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(増補版)111C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1633年)

2015-05-26 15:55:21 | 日記
題:(増補版)111C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1633年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1630年、貝原益軒(かいばらえきけん)が生まれた(1630
 年~1714年)福岡藩の人、本草学者、儒学者、博物学的
 な人、著作に「養生訓」がある。
  膨大な編著を残した。
  長崎で医学を修め、藩医にもなる。
1630年、林道春(林羅山の仏門に入った号)が忍岡に学寮
 を建てる。
  忍岡聖堂(しのぶがおかせいどう)を建てた。
  これは、家光から儒学振興のために江戸城北郊の上野
 忍岡の地に1353坪の土地と200両を拝領して私塾と書庫の
 孔子廟であった。
1630年、この年の1年間に、ベニスでペストにより4万7000
 人が死んだ(1説には15万人という)。
  死骸は街路にあふれ、生き残った者は強盗、略奪をほ
 しいままにした。
  キリスト教が、その教義で「地は汚れている、天のみ
 清浄」と民を洗脳したため、地は本当に汚れた。
  糞尿を道に捨てる様な人々だった。
  衛生状態は劣化し、ネズミは増え、ネズミはペストを
 媒介した。
  可哀想に、民は、劣悪なキリスト教の教義によってペ
 ストに罹り苦しんだ。そして、多くの民が亡くなった。
1631年、加々爪忠澄・堀直之の両名を江戸の町奉行に任命
 され、これより2名の旗本役となり、南北両奉行所に分か
 れる。
1631年、貿易:この年、糸割符法を改正し、新たに江戸・
 大坂を加え、5か所を糸割符制とした。
  中国産の生糸を輸入し、多くの日本の銀が流出してい
 た。
  この貿易を独占していたのがポルトガルだった。
  経済的にもこの貿易を統制した。1604年に、堺・京都・
 長崎の糸割符年寄を任命した。
  TPPと同じ様なもの、日本の商人がまとまってポルトガ
 ルと協議して糸価を決めた。幕府が監理した。
  昔からしっかりした日本だった。しかし、日本の銀は
 大量に流出した。
  18世紀に入ると日本国産の生糸が出回り、生糸輸入
 は衰退した。
1631年、フリードリヒ・フォン・シュペー(1591年~1635
 年)は、
  ドイツで魔女旋風が最も猛烈に荒れ狂った時期に、そ
 の中心地の一つだったヴェルツブルグで、懺悔僧(キリ
 スト教聖職者)として2年足らずの間に200余人の魔女に
 付き添って、刑場に送った聖職者だった。
  魔女裁判の実態をつぶさに観察した結果、ドイツの諸
 侯と(キリスト教聖職者の)裁判官に対する厳しい抗議
 書「裁判官への警告」をこの年に書いた。
  彼を信頼した囚人たちは、彼に援助と助言を求め、真
 相を訴えた・・が・・、
  彼も囚人のためにあらゆる努力とつくしたという・・
 が・・助かる者は居なかった。
  ある死刑囚は拷問に屈せず、「自白」しないのに、キ
 リスト教聖職者の裁判官は有罪を宣告するのだった。
  シュペーは刑場で、もう一度「自白」をすすめた。
  魔女は、あきらめて、ただ一言、「罪をおかしました」
 と答えた。この様なことを言わす聖職者だった。
  シュペーは、大急ぎで裁判官にその自白を伝えた。
  そして、シュペーは言った、「絞殺の上で火刑にされ
 んことを」・・と、願った。
  しかし、願いは聞き入れられなかった。
  魔女は、生きながら焼かれた。
  後に(1642年)、シュペーは司教になった(ヴュルツ
 ブルグ)。ごますりシュペーは出世した。
  フィリップ・フォン・シェーンボルンが、シュペーに
 「どうしてそんなに早く白髪になったのか」と尋ねた時、
 多くの魔女は、無実だった。そのことを知っていたから
 だとシュペーは答えた。
  そして、魔女狩りを扇動する者は誰かと問われて、彼
 は答えた、「静かに思弁を楽しみながら、汚い牢獄も、
 重い鎖も、拷問道具も、哀れな人間の悲嘆も知らない高
 位の(キリスト教)聖職者と神学者だ・・と。
  そして、魔女裁判をもうかる仕事と考えている(キリ
 スト教裁判所の)裁判官だ・・と答えた。
  最後に本当のことを言った。
1632年、徳川家光が諸大名を集めて去就をたしかめた。
1632年12月、体制:大目付を設置した。
  秋山正重、水野守信、柳生宗矩、井上政重の4人を、こ
 の年に、大目付(初期は総目付と言った)に任じたのが
 はじまり、
  当初は、大名・旗本、老中以下諸役人の政務・行状を監
 察し、言上することがおもな任務だった。
1632年、江戸城の拡張工事が着手された。
1632年、社会資本整備・辰巳用水、
  加賀藩が、辰巳用水を開削し、金沢城下の上水に利用
 した。長さ20キロメートル、兼六園に至る。
  防火用水、御城水、殿様用水、御水道上水。
1632年、流通:仙台藩の江戸廻米が始まった。
  『煙霞綺談』に、「今、江戸、三分一は奥州米なり」
 と記述されている。
  武江年表には、三分の二と書かれている。
1632年、諸子法度を公布する。
  諸子法度は、「旗本法度」ともいい、幕府に仕える旗
 本御家人の守るべき規律を制定したもの。
  9ヶ条あった(23ヶ条の説もあり)。
  内容は、忠孝、軍役、兵具、屋作、嫁娶(かしゅ、嫁取
 り)、振舞、音信、喧嘩、火事、反逆殺害盗賊人、知行
 所務、境論(所領などの境界論)、百姓公事、跡目、徒党、
 衣服など。
1632年3月14日、殉死:二代将軍の徳川秀忠が54歳で没し、
 年寄の森川重俊が殉死した。
1632年5月22日、熊本城主の加藤忠弘(肥後熊本、52万石、
 清正の子)が改易された。庄内に流された(大名改易)。
  江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、後に、
  上使・稲葉正勝より改易の沙汰を受け、出羽庄内藩主・
 酒井忠勝にお預けとなった。
  清正は、既に、1611年6月24日に49歳で没していて、三
 男・忠広は、11歳で家督を継いだ。
  (長男・次男は早世していた)。
  清正は、領内の治水事業や利水事業を意欲的に取り組
 み、農業生産量も増やしている名君だったが・・、
