題:(増補版)269E1/3:気になった事柄を集めた年表(1866年8月~1867年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年(慶応2年)8月26日、軍艦・開陽丸
江戸幕府の軍艦・開陽丸が、就役(しゅうえき、仕事
や任務に就くこと)した。
以下、勝海舟の話・・、
幕府から、開陽丸という軍艦を、オランダに注文した
時に、榎本武楊や赤松大三郎などを、海軍伝習性として、
オランダに派遣した。
それが出来上がって、日本に回航してくる時分には、
この伝習生らも、少しは海軍の様子が分かって来たもの
だから、
自分で開陽を乗り回して、日本へ帰って来た。
その時、
開陽には、幕府から雇い入れたオランダの海軍士官13
名という者が、日本の海軍のお傭い教師として便乗して
きた。
ところが、これが外交上の一悶着となった。
何故かというと、これより先、イギリスの海軍士官を、
日本のお傭い教師として、かねて頼んでおいたので、オ
ランダの士官の方が、まだ到着しない以前に、はや日本
へ来ていた。
そこへ重ねて、オランダからも雇い入れたという事だ
から、オランダの士官も、イギリスの士官も、双方なが
ら大怒りに怒ったのさ。
オランダの士官は、「ぜんたい我々は、オランダ国王
から勅命を持って、幕府に雇われて来たのだ。
その雇われて来るのにも、無条件ではない。
日本の海軍を、我々オランダの士官の一手で、教育し
てもらいたいとお申し出によって来たのものである。
それを何ぞや、我々を差しおいて、イギリスからも教
師を頼むなどとは、実にもってのほかである」という。
それからまた、イギリスの方で見ると、「ぜんたい幕
府は、我々、イギリス海軍士官に日本の海軍を、一手に
教育してくれとあるからして、はるばる、この極東まで
やって来たものだ。
しかるに、今更、無断でオランダの士官を雇い入れ、
しかもそれに、海軍教育の全部を一任するなどという約
束をするとは、我々の顔ヘドロを塗るものだ。
こうなった上は、我々に対してお結びになった約束は、
どうせられるお考えであるか」と理屈を言う。
さあ、大変なことが持ち上がったというもので、幕府
の外国奉行たちは、大狼狽にうろたえて、
やれ今日も相談でござる、やれまた明日も相談でござ
ると、
毎日毎日、相談ばかりに日を暮らしたけれども、
どう始末をつけてよいやら、とんとまとまりがつかな
かった。
そこで奉行たちから、俺の所へ、この始末をつけてく
れと頼みに来た。
俺は、この時分には、もはや外国語も使っているし、
外国人にも、いくらか名前も知れているし、外国事情に
も相応には通じていたから、
それで是非にお頼み申すと泣きついてきたのだ。
そこで、俺はすぐに、外国奉行らが額を集めての相談
最中の席へまかり出て、
「皆様方において、この度の一件の善後策を、勝にお
頼みなさるという御事ならば、私は、あらかじめ、一応
申し上げておかなければならない事がございます。
それは、別儀ではない。
もし、この事件に関する一切の全権を、私にお任せに
相成るならば、私は、万事、お引き受け申して、幕府に
は、少しもご迷惑を相かけないようお取り計らいいたし
ましょうが、
しかしながら、左様でなくて、ただ一部分のみをお任
せになって、談判の進行中に、私を制約せられるような
ことならば、私は、まっぴらごめんを蒙ります」と、こ
う申し出た。
そうしたところが、奉行たちも、この際、困り切って
いる最中だったから、
「なんじょう異存を申すべき、全権を任せて勝さんに
お頼み申します」と言ったから、
それではと、俺は、直ちに、開陽丸へ船でこぎつけて、
まず、オランダの方から談判に着手した。
オランダ公使にも、むろん立ち会わせておいて、
さて、俺は、「幕府は、色々入り組んだ事情がござい
まして、せっかく皆様が万里の波浪を破って、はるばる
ここまで来てくださいましたけれども、
とても今のところでは、この折り重なっている事情の
