頼が成人すれば、将軍職を返上
して、天下の支配権を秀頼に渡すだろう」・・と。
その思いは、秀忠の長女の千姫が豊臣秀頼に嫁したの
だからという思いから生まれていた。
1603年、この頃、出雲阿国が、歌舞伎を創始した。
1603年、オランダが、東インド会社を設立した。
1603年、イギリスのエリザベス1世が没した。
1604年、江戸城の普請計画が発表された。
1604年、社会資本整備・諸街道を改修した。
東海道・中山道・奥羽道・北陸道・東山道の諸街道を
修理した。
この五街道を中心に、各所の諸街道を改修し、一里塚
を置いて交通制度を整えた。
交通政策としては、馬の駄賃制度を決めた(1里16
文に定まる)。
1604年、社会資本整備・備前堀。
利根川から取水する備前堀が開削される。
1604年、利根川から取水する天狗岩堰、越中堀、上野堀が、
総社藩主・秋元長朝によって行われた。
総社藩(そうじゃはん)は、上野(現在の群馬県前橋
市元総社町)に存在した藩。
1604年、長崎に、訳官が置かれた。
1604年、貿易・糸割符の法
糸割符の法を定めて、輸入生糸について糸割符制を実
施した。
1604年、貿易・朱印状
江戸幕府の内外の貿易船について、朱印状が無ければ
行えないようにした。
1604年、朝鮮使節が入京した。
1604年、徳川秀忠の長男の家光が生まれた。
1604年、フランスの東インド会社が設立された。
本来は、香料貿易なのであるが、収奪の植民地経営と
なって行く。
1604年、ガリレオ(イタリア)が、落体の法則を発見した。
1604年、魔女狩りの強化令が、この年に、出された。
キリスト教会の要望によりジェームズ1世は法律を作っ
た。
この頃、清教徒の支配下でピークに達した。
キリスト教の支配権は強く、あらゆる階級を締め付け
た。
1605年2月、家康が、大軍を率いて入京した。
家康は、将軍となった2年後のこの時に、譜代・外様の
諸大名、及び、旗本からなる十万余の軍勢をひき連れて
入京し、京都市民を前代未聞と驚かせた。
これは、実は、将軍職を秀忠に譲るためのデモンスト
レーションであった。
家康は、将軍職の辞退を、4月7日に、正式に申し出て
いる。
そして、16日には、秀忠が征夷大将軍に補せられてい
る。
家康は、60年に及ぶ忍耐と苦闘の結果、勝ち得た将軍
職を、わずか2年で、秀忠に譲った。
これは、戦国以来の下剋上の思想に、最後のとどめを
刺したいとの家康の考えだった。
そして、徳川氏の永久政権を天下に宣言するためであ
った。
特に、豊臣方では、徳川政権は、秀頼が成長するまで
の一時的なもの・・という考え方が根強く、
家康が将軍になった時は、秀頼が関白になるという噂
があったくらいだった。
こうしたムードの中では、徳川の永久政権の宣言は、
1日も早い方が良いと、豊臣方に、あり得ない希望と、無
理な要求の政権回復の期待を完全に断念させたいと考え
だった。
家康に将軍宣下がされた時の動揺した豊臣方が、秀忠
の重ねての将軍宣下にもまた、一大衝撃を受けた。
家康は、秀吉の高台院(正室のおね)を通じて、秀頼
の上京を促し、秀忠の将軍宣下を祝賀するように催促し
た。
これは、豊臣・徳川の二氏の位置の転倒を、豊臣方が
認めるかどうかの、確認のためのものだった。
秀頼の生母・淀殿は、これを認めず断わった。
家康の率いる十万余の軍勢は、その為のデモンストレ
ーションであった。
家康は、6男の忠輝を将軍の名代として大阪に遣わし、
挨拶をさせ、礼は尽くしている。
1605年4月16日、徳川家康が、将軍職を秀忠にゆずる。
2代将軍・徳川秀忠が将軍になった(1579年~1631年、
将軍在任期間1605年~1623年)
天下は徳川家が治めるというよりしっかりした認知で
もあった。
豊臣家に、その支配権が巡って来ることは無くなった
という状況がしっかり生まれた。
家康には、勿論、この時に、豊臣家を潰すという考え
はなかった。
一大名として格付けし、千姫が嫁した特別の大名とい
う思いだった。
それは、秀吉の妻・おね(出家して高台院)の気持ち
と合致していた・・が、豊臣方は違った。
秀忠が将軍となった後の家康は、駿府に退いた。
政治の表舞台から引退し、ご意見番となった。
秀忠の仕事を見守り、徳川幕府の成熟を見守った。
秀忠は、家康が遠慮した大名の改易などの仕上げをし、
よく家康の後の仕事を行っていた。
「徳川実紀」に、
「公(秀忠)、篤恭謙遜の御聴備らせ給い、御孝心た