  また、築城に長けていたが・・、
  経緯(いきさつ)は、この年の帰国中の忠広に対して
 21ヶ条の詰問状が渡され、速やかに出府して弁明せよと
 の命令が出された。
  忠広は命令を受け、出府するが、
  幕府は、品川宿で忠広を止め、池上本門寺にて待機せ
 よとした。そして・・、
  幕府は、忠広の嫡子・加藤光正(1614年~1633年)の
 不届き、そして、江戸で生まれた子とその母を、無断で
 国許に返したこと、さらに、
  平素の行跡が良くなかったことを理由にして改易した。
  忠広は、庄内の酒井忠勝に預けられ、
  1万石を与えられた。
  嫡子の光正は、飛騨高山藩主・金森重頼にお預けとなり、
 堪忍料として、月俸百口を給され、天性寺に蟄居となった
 が、1年後に、19歳の若さで病没した。
  しかし、別説がある。
  忠広は、庄内で22年暮らし、1653年、52歳で没した。
  家光と将軍後継者争いをした徳川忠長と、加藤忠弘が
 親しかったからという理由もささやかれている。
  また、豊臣系有力大名の家だからもある。
1632年10月20日、駿府城主の徳川忠長を上野に配した。
  秀忠が亡くなると、家光は、この年、忠長を上野国高
 崎藩に預けた。
  忠長は、秀忠の次男(家光の弟)で、1624年に駿府城
 主になって、駿府藩が再び成立していた(駿河・遠江・
 甲斐など55万石)。
  ただ、忠長は、将軍職を兄・家光と争った経緯から家
 光とは不仲だった。
  忠長は、家臣や侍女や領民を惨殺したりする乱行が目
 立った。
  その事から、1632年のこの日、家光は、高崎藩への蟄
 居とした。
  忠長は、翌年の1633年12月6日に、高崎で自害した。28
 歳だった。この時、家光は29歳。
1632年、タージ・マハル・・インド
  ムガル第5代皇帝のシャー・ジャハーンは、
  寵妃・ムムターズ・マハルの墓廟として、タージ・マ
 ハルの建造に着手した。
  各地から美しい石材を集め、10年の間、常時2万人以
 上の工匠と労働者を駆使して、建造が進められ、
  さらに、付属の庭園や建築物を完成するのに10年を費
 やした。
  壮麗なタージ・マハルは、真正面に満月が昇った時の
 美しさは最高であり、この世のものとは思われない幻想的
 な姿を見せる。
..
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(増補版)110C3/3:気になった事柄を集めた年表(1624年~1629年)

2015-05-25 17:12:07 | 日記
題:(増補版)110C3/3:気になった事柄を集めた年表(1624年~1629年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1624年、流通:大阪の泉屋平右衛門が、菱垣廻船(ひがき
 かいせん)問屋を開業した。
  江戸~大坂間を日常消費物資を積んで定期的に航行し
 た(木綿・綿・油・酢・醤油・砂糖・鰹節・紙・薬種な
 ど)。
  堺の商人が250石船を賃借して木綿や油、酒などを積ん
 で江戸へ輸送したのが最初と言われている。
  江戸末期には樽廻船に圧倒され衰退した。
  樽廻船(たるかいせん)は主に酒を運んだので樽廻船
 と言われた(伊丹・池田・灘の酒)。明治の中頃まで続
 いた。
1624年、霊厳島が築かれた。
  この地が有名になるのは、河村瑞賢が日本橋川に並行
 して運河(新川)を掘削し、以後、ここが永代橋まで畿
 内からの廻船が入り込むようになり、江戸の港として栄
 えたことによる。
  下り物の問屋として瀬戸物問屋・酒問屋が多く集まっ
 た。
1624年、体制:幕府と藩との関係が安定化した。
  寛永期に入ると幕府と藩との関係が安定して来て、こ
 の頃から、藩は、財政をはじめ、領内支配の体制整備に
 全力を注ぐようになった。
1624年、出版:商品としての書籍刊行が始まった。
  寛永年中(1624年~1643年)から商品としての書籍の
 刊行が始まった。
1624年、秀吉の妻・おねが没した。
  1615年の豊臣氏が滅亡する辛い時を経て9年、秀吉の妻
 は、高台寺に77歳の人生の幕を閉じた。
1625年8月、交通政策:関所・・関所・駅伝の制を定めた。
1625年、江戸寛永寺が上野に創建された。
1625年、交通政策:日光杉並木、
  大沢ー日光間16.5キロメートルに日光杉並木が植
 えられた。
  総延長は35.4キロメートルで、ギネスブックに世界
 最長の並木道として登録されている。
  この杉並木は、明治以降幾度も伐採の危機があった。
  そのたびに官民双方の有識者の努力によって大規模な
 伐採は避けられて来た・・が・・。
  現在、約12500本の杉があるが、街道を通る自動車の排
 気ガスによって、毎年、100本以上の杉が倒木や枯死によ
 って減っている。このままでは100年後には消滅すると言
 われてる。
  日光杉並木保護財団および栃木県文化財課により樹勢
 回復事業が行われている。
  また、事業費捻出のための「日光杉並木オーナー制度」
 が開始されている。
  1952年、国の特別史跡に指定され、1954年には、国の
 特別天然記念物に指定された。
1625年、社会資本整備:鬼怒川、
  伊奈忠治(いなただはる、江戸幕府関東郡代)が、小
 張村(現・茨城県伊奈村)に陣屋を建てて、山田沼堰を
 設け、鬼怒川付替え工事と谷原新田の開発を始めた。
  忠治を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つく
 ばみらい市)にある。
  また、川口市にブロンズ像が建立されている。忠治の
 業績は多い。
  江戸時代初期から、すでに、徳川家康の号令で、氾濫
 する川の治水工事は行われて来ていた。
1625年、農業改革:初めて薩摩に甘藷を移植した。
  別の説:
  サツマイモがフィリピンから中国に伝来したのが1594
 年、それを宮古島の役人がが、1597年に宮古島へ伝え(
 日本最初の伝来)、
  宮古島では主食になるほどに広まった。
  しかし、これは、1618年ではないかとも言われている。
  沖縄本島に、1604年に伝わり(沖縄の人が、やはり中
 国の明から伝えている。この別ルートが本土へのルート
 となる)、1698年に種子島に伝わり、
  領主の第19代当主の種子島久本は、救荒作物として家
 臣に命じて、栽培法の研修をさせている。
  薩摩山川の前田利右衛門が、1705年に、琉球を訪れ、