ために、皆様をお頼み申しておくわけには参りません。
その代わりに、皆様方の約束の報酬3年分は、ただいま
一時に差し上げますから、ひとまず帰国してください」
と言い出した。
ぜんたい、この場合では、とにかく理由が無くって約
束を破るのだから、中々やかましいのは、初めから覚悟
をしていたのだが、
しかし、向こうも俺の顔に免じて、思ったほどは、や
かましい理屈も言わずに、とうとう俺の申し出の通りに
承知してくれて、オランダ士官は、一同折り返して帰国
する事となった。
そこで、俺は、機転を利かして、一同を築地のホテル
へ連れて来て、酒肴料として金を千両くれてやった。
そうしたところが、大そう俺に礼を言って帰った。
それから、まず一方の談判が落着したから、今度は、
イギリスの方へ掛け合いをして、この方は、もう訳もな
くうまくやりつけたが、
この事件を片付けるために、俺は、あの時、早馬で3日
の間、横浜へ通ったよ。
この頃のイギリスの公使と言えば、かの有名なパーク
スだが、今のサトウなどは、その頃の書記生で、確か、
24歳くらいで、年の若いのに似合わないやり手であった
よ(氷川清話)
1866年、福沢諭吉の「西洋事情」初編が刊行された。
福沢諭吉は、江戸幕府の命によって1860年(万延元年)
にアメリカに渡った。
そして、1862年(文久2年)に、ヨーロッパに渡り、
その後、1866年(慶応2年)に、「西洋事情」初編3冊
を刊行した。
翌年の1867年(慶応3年)、再びアメリカへ渡り、
その後1868年(明治元年)に、外編3冊を、
1870年(明治3年)2編4冊を刊行した。
そして、その内容については・・、
政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学
技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気
機関、電信機、ガス燈などに及んでいる。
例えば、政治については、政体が君主政(君主制)、
貴族政、共和政の三種類の政体に区別されて、
イギリスでは、これらの政体を組み合わせていると記
されている。
文明国の六つの要訣(ようけつ、物事の最も大切なと
ころ)については、
法の下で自由が保障され、人々の宗教には介入せず、
技術や文学を振興し、学校で人材を教育し、安定的な政
治の下で産業を営み、病院や貧院等によって貧民を救済
する・・と論じている。
外交については、通商や婚姻によって君主間の関係を
構築し、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基
づいて大使が相互に派遣される・・という外交の制度が
紹介されている。
1867年1月10日(慶応3年)、徳川慶喜、15代将軍となる。
1867年9月17日に、徳川宗家は相続したものの、将軍職
の就任は拒み続けていた・・が、
1867年12月30日に、将軍の宣下を受けて、ようやく将
軍に就任した。
徳川慶喜は、正二位権大納言に任ぜられ、
徳川の最後の征夷大将軍となり、
1913年(大正2年)11月22日、77歳で没した。
(将軍在職1867年~1867年)
就任後、フランス公使・ロッシュの援助で、幕政の改
新を図ったが、大勢には抗しえなかった。
徳川慶喜将軍宣下(氷川清話)
1867年、この頃、葛餅(くずもち)15文。
1867年1月12日、幕府が、デンマークと通商条約を締結した。
(日丁修好通商条約調印)
丁はデンマークのこと、読みは「にってい」。
1867年1月13日、フランス軍事顧問団が、横浜に到着した。
翌日から、幕府陸軍の訓練を開始した。
第一次フランス軍事顧問団(1867年~1868年)は、西
洋式陸軍の訓練のために、日本に派遣された、最初の顧
問団で、士官6人、下士官兵9人の15人だった。
団長のシャルル・シャノワーヌ参謀大尉が率いた。
後に、4人が追加派遣され、総勢19名となった。