ぐいなくおわしましければ、御代ゆずらせ給いし後も、
万の事ども、みな大御所(家康)の御教をうけとわせ給
い、いささかも御心にまかせ給う事はなかりしとぞ」と
ある。
1605年5月10日、家康が、秀頼に京都に来るようにと言う。
秀忠が将軍職を継ぎ、そして、京都にいた時、家康は、
秀頼が京都に来て秀忠に賀詞を述べる様にと言った。
それは現状の認知と、その行動を求めたのだった。
「資料総覧」の5月10日の項に、
「家康、豊臣秀吉の後室・高台院(こうだいいん、お
ねの事)をして、豊臣秀頼の状況を促さしむ」とある。
おねは、家康の思い・願いを受け、秀頼の為でもあり、
また、豊臣家の為でもあるこの事態を、上洛を促す使者
に自らたった。
結果は、家康やおねの思いの様にはならなかった。
この時、淀殿は怒ったという。
家康の気持ちは、この時が、転換点だったのだろう。
1605年11月5日、火薬陰謀事件。
イギリスで、キリスト教のカトリック教徒が弾圧され
ているという理由で、この日に、議場に出席する国王を
殺そうとした。
イングランド国教会だけが優遇される政策で、キリス
ト教カトリックは弾圧されていると言った。
イギリスの上院議場の地下に、大量の爆薬を仕掛け、
国王・ジェームス1世を殺し、未遂に発覚したが政府を転
覆しようとしていた。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1603年、江戸の建設
江戸は、家康の覇権確立によって、徳川氏の城下町か
ら幕府の所在する政権の中心地に発展した。
これと同時に、諸大名の証人(人質)差出が多くなり、
大名屋敷が儲けられるようになった。
こうなると、大規模な城郭と、江戸町の建設が必要と
なり、
家康は、将軍宣下の直後から、諸大名を動員して、そ
の工事に取り掛かった。
まず、1603年には、諸大名を動員して、神田山(駿河
台・お茶の水丘陵)を掘り崩し、
その土で外島(豊島)の洲崎を埋め立て、市街地を拡
張した。
今の日本橋浜町から南の新橋辺りに至る下町は、こう
して作られた。
日本橋が掛けられたのもこの時で、商工業の中心にな
って行く。
こうして、市街地を拡張しておいて、翌1604年には、
江戸城普請の計画を発表し、
西国の外様大名を中心に、石船調達の課役を命じて、
石材を伊豆から運ばせた。
1603年、豊臣家の処遇
関ケ原から2年半の時が経て、家康が征夷大将軍になり、
江戸に幕府が開かれた。
ここに明らかなる主従の逆転が生じて、その状況が画
定的になった。
秀頼は、摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(い
ずみ)となり、合わせて65万7000石の一大名となった。
家康は、豊臣家に配慮して、また、秀吉の遺言でもあ
った孫娘の千姫を秀頼の正室として大阪城に嫁入りさせ
た。
ここに淀殿の、思い入れが生じた。
「家康は、きっと、秀頼が成人すれば、将軍職を返上
して、天下の支配権を秀頼に渡すだろう」・・と。
その思いは、秀忠の長女の千姫が豊臣秀頼に嫁したの
だからという思いから生まれていた。
1603年、この頃、出雲阿国が、歌舞伎を創始した。
1603年、オランダが、東インド会社を設立した。
1603年、イギリスのエリザベス1世が没した。
1604年、江戸城の普請計画が発表された。
1604年、社会資本整備・諸街道を改修した。
東海道・中山道・奥羽道・北陸道・東山道の諸街道を
修理した。
この五街道を中心に、各所の諸街道を改修し、一里塚
を置いて交通制度を整えた。
交通政策としては、馬の駄賃制度を決めた(1里16
文に定まる)。
1604年、社会資本整備・備前堀。
利根川から取水する備前堀が開削される。
1604年、利根川から取水する天狗岩堰、越中堀、上野堀が、
総社藩主・秋元長朝によって行われた。
総社藩(そうじゃはん)は、上野(現在の群馬県前橋
市元総社町)に存在した藩。
1604年、長崎に、訳官が置かれた。
1604年、貿易・糸割符の法
糸割符の法を定めて、輸入生糸について糸割符制を実
施した。
1604年、貿易・朱印状
江戸幕府の内外の貿易船について、朱印状が無ければ
行えないようにした。
1604年、朝鮮使節が入京した。
1604年、徳川秀忠の長男の家光が生まれた。
1604年、フランスの東インド会社が設立された。
本来は、香料貿易なのであるが、収奪の植民地経営と