 甘藷を持ち帰り、薩摩藩で栽培されるようになった。
  この前田利右衛門は神社に祀られている。
  そして、薩摩を訪れた伊予国の人が、持ち出し禁止の
 サツマイモを、1711年に、持ち出し、故郷の伊予国の大
 三島で栽培を開始した。
  1732年の享保の大飢饉時には、深刻な飢饉に見舞われ
 たが、大三島では餓死者が出ず、サツマイモの有用性が
 天下に知らしめられた。
  八代将軍・徳川吉宗の当時、江戸市中でよく知られて
 いた青木昆陽が、町奉行の大岡忠相に推挙されて、幕府
 の書物を閲覧できる身分になった。
  そして、昆陽は、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」
 を著し、吉宗に献上した。
  1734年に、青木昆陽が薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、
 江戸小石川植物園などで試験栽培し、
  翌年、その結果を確認し、
  以後、東日本にも広く普及した。そして、多くの人々
 を救って来た。
1625年、屋敷割り:江戸市中の旗本屋敷の屋敷割を行った。
1626年、社会資本整備:北上川、
  北上川の付替え工事が完成した。
  伊達政宗は、1616年に、家臣の川村重吉に命じて、河
 川を合流させたり、1626年に、北上川などの川筋を一本
 にまとめて舟航路を開いたりした。
  北上川は、川幅が狭く急流だったため、氾濫川だった。
  この工事の完成で、水流も安定し、新田開発も急速に
 進み、北上流域だけで40万国以上の田が開かれた。
1626年、人身売買の禁止、
  社会も安定して来て、戦乱の時代にあった様な人や物
 が掠奪されて使われてしまうという例もなくなったが、
  幕府は、この年、人身売買の禁止の令を出し、経済的
 な理由で不本意に使われる身分に陥(おちい)る事のな
 いように令を出した。
1627年、禁中並公家諸法度の軽視
  発布後、ほどなくして家康が死去したためか、この法
 律が軽視された。
  紫衣事件が起きた。
  位の高い衣の色を幕府が決めたが軽視された。
1627年、江戸城で刃物ざたが起きた。
  小姓組番士が、江戸城の二の丸で同僚二人に切り付け、
 1名が死亡し、小姓組番士は切腹となった。
  また、もう1名は応戦を怠ったとして追放処分となった。
1628年7月、徳川光圀(とくがわみつくに)が生まれた(
 1628年~1700年)常陸水戸藩の第2代藩主。
  水戸黄門として知られる。徳川家康の孫。
  大日本史を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
  徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響
 力を持った。
  同時代から、名君伝説が確立していて、
 また、水戸黄門はフィクションだが、この黄門漫遊譚が
 当時から確立していた。
  大日本史編纂に必要な資料集めのため、家臣を諸国へ
 派遣していた。
  1690年に、幕府より隠居の許可が下り、隠棲したが、
 60余人が伺候(しこう、貴人のそばで奉仕すること)し
 た。
1628年、井上正就(いのうえまさなり、譜代大名)が、暗
 殺された。
  旗本の豊島信満が、正就の嫡子の結婚の仲人を務める
 事が決まっていたが、
  将軍・家光の乳母の春日局が、違う娘と縁組する様に
 持ちかけた。
  正就は、豊島が仲人をする縁組を破談にした。
  仲人としての面目が丸潰れとなった豊島は、江戸城の
 西ノ丸廊下で、「武士に二言は無い」と叫んで、正就に
 斬りかかり、
  番士が取り押さえ、羽交い絞めをしたりしてもみ合っ
 たが、正就・番士が共に絶命し、豊島も自分を刺して絶
 命した。
1628年5月、長崎のキリシタンが処罰された。
1628年6月、朱印船の船長の浜田弥兵衛が、台湾にてオラン
 ダ船とオランダ人を捕らえ、連行して長崎に帰った(将
 軍の下賜品を奪う行為をした。当時、オランダ人が台湾
 の長官をしていた。入国のトラブルから発展した。台湾
 事件)。
1628年、社会資本整備:入鹿池、
  尾張に入鹿池(愛知県犬山市)が築造された。農業な
 どの水がめ。
1628年、令:倹約、衣類に絹類を禁止して、布木綿とした。
  奢侈禁止令(しゃしきんしれい)。
1628年、旗本の従者の員数を定めた。
  贅沢の禁止の精神から、倹約の意味で出された。
1628年、権利の請願(けんりのせいがん)、イギリス
  課税には議会の同意が必要
1629年9月、武家諸法度が改定された。
  趣旨は実権掌握。
  (1635年6月も改定している、この時、参勤交代制度を
 確立させている)
1629年、社会資本整備:鬼怒川、
  鬼怒川の付替え工事が終わった。
1629年、社会資本整備・元荒川、
  元荒川を締め切り、荒川を瀬替えする。
  西に動かし、武蔵水路を通水し、川近くまで水田耕作
 が出来、水田耕作面積が広がった。
1629年、農業:この頃、伊予地方の事情を記す日本最古の
 農業書「清良記」ができた。
1629年、令:歌舞伎を禁止した。
  風俗上での禁止だった。
1629年、踏絵が始められた。
1629年、辻斬防止のため、江戸に辻番が置かれた。
1629年、魔女事件の惨状
  ヴェルツブルグ(ドイツ)の宗教法顧問が、1629年8月
 に、ヴェストファリアの知人に宛てた手紙:
  貴下が、前、もう終わったと言って居られました魔女
 事件が勃発いたしました。
  その惨状、言語に尽くされません。
  何と悲惨な恐ろしい事でございましょう。
  厳しい告発を受けていますので、いつ何時、逮捕され
 るかもわからぬ男女が、当市には、まだ400人ばかりも居
 るのでございます。
  男もあり女もあり、身分高きもあり、低きもあり。
  当初教区の領民で、その職務と才能の別なく処刑され
 ねばならぬ者が多数あることは確実でございます。
  学生も居ります。
  うちの13・4人は魔女だという噂でございます。
  拷問をかけられている者もいます。
  当市民の3分の1が、魔女事件に関係している事は確実
 でございます。
  8日前には、19歳の娘が焼かれました。
  この娘は、市中で一番美しい、まれに見るつつましく
 純潔な娘だったという評判でございます。
  こうして多くの人間が焼かれるのは、彼らが(キリス
 ト教の)神を拒み、悪魔の会合に出席したからであり、
 それ以外には何の罪も侵してはいないのであります。