顧問団の一部は、明治政府成立後も、幕府側に加担し、
戊辰戦争に参加した。
横浜で、到着の翌日から訓練開始した軍事顧問団は、
大田村陣屋(現在の港の見える丘公園付近)で、幕府の
エリート部隊である伝習隊に対し、砲兵・騎兵・歩兵の
三兵の軍事教練を開始した。
伝習隊は、最新の装備は有していた。
団長のシャノワーヌは大坂に赴き、ロッシュとともに、
1867年5月2日および3日の二日間、将軍・徳川慶喜に謁見
した。
ここで、シャノワーヌは、幕府陸軍の大規模な改革の
必要性などについて述べた。
これに対し、慶喜は、江戸において、陸軍総裁・松平
乗謨から承る(うけたまわる、謹んで拝聴する)こと、
必要経費は勘定奉行より支給すると回答した。
その後、幕府陸軍は、大幅な組織改革を行い、旧暦9月
(10月)には、顧問団は、横浜から江戸に移り、教練を
受ける兵員数も増加した。
教練の成果に幕府も満足し、1867年10月20日には、陸
軍奉行の石川総管と浅野氏祐の連名で、シャノワーヌに
宛てて感謝状が送られた。
しかしながら、1867年11月9日の大政奉還、1868年1月
27日(慶応4年1月3日)の戊辰戦争勃発により、軍事顧問
団の継続は不可能となり、訓練の期間は1年強に留まった。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年(慶応2年)8月26日、軍艦・開陽丸
江戸幕府の軍艦・開陽丸が、就役(しゅうえき、仕事
や任務に就くこと)した。
以下、勝海舟の話・・、
幕府から、開陽丸という軍艦を、オランダに注文した
時に、榎本武楊や赤松大三郎などを、海軍伝習性として、
オランダに派遣した。
それが出来上がって、日本に回航してくる時分には、
この伝習生らも、少しは海軍の様子が分かって来たもの
だから、
自分で開陽を乗り回して、日本へ帰って来た。
その時、
開陽には、幕府から雇い入れたオランダの海軍士官13
名という者が、日本の海軍のお傭い教師として便乗して
きた。
ところが、これが外交上の一悶着となった。
何故かというと、これより先、イギリスの海軍士官を、
日本のお傭い教師として、かねて頼んでおいたので、オ
ランダの士官の方が、まだ到着しない以前に、はや日本
へ来ていた。
そこへ重ねて、オランダからも雇い入れたという事だ
から、オランダの士官も、イギリスの士官も、双方なが
ら大怒りに怒ったのさ。
オランダの士官は、「ぜんたい我々は、オランダ国王
から勅命を持って、幕府に雇われて来たのだ。
その雇われて来るのにも、無条件ではない。
日本の海軍を、我々オランダの士官の一手で、教育し
てもらいたいとお申し出によって来たのものである。
それを何ぞや、我々を差しおいて、イギリスからも教
師を頼むなどとは、実にもってのほかである」という。
それからまた、イギリスの方で見ると、「ぜんたい幕
府は、我々、イギリス海軍士官に日本の海軍を、一手に
教育してくれとあるからして、はるばる、この極東まで
やって来たものだ。
しかるに、今更、無断でオランダの士官を雇い入れ、
しかもそれに、海軍教育の全部を一任するなどという約
束をするとは、我々の顔ヘドロを塗るものだ。
こうなった上は、我々に対してお結びになった約束は、
どうせられるお考えであるか」と理屈を言う。
さあ、大変なことが持ち上がったというもので、幕府
の外国奉行たちは、大狼狽にうろたえて、
やれ今日も相談でござる、やれまた明日も相談でござ
ると、
毎日毎日、相談ばかりに日を暮らしたけれども、
どう始末をつけてよいやら、とんとまとまりがつかな
かった。
そこで奉行たちから、俺の所へ、この始末をつけてく
れと頼みに来た。
俺は、この時分には、もはや外国語も使っているし、
外国人にも、いくらか名前も知れているし、外国事情に
も相応には通じていたから、
それで是非にお頼み申すと泣きついてきたのだ。
そこで、俺はすぐに、外国奉行らが額を集めての相談
最中の席へまかり出て、