なって行く。
1604年、ガリレオ(イタリア)が、落体の法則を発見した。
1604年、魔女狩りの強化令が、この年に、出された。
キリスト教会の要望によりジェームズ1世は法律を作っ
た。
この頃、清教徒の支配下でピークに達した。
キリスト教の支配権は強く、あらゆる階級を締め付け
た。
1605年2月、家康が、大軍を率いて入京した。
家康は、将軍となった2年後のこの時に、譜代・外様の
諸大名、及び、旗本からなる十万余の軍勢をひき連れて
入京し、京都市民を前代未聞と驚かせた。
これは、実は、将軍職を秀忠に譲るためのデモンスト
レーションであった。
家康は、将軍職の辞退を、4月7日に、正式に申し出て
いる。
そして、16日には、秀忠が征夷大将軍に補せられてい
る。
家康は、60年に及ぶ忍耐と苦闘の結果、勝ち得た将軍
職を、わずか2年で、秀忠に譲った。
これは、戦国以来の下剋上の思想に、最後のとどめを
刺したいとの家康の考えだった。
そして、徳川氏の永久政権を天下に宣言するためであ
った。
特に、豊臣方では、徳川政権は、秀頼が成長するまで
の一時的なもの・・という考え方が根強く、
家康が将軍になった時は、秀頼が関白になるという噂
があったくらいだった。
こうしたムードの中では、徳川の永久政権の宣言は、
1日も早い方が良いと、豊臣方に、あり得ない希望と、無
理な要求の政権回復の期待を完全に断念させたいと考え
だった。
家康に将軍宣下がされた時の動揺した豊臣方が、秀忠
の重ねての将軍宣下にもまた、一大衝撃を受けた。
家康は、秀吉の高台院(正室のおね)を通じて、秀頼
の上京を促し、秀忠の将軍宣下を祝賀するように催促し
た。
これは、豊臣・徳川の二氏の位置の転倒を、豊臣方が
認めるかどうかの、確認のためのものだった。
秀頼の生母・淀殿は、これを認めず断わった。
家康の率いる十万余の軍勢は、その為のデモンストレ
ーションであった。
家康は、6男の忠輝を将軍の名代として大阪に遣わし、
挨拶をさせ、礼は尽くしている。
1605年4月16日、徳川家康が、将軍職を秀忠にゆずる。
2代将軍・徳川秀忠が将軍になった(1579年~1631年、
将軍在任期間1605年~1623年)
天下は徳川家が治めるというよりしっかりした認知で
もあった。
豊臣家に、その支配権が巡って来ることは無くなった
という状況がしっかり生まれた。
家康には、勿論、この時に、豊臣家を潰すという考え
はなかった。
一大名として格付けし、千姫が嫁した特別の大名とい
う思いだった。
それは、秀吉の妻・おね(出家して高台院)の気持ち
と合致していた・・が、豊臣方は違った。
秀忠が将軍となった後の家康は、駿府に退いた。
政治の表舞台から引退し、ご意見番となった。
秀忠の仕事を見守り、徳川幕府の成熟を見守った。
秀忠は、家康が遠慮した大名の改易などの仕上げをし、
よく家康の後の仕事を行っていた。
「徳川実紀」に、
「公(秀忠)、篤恭謙遜の御聴備らせ給い、御孝心た
ぐいなくおわしましければ、御代ゆずらせ給いし後も、
万の事ども、みな大御所(家康)の御教をうけとわせ給
い、いささかも御心にまかせ給う事はなかりしとぞ」と
ある。
1605年5月10日、家康が、秀頼に京都に来るようにと言う。
秀忠が将軍職を継ぎ、そして、京都にいた時、家康は、
秀頼が京都に来て秀忠に賀詞を述べる様にと言った。
それは現状の認知と、その行動を求めたのだった。
「資料総覧」の5月10日の項に、
「家康、豊臣秀吉の後室・高台院(こうだいいん、お
ねの事)をして、豊臣秀頼の状況を促さしむ」とある。
おねは、家康の思い・願いを受け、秀頼の為でもあり、
また、豊臣家の為でもあるこの事態を、上洛を促す使者
に自らたった。
結果は、家康やおねの思いの様にはならなかった。
この時、淀殿は怒ったという。
家康の気持ちは、この時が、転換点だったのだろう。
1605年11月5日、火薬陰謀事件。
イギリスで、キリスト教のカトリック教徒が弾圧され
ているという理由で、この日に、議場に出席する国王を
殺そうとした。
イングランド国教会だけが優遇される政策で、キリス
ト教カトリックは弾圧されていると言った。
イギリスの上院議場の地下に、大量の爆薬を仕掛け、
国王・ジェームス1世を殺し、未遂に発覚したが政府を転
覆しようとしていた。
..
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