  この悲しい事件につきましては、これで筆を置くこと
 に致しますが、
  最後に、悪魔と交わりを結んだ3、4歳の幼児が、300
 人もいます。
  私は、7歳の小児と、10歳、12歳、14歳、15歳の勇敢な
 学童が、死刑にされるのを目撃いたしました。
  貴下が、ご存知のもっと高貴な人々もありましょう。
  しかし、これが真実とはとてもお信じになれますまい
 し、・・以下略
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(増補版)109C3/3:気になった事柄を集めた年表(1620年~1624年)

2015-05-24 15:26:20 | 日記
題:(増補版)109C3/3:気になった事柄を集めた年表(1620年~1624年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1621年、社会資本整備・新川通・赤堀川
  幕府が、新川通(埼玉県)・赤堀川(茨城県)を開削
 し、利根川の水を常陸川(現在の利根川の関宿・堺町よ
 り下流部)へ流した。
1621年、オランダ商館を平戸に置いた。
1621年、竹斎(ちくさい、仮名草子)
  この頃、「竹斎」が成立した。名所記文学の祖。
  やぶ医者竹斎が、下僕と共に、滑稽を演じながら京の
 名所見物から東海道を江戸に下る物語。
  とんち話もある。
1622年、玉川庄右衛門(しょうえもん)が生まれた(1622
 年~1694年)
  弟を右衛門(せいえもん)と言い、1653年から1654年
 にかけ玉川上水の開削の指揮をとった。
  江戸市民のための給水の川。
1622年7月、支倉常長(はせくらつねなが)が没した。
  仙台藩士、伊達政宗に仕えた、
  メキシコ→マドリードと渡り、通商開設と宣教師派遣
 を求める政宗の書を渡し、命による通商交渉をしたが成
 功せずに帰国した。
  政宗の行為は、キリスト教宣教師から、通商を希望す
 るならキリスト教の布教を認めて、通商を希望を求める
 形にとの話をされていた。
1622年10月、宇都宮の譜代大名・本田正純が改易された。
1623年、徳川家光が、第3代将軍になった(1604年~1651年、
 将軍期間1623年~1651年)
  徳川家光が参内し将軍の宣下を受けた。
  禁裏御料1万石増献(計2万石)
  徳川幕府の基礎を確立したと言われている。
1623年、大名支配・松平忠直(越前福井)が、豊後に改易
 された。
  松平忠直は、家康の孫で、父は秀康。
  家康の次男・秀康は、将軍になった秀忠の兄である。
  忠直は、将軍となるべき父だった秀康の子だった。
  (家康の長男は、家康がまだ不遇の時、家康にまだ力
 がない時に、トラブルで殺してしまっている。家康は、
 大いに嘆いたという)。
  この頃、私的な関係と公的関係への転換は、将軍家と
 徳川氏一門との間にも厳然と表れていた。
  越前松平家は、二代将軍・秀忠の兄・秀康の家で、そ
 の意味で最高の格式があった。
  家康は、何故か、秀康でなく、弟の秀忠を跡継ぎにし
 た。
  しかし、さすがに秀康(1607年に死去)一代は「制外
 の家」、つまり、将軍権力の外にある家と称せられ、
  例えば、江戸出府も気ままで、一般の大名の様に江戸
 に邸ももらわず、江戸に来ると、江戸城玄関に駕篭を乗
 り付け、二の丸に泊まるという行動をとった。
  つまり、秀康は、あくまでも将軍家の兄弟であり、臣
 従するものではないという態度を貫いたのであった。
  しかし、次の忠直の代には、その態度は通らなかった。
  忠直は、自分が将軍家の兄の家であることに強い誇り
 を持っていた。しかし、
  幕府は、その様に取り扱わなかったのが、はなはだ不
 満であった。
  ことに家康の死後、家康の子としてはるか末の第9子・
 義直(尾張)・第10子・頼宜(紀伊)が、いずれも自分
 より高い官位を叙せられたため、彼の不満は爆発した。
  彼は、連日連夜酒色にふけり、家臣の言動がわずかで
 も気に障ると、たちどころに手討ちにするという暴君ぶ
 りを現わした。
  また、参勤を怠り、あるいは突然帰国するなど、幕府
 の権威をないがしろにする態度も、日増しに増長した。
  そこで、秀忠は、1623年、遂に、忠直に隠居を命じ、
 これを豊後荻原(大分県)に配流に処した。
1623年、制度:五人組制度が施行された。
  連帯責任の制度で、相互扶助の面もあった。
  治安維持・法度の順守(キリシタン)・年貢完納など
 を連帯責任の下に置いた。
1623年、イギリスも平戸商館を閉鎖した。
  イギリス人が、損失続きのために、自発的に平戸の商
 館から撤収した。
  日本は、どうも儲からないから止めた・・である。
  インドや中国で、悪どいことをして儲けていたイギリ
 スは、その様なインドや中国の様なうまい仕掛けが出来
 ない国と判断したのだった。
  または、インドや中国で儲けているため重要性が低い
 と判断した。
  メキシコの銀山開発もあった。
1623年、アンボイナ事件が起きる。
  この年に、モルッカ諸島のアンボイナ島にあるイギリ
 ス商館をオランダが襲った。そして、商館員を全員殺害
 した。
  イギリスの香辛料貿易はストップした。
  この島を、オランダは奪い取り独占した。
  イギリスは、東南アジアから撤退し、インドを重点的
 に搾取する体制に変更した(餓鬼の世界の展開)。
  17世紀の初めは、イギリスとオランダの両国は、カト
 リックのスペインやポルトガルの勢力に対して協力的態
 度であった(4国協調)。
  それから、スペイン・ポルトガルを駆逐する。2国の世
 界になった。・・が・・、
  オランダ東インド会社の実力が、イギリス東インド会
 社を上回って来ると・・(会社組織にしているのは卑劣
 な隠れ蓑、やっているのは国・国家の行動)
  この様な欲の世界の中で、奪い取りの世界の中で、
 1623年のアンボイナ事件を契機に、イギリスは、東南ア
 ジアや東アジアから撤退した(軽蔑すべき武力による奪
 い取りの展開)。
  香料貿易を独占したオランダは、アジアに商機のチャ
 ンスが流れ込んだと喜んだ。
  当然、イギリスには、反オランダの感情が高まり、残
 酷・卑劣な第一次英蘭戦争(1652年~1654年)へと発展
 して行く。一回では終わらない。
1624年3月、日本へ、スペインが通商復興を求めたが許され
 なかった。当然だ・・、
  散々、世界で悪いことをして来て(南米だけでも1000
 万人にもおよぶ殺戮をキリスト教宣教師と共にして来た)、
 その経緯(いきさつ)などをすべて知っている日本。
  領土的野心を持つスペインの手先のキリスト教は法を
 守らないし・・、この様な状況で許される訳はなかった。
1624年12月、朝鮮の使節が来朝した。
1624年、江戸城
  江戸城の西ノ丸殿舎(秀忠の隠居所)の改築が完成し、
 秀忠が入居した。
  この時、土井利勝・井上正就・永井尚政らは西ノ丸老
 職となった。
1624年、徳川家光が、本丸に移った。
  酒井忠勝が、本丸老職となった。
1624年、この年、林羅山が徳川家光の侍講となり、幕府政
 治に深く関与して行った。
  林羅山は、徳川家康・秀忠・家光・家綱の4代の将軍に
 仕えた。
  徳川幕府の外交官ともいえる林羅山は、中国政府と正
 式な外交を結ぶ必要はないと見ていた。
  また、信従するに値しないと見ていた。
  明宛ての書簡でも、明の年号を用いなかった。
  「中華の華は今や日本なり」の意識が沸き起こってい
 た。
1624年頃、林羅山のこと。つづき。
  徳川幕府の初期、中国は明の末期だった。
  幕府は、秀吉の時代に乱れた明との関係修復を努める
 が、日本という国体を考え、書簡において、中国・明の
 年号使用は控えた。
  これは、中国皇帝の普遍性を否定する内容形式を、あ
 えて突き付けた形となった。
  その為、関係修復はならなかった。
  外務大臣に当たる林羅山は、日本へ朝貢し始めた国々
 として朝鮮やタイを羅列し、中国の覇権に、事実上の挑
 戦状を突き付けるに等しい行動をとった。
  明との関係修復より、日本の自主性が優先された。
  なんだかんだとアメリカのTPPのグローバリズムに組み
 込まれて行く、現代の日本とは違った。
  朝鮮は、北辺が満州族に脅かされ、日本に接近せざる
 を得なかった。
  そして、日本は、朝鮮に明の年号を使うなと言った。
  そして、明が満州族に滅ぼされ、清朝となって行く。
  明の家臣が、二度にわたり、日本へ救援を求めて来た。
  将軍・家光は、2万の遠征軍を組織し、中国上陸の作戦
 計画を策定した。
  状況が変わったため、実行には至らなかったが・・、
  秀吉を含め、当時の日本の指導者には自負心があった。
  現在、間違って印象付けられている鎖国意識は、日本
 には、まったく、無かった。
  日本は、冷静に、モンゴルと中国をめぐるユーラシア
 の凄絶かつ壮大な闘争のドラマをしっかり見ていた。
  陸続きの朝鮮が、それに翻弄(ほんろう)される姿を
 見ていた。
  海を隔てた日本の地勢的有利さを感じていた。
  韓国が、今・現代でも、秀吉の朝鮮出兵だけを、ひた
 すら悪く言うが、
  朝鮮において、この様な事は、日常茶飯の出来事だっ
 た。
  秀吉の朝鮮出兵は、ちょっと一度の『幕間の寸劇』と
 いう程度だった。
  日本には、鎖国意識なんて、まったくなかった。
1624年、スペイン船の来航を禁止した。
  領土的野心を持つスペインが、キリスト教宣教師の
 活動を統制できなかったため、
  長崎からの『退去命令』を受けた。
  キリスト教が原因者。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)108C3/3:気になった事柄を集めた年表(1617年~1620年)

2015-05-23 04:59:25 | 日記
題:・:(増補版)108C3/3:気になった事柄を集めた年表(1617年~1620年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1617年、日光東照宮の造営
  日光の東照宮が造営され、家康を久能山より日光へ改
 葬した。
  将軍の日光社参が始まる。
1618年、河村瑞賢(かわむらずいけん、政商)が生まれた
 (1618年~1700年)
  貧農に生まれるが、13歳で江戸に出て、人夫をしなが
 ら資産を増やし、材木商を営み財を成した。
  幕府の公共事業にも関わって行き、廻米の航路開拓も
 やる(年貢米の海運)、そして、港湾改修・治山治水。
  後は、全国的に治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾な
 どの事業をする豪商となった。
  晩年は旗本に加えられた。
  同郷の松尾芭蕉とも交流があった。
  数学的な才もあり、それによる新たな測量法も考案し
 た。
1618年、社会資本整備・箱根の関所。
  この頃、箱根に関所がおかれた。関東防衛の役割。
  封鎖の砦の役もあった。
  良く知られた「入り鉄砲、出女」の監視体制がある。
  江戸の立地から、北方面より西方面への警備方針に重
 きを置いた。
1618年、釜山に和館(日本館)が出来た。
  海外居留地だった。
  元寇の時、朝鮮軍と明軍の日本侵攻は、対馬や壱岐の
 侵攻から始まり、
  島民の男性は虐殺され、女性や子供たちは、手に穴を
 開けられ、革紐や縄を通してつながれ、連れ去られたと、
 史記にあるが(朝鮮に古くからある連行方法)、
  卑劣な事に、連れ去られる船の上で、女性方は、ひど
 いことをされた(韓国はこのことに触れないで、日本だ
 けを責めているが)。
  この日本館は、この様な事が今後起きない様にと、こ
 こを起点に、友好な関係を築こうとした、しかし・・、
  この様な事はNHKはまったく放送しない。
  NHKという放送局は、日本が悪いように、悪いよう
 にと、放送する局です。(NHKの外国を利する行為)
  この様な偏見を持ったNHKに学校放送をする資格は
 ありません。
  因みに、日本の子供たちは、朝鮮王の高麗王への奴隷
 として引き渡された。
1618年、魔女裁判
  魔女裁判は、キリスト教のローマ教会と意見が相違す
 る人々を排除しようという、まったく自分勝手な考えか
 ら始まった。
  意見が相違する人を、「異端者」と呼び、その意見の
 相違する人々を裁くのだと、
  キリスト教会内に、異端審問所を作った。
  そして、キリスト教聖職者が、その異端審問所の異端
 審問官となって、自分に都合のよいように裁いた。
  これはもう、裁判形式ではあるが、見せかけです。
  その様に見せかけた意見の違う人たちへの迫害装置で
 あって、
  形式上のキリスト教会内の裁判形式における罪に落と
 す騙(だま)し施設だった。
  この様な、裁判という、さも正しそうな隠れ蓑で、悪
 事を働く行為をキリスト教はやり、後の世の悪の見本と
 なった。
  この様な、偽善の裁判形式の迫害行為は、近年の、つ
 い先ごろの時代もやっている
  (第二次世界大戦後の法律もない中でやった裁判)
  異端審問官は、意見の違う人たちを「悪魔と結託して
 いる」と呼んだ、そして、そうだ決め付けた。
  初め、キリスト教カトリックが始めた。
  後に、キリスト教プロテスタントが始めた。
  その両者が、お互いを異端だと罵(ののし)り、言い
 合った。
  お互いが「悪魔との結託者」と言い合った。
  まったく軽蔑すべき状況だった。
  この様なキリスト教の考え方で、事が収まる訳はなく
 卑劣なキリスト教の教義のもとに、争いはだんだん熾烈
 になって行った。
  お互いを、双方が、異端者呼ばわりをした。
  その双方に魔女裁判は激化した。
  改革だと称したキリスト教側、劣った教義の中で改革
 だと叫ぶ者と、何が改革だと対抗する強力な対抗組織が、
 特に、南ドイツ(ことにビュルッツブルグやハンブルグ)
 で、熱狂的な魔女狩りも行われ、犠牲になった方々が大
 勢出た。
  犠牲の女性と共に、この時は、改革派のルター派の男
 性が犠牲となって、この時には出た。
  この様な卑劣な宗教の下に戦争も起きた(30年戦争)。
  卑劣な宗教による戦争は、ヨーロッパ中を荒廃させた。
  特に、ドイツは、都市と言わず農村など、ことごとく、
 徹底的に破壊され、荒廃した。
  善良な方々をどん底に突き落とした卑劣な宗教だった。
  ヨーロッパ、特に、ドイツが疲弊し、都市や農村が荒
 廃した。
  魔女の実在を教え、刷り込み、信じさせるキリスト教
 会。
  取りつかれた民が、街中に躍り出る町が、あちこちに
 出現。
  焼かれる女性、その煙が、ヨーロッパの空を曇り空の
 様にした。
  古い観念にとらわれた教会、形骸化した制度、
  その古い教義・組織を、今もって改革できないキリス
 ト教。
  ルターも改革だと言ったって、その言葉の中に何度「
 魔女」という言葉を使ったことか・・、
  ルターは、城の中で魔女を見たと騒ぐ人だった、
  それほど、改革者と言うこの人に、魔女が付きまとっ
 ていた。
  改革だと言いながら、ルターは、魔女と共に悪魔につ
 いての体験をあちこちで語った。
  数多い体験をルターは語るのだった。
  ヴィッテンベルクの僧院に居るときには、悪魔の騒ぐ
 声にいつも悩まされていたと言った。
  ヴァルトブルグ城に居た時は、彼の居室の壁に居た悪
 魔に、彼はインク壺を投げつけたという・・、
  その黒インキのシミは、今でも残っているという。
  キリスト教を改革しようという彼には、魔女に対する
 恐怖と憎悪が満ちていた。
  彼の言葉にそれが現れていた、
  「私は、この様な魔女には何の同情も持たない。皆殺
 しにしたいと思う・・」。
  荒れるドイツは、可哀想なことに国が分裂した。
  卑劣な宗教による卑劣な現実があった。
1619年、流通、堺の船問屋が、菱垣(ひがき)廻船(江戸
 廻船)を開始した。
1619年、大阪城代を設置した。
  大阪を直轄都市とし、大阪城代を置いた。
1619年、徳川頼宣を紀伊に封じた(大名の管理・支配)
  家康の10男の頼信を紀伊に移した(紀伊徳川家の成立)
1619年、大名支配・福島正則
  広島城主の福島正則の領国を没収した。福島正則(安
 芸広島)の改易。
1619年、キリシタンを55人を火刑にした。
  これが日本の最大のキリスト教の処刑。
  ヨーロッパやアメリカのキリスト教国の魔女による殺
 戮の様な非常な多数への酷いことはしてない。
  それにしても、お達しを出して違法ですと通達し、
 長崎へ送って、追放船で追放しても、潜入したり、法律
 を破るキリスト教がそこに居た。
  また、キリスト教は、殉教は美しいのだと刷り込みを
 した。
  だから、子供まで連れて、出頭して来る者がいた。
  その殉教の時は震えてはいけないのだとまでキリスト
 教は卑劣にも信徒を洗脳した。
  刑場の冊(矢来)の一部は開けてあって、逃げられる
 ようにもなっていた。
  キリスト教は、今・現在でも、殉教を美しく言い、そ
 の多数を良しとする、そして、ひたすら多い人が殉教し
 たと嘘を言う。
  しかし、幕府には穏便に済ませたいが心底に流れてい
 た。
  本人以外の家族でも、親類・知人でも、キリスト教を
 止めたと言えば許された。
  ヨーロッパの様に追い掛け回して、捕まえて、焚刑に
 するようなことはしていない。
  ヨーロッパは、国をまたいでまでして卑劣にも追い掛
 け回して殺した。
1619年、本田正純が、この年、加増され下野国宇都宮城(
 宇都宮市)で15万5000石となった。
  しかし、同僚の譜代大名の嫉妬を受け、
  「宇都宮釣天井事件」で将軍暗殺を謀(はか)ったと
 され失脚した。
  出羽国横手(秋田県横手市)に流された。
  正純は、徳川家康の「懐刀(ふところがたな)」と言
 われた本田正信の子で、頭角を現したのは、関ケ原の戦
 い直前だった。
  家康の普段の相談相手の父・正信が徳川秀忠に付いて
 中山道を進軍中であったため、正純が家康の相談相手と
 なり、江戸城で諸将を味方に付けるべく手紙戦略を展開
 した。
  その時から家康は、正純を側近として重視するきっか
 けとなった。
  家康が秀忠に家督を譲り、駿府城に隠居し、そこから
 「駿府大御所政権」を行った時も、正純はブレーンの一
 人として諸政策を決めた。
  父・正信は秀忠の元に居た。
  父・正信は、正純に「権ある者は禄(ろく)少なく」
 と戒(いまし)めていたが、
  父の死とともに加増され、結局、失脚の憂(う)き目
 を見る事となった。
1620年5月16日、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が没
 した(1564年~1620年)イギリス人、航海士・水先案
 内人、
  リーフデ号が豊後の臼杵に漂着し(1600年)、日本上
 陸、家康と会う。
  キリスト教カトリックの野心や、プロテスタントとカ
 トリックとの紛争・軋轢を臆せず説明した。
  家康は、この正直さなど、ここで気に入り誤解を解い
 た。
  キリスト教宣教師が処刑をする様にと執拗に言って来
 たが、
  江戸に招き入れ、通訳や助言を求めた。
  また、航海術や数学の知識を、家康や側近は受けた。
  また、要請を受けて、伊東に造船のドックを設け、80
 トンの帆船を、経験を活かして建造した。
  家康は、より大型船の建造を指示し、1607年に120ト
 ンの船を建造している。
  この船は、房総沖で遭難した前フィリピン総督ロドリ
 ゴ・デ・ビベロに貸し出され、帰国したという。
  日本は優しい国際国家だった、鎖国国家はプロパガン
 ダ(嘘宣伝)だ。
  家康は、三浦按針に帯刀を許し、相模に領地を与え、
 旗本にした。
  帰国の許可が出て、帰国の機会があったが、彼は帰国
 をしなかった。
  息子のジョセフは、相模国の所領を相続した。
1620年、江戸城修築
  東国大名に命じて、江戸城の本丸・北の丸の修築工事
 を行った。
1620年、桂離宮(かつらりきゅう)が創建された。
  敷地面積は、70000平方メートルで、
  庭園部分は、58000平方メートル。
  作庭者は、小堀遠州と言われている。
  世界的に」有名な建築家のブルーノ・タウトは、あま
 り綺麗さに、美しさに、二度も訪れ、そして、「泣きた
 いほど美しい」と言った。この言葉も有名。
  「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、
 すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に
 接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)
1620年、徳川秀忠の娘の和子が、中宮となった。
1620年、米蔵を浅草に建てた(浅草御蔵・あさくさおくら)
  最大の規模の時、67棟あった。
  毎年30万~40万石の米穀を出納した。
1620年、この頃、シャム(タイ)・ルソンに日本人町が栄
 えた。
  最盛期の推定人口、マニラ3000人、アユタヤ(シャム)
 1500人などの7か所の全日本人町で5000人以上、
  その他・ベトナムのフェイフォ(現在のホイアン)・
 トゥーラン(ダナン)、カンボジアのプノンペンとピニ
 ャール、
  伊勢の豪商の角屋七郎兵衛の朱印船貿易で繁栄し、多
 くの日本人が移住して形成した。
1620年、イギリス人の清教徒(ピューリタン)がメイフラ
 ワー号でアメリカに渡った。
  16世紀、イギリスのエリザベス1世が、イングランド
 国教会を確立したが、
  17世紀にかけて、キリスト教会の改革を主張する清教
 徒が勢力を持つようになった。
  特に、国教会からの分離を求めた分離派と呼ばれた清
 教徒は、弾圧を受けた。
  そして、弾圧を避けるためにアメリカへ渡った。
  この後、アメリカへは、続々と、種々の移民が来るが、
 先に入国した移民が、後から来た移民の労働力を搾取し、
 富を増大させるというパターンを繰り返して行くアメリ
 カだった、
  その様な国の形態を今・現在でも続けている。
  1600年代初め、アメリカへ渡るイギリス清教徒たち。
  ピルグリム・ファザーズ(ピルグリムは巡礼者、さす
 らい人の意味)と呼ばれたイギリスのキリスト教徒であ
 る清教徒(ピューリタン)が、1620年に、アメリカに渡
 る。
  この様な初期の人たちは、気候の厳しい冬を越える事
 が厳しかった。
  餓死者が大勢出た。
  2013年5月2日のアメリカの新聞「ワシントンポスト」
 は伝える、
  「1600年代初め、イギリスからアメリカのバージニア
 へやって来た移民(キリスト教徒のピューリタン)たち
 が、酷い天候と食糧不足に苦しめられ、
  食べ物が無くなって、
  生き延びるために、若い女性を食べたことが判明した」
 という記事を載せた。
  これは史実である。
  アメリカは、2015年に、日本人が食人したという映画
 を作って放映した。卑劣である。これは空想で作り話で
 ある。
  これは史実でも何でもないことを、さもあった様にし
 て差別する。
  この様な、日本人への蔑視行為をする。
  人種差別行為をする。
  自分たちの差別行為を隠して・・。
..
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(増補版)107特C3/3:気になった事柄を集めた年表(1602年~1620年)

2015-05-22 03:22:58 | 日記
題:(増補版)107特C3/3:気になった事柄を集めた年表(1602年~1620年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
  以下に、この頃の、日本におけるキリスト教の活動と、
 幕府などの対応を、主にまとめました。
  キリスト教会は、日本に迫害があったとひたすら過激
 に言いますが、日本人の穏やかさがこの面でも出ていま
 す。
  また、キリスト教に偏するNHKも、ひたすら殉教だ・
 殉教だと言い、また、放送しますが、幕府は法を犯した
 キリスト教宣教師を取り締まったというレベルです。
  NHKの事実誤認を惹起させる報道姿勢を糾弾します。
1602年7月3日、島津藩の島津家久は、貿易をしたいため家
 臣を、1601年に、フィリピンのマニラに派遣した。
  そして、その家臣は、貿易と宣教師派遣に関しての返
 書をもって帰国した。
  キリスト教宣教師の派遣が出来る事が貿易の条件だっ
 た。
  藩主・家久は、貿易がしたかったため、1601年8月22日
 付けで、宣教師を派遣して良いという返書を送った。
  そして、1602年7月3日に、第一次と称するキリスト教
 宣教師団の5名が日本に来た。
  藩主・家久にすれば、貿易だけがしたかっただけなの
 に、この様な条件が付いて来たと、1601年8月22日に許可
 したのだった。
  まだ、関ケ原の戦いが終わったばかりで、江戸幕府も
 開設されてないこの時、そして、徳川の政治もこれから
 という時だった。
  この宣教師らは、その様な時代の中を自由に宣教した。
  藩主も許可していたので、まったく自由に動き回るこ
 とができた。
  ここの所の記述において、キリスト教会の記述は、ひ
 たすら迫害されたと過剰に記すが、まったくの嘘の記述
 で、藩主が許可していて迫害など全くなく、自由に動き
 回っている状態だった。
  また、この頃の家康も、キリスト教の真の目的(キリ
 スト教宣教師は、領土獲得の尖兵の使命を受けていた。
 キリスト教本部への宣教師の報告書でも、その事が、記
 述されていて分かる)を知らず、江戸に宣教師を来るよ
 うにとか、京都に教会を建てて良いとかと言っている。
  キリスト教会がいう様な「迫害」などまったくない。
  そして、島津家も、家康へ状況を知らせている、
  そして、徳川家の考えを伺って、その通り行動してい
 る。迫害なんて全くない。
  それをキリスト教会は嘘記述をする。
  村人も、日本人の性格の良さが出ていて、純真で、目
 を患った神父を助けている。迫害なんて全くない。
  キリスト教会は、意地が悪く書く。
  日本は、迫害行為をしているヨーロッパとまったく違
 うのだ。
  キリスト教のバチカン政庁に残っている資料が、その
 日本の誠実さを物語っている。
  まだ、何も知らない薩摩藩主も、キリシタン側へ土地
 を提供し、教会や修道院を建ててやっている。
  また、多くの蝋燭や米の寄進を申し出ている。
  ここの所を、キリスト教会は、「貿易があるから迫害
 が無かった、貿易が無ければ迫害は確実だった」とかと、
 日本を悪い方向へと書く。
1607年7月に佐賀に教会と修道院を建設している。それも、
 あちこちに。
  そして、その10年後・・・
  キリスト教についての状況が分かって来ると・・
1616年7月、キリスト教宣教師が、京都から長崎へ移る。
  キリスト教の真の目的を知った幕府は、1612年に、キ
 リスト教を禁止するが・・、
  そして、キリスト教宣教師たちを乗せた追放船を出航
 させるが、
  キリスト教は、卑劣にも日本へ宣教師たちを潜行させ、
  そして、宣教師たちに活動させた。
  第二代将軍となった徳川秀忠は、その為、キリスト教
 の取締りを強めた。
  このため、京都で活動していたキリスト教宣教師が、
 京都に居られなくなり、長崎に移っただけのことを、キ
 リスト教会は、「迫害だ、迫害だ」と騒ぎ立てる。
  本当は、法を犯して宣教活動をしていたので、捕らえ
 られるところなのだが、捕らえられずに長崎に移れたの
 だ。
1616年12月、キリスト教宣教師の潜伏発覚したので、捜索
 が開始される。
  キリスト教宣教師が、幕府の法律を守らないで、日本
 に潜伏していることを知った幕府は、その捜索のため、
 幕府の役人の明石内記が長崎に行った。
1617年5月22日、日本に潜伏し、法律を破っていたキリスト
 教宣教師が、とうとう、処刑された(2名)。
  それでも2名。ヨーロッパはその何百倍、何千倍だ。
  キリスト教には、贖宥(しょくゆう)と言って教会が
 罪を許す事が出来る教義があるが、1616年2月には、日本
 人のキリスト教徒間に、この贖宥が原因したトラブルで
 争いが起きた。
  キリスト教の派閥の争いである。
  この様な経過の中で、大村藩主はキリスト教を捨てた。
 棄教してキリスト教を止めている。
  そして、その棄教の後の1617年4月に、一人のキリスト
 教宣教師が逮捕されている。
  そしてまた、その翌月の1617年5月に、また、一人の宣
 教師が逮捕された。
  この2名が、この日に処刑された。
  ヨーロッパでは、あちこちの町で、何千人と魔女にさ
 れた女性が焼き殺されていた頃の日本だった。
1617年5月23日、キリスト教宣教師が殉教だとひたすら言い、
 間違った宣教をした。
  捕まっていない2名のキリスト教宣教師は、昨日の処刑
 を美化した。
  日本の信徒に間違った美化した宣教を行った。
  日本の信徒も洗脳され激情した。
  これを、今・現在のキリスト教会も美化して報じてい
 る。
  殉教だと、だから宣教するのだと、洗脳的な言葉を言
 う。
  それで、日本の法律を破る行為をやる。当然の結果で
 捕まり処刑されることとなる(2名)。
1617年7月23日、捕まったキリスト教宣教師1名と日本人信
 徒6名が、牢屋に入れられながら、自由に宗教活動が出来
 たという。日本は優しい国だ。
  獄吏の黙認の下にできたのだという。
  だが、10月に厳しい監視をする者が来て出来なくなっ
 たという。日本は本当に優しい国だ。
  キリスト教宣教師を匿(かく)まったり不法の行為を
 した者、活動を助けた者が処刑された(2名)。
1618年2月7日、キリシタンの長崎代官(末次平蔵)が、
 1617年12月に、幕府の金を不正に使ったとして訴えたこ
 とが元で調べられ、逆に、宣教師を匿ったことがばれて、
 この日に、長崎に追放処分となった。
1618年2月、天草地方のキリスト教を捨てた者を、キリスト
 教宣教師が元に戻らせたという。
1618年8月13日~18日、キリスト教宣教師が、マニラから長
 崎に来た。
  この時、日本の保証人が、お金を出して、朝鮮布教を
 できる様にしていたのが、この時に臨んで、そのお金が
 出なくなったので、朝鮮への宣教師は行けなくなったと
 いう。
1619年3月14日、キリスト教信徒が通報して、キリシタン宣
 教師が捕らわれた。
  「裏切りだ」と、しきりにキリスト教会は言うが・・、
 法律に則った正しい行為だ。
  そして、翌日、捕らえられたキリスト教宣教師。
  そしてまた、その宣教師の下僕が白状して、別のキリ
 スト教宣教師が捕らえられた。
  キリスト教会は拷問があったのだろうと推測して悪く
 言う。
  ヨーロッパのキリスト教会裁判所の魔女の拷問は卑劣
 だったが、それを想像して、日本も同じだと思ったのだ
 ろう。
1619年3月27日、キリスト教宣教師が壱岐島に配流された。
  比較的自由に生活でき、行動できた。
1619年9月、長崎奉行が、一時的に、牢にいるキリスト教宣
 教師を、ポルトガル人やスペイン人が援助する事を許し
 た。
1619年12月1日、徳川秀忠が、キリスト教宣教師の宿主をし
 ていた村山当安を処刑した。
  親類縁者も処刑されたという。
1620年1月、キリスト教関係の施設の取り壊しが始まった。
1620年3月には、キリスト教宣教師がマニラに帰っている。
  日本は厳しい取り締まりはしていない。
1620年8月4日、オランダ船が幕府の法律行為を助けるため
 か、キリスト教宣教師2名を連行して、長崎に連れて来た。
  この船は、イギリスの海賊行為を受けていた。
  これは償金目当てだとキリスト教会は悪く言う。
  そしてまた、助けようとしたが失敗したという。
  この頃の長崎は、役人や庄屋までがキリシタン宣教師
 の味方をしたという。
  そのぐらい、穏やかな取り締まりの日本だった。
  キリスト教会は、ひたすら苛酷だとか、厳しい迫害だ
 とかと言うが、全く違う。
  「自由に司祭は仕事に行くことができました」と言っ
 ている。
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