「皆様方において、この度の一件の善後策を、勝にお
頼みなさるという御事ならば、私は、あらかじめ、一応
申し上げておかなければならない事がございます。
それは、別儀ではない。
もし、この事件に関する一切の全権を、私にお任せに
相成るならば、私は、万事、お引き受け申して、幕府に
は、少しもご迷惑を相かけないようお取り計らいいたし
ましょうが、
しかしながら、左様でなくて、ただ一部分のみをお任
せになって、談判の進行中に、私を制約せられるような
ことならば、私は、まっぴらごめんを蒙ります」と、こ
う申し出た。
そうしたところが、奉行たちも、この際、困り切って
いる最中だったから、
「なんじょう異存を申すべき、全権を任せて勝さんに
お頼み申します」と言ったから、
それではと、俺は、直ちに、開陽丸へ船でこぎつけて、
まず、オランダの方から談判に着手した。
オランダ公使にも、むろん立ち会わせておいて、
さて、俺は、「幕府は、色々入り組んだ事情がござい
まして、せっかく皆様が万里の波浪を破って、はるばる
ここまで来てくださいましたけれども、
とても今のところでは、この折り重なっている事情の
ために、皆様をお頼み申しておくわけには参りません。
その代わりに、皆様方の約束の報酬3年分は、ただいま
一時に差し上げますから、ひとまず帰国してください」
と言い出した。
ぜんたい、この場合では、とにかく理由が無くって約
束を破るのだから、中々やかましいのは、初めから覚悟
をしていたのだが、
しかし、向こうも俺の顔に免じて、思ったほどは、や
かましい理屈も言わずに、とうとう俺の申し出の通りに
承知してくれて、オランダ士官は、一同折り返して帰国
する事となった。
そこで、俺は、機転を利かして、一同を築地のホテル
へ連れて来て、酒肴料として金を千両くれてやった。
そうしたところが、大そう俺に礼を言って帰った。
それから、まず一方の談判が落着したから、今度は、
イギリスの方へ掛け合いをして、この方は、もう訳もな
くうまくやりつけたが、
この事件を片付けるために、俺は、あの時、早馬で3日
の間、横浜へ通ったよ。
この頃のイギリスの公使と言えば、かの有名なパーク
スだが、今のサトウなどは、その頃の書記生で、確か、
24歳くらいで、年の若いのに似合わないやり手であった
よ(氷川清話)
1866年、福沢諭吉の「西洋事情」初編が刊行された。
福沢諭吉は、江戸幕府の命によって1860年(万延元年)
にアメリカに渡った。
そして、1862年(文久2年)に、ヨーロッパに渡り、
その後、1866年(慶応2年)に、「西洋事情」初編3冊
を刊行した。
翌年の1867年(慶応3年)、再びアメリカへ渡り、
その後1868年(明治元年)に、外編3冊を、
1870年(明治3年)2編4冊を刊行した。
そして、その内容については・・、
政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学
技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気
機関、電信機、ガス燈などに及んでいる。
例えば、政治については、政体が君主政(君主制)、
貴族政、共和政の三種類の政体に区別されて、
イギリスでは、これらの政体を組み合わせていると記
されている。
文明国の六つの要訣(ようけつ、物事の最も大切なと
ころ)については、
法の下で自由が保障され、人々の宗教には介入せず、
技術や文学を振興し、学校で人材を教育し、安定的な政
治の下で産業を営み、病院や貧院等によって貧民を救済
する・・と論じている。
外交については、通商や婚姻によって君主間の関係を
構築し、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基
づいて大使が相互に派遣される・・という外交の制度が
紹介されている。
1867年1月10日(慶応3年)、徳川慶喜、15代将軍となる。
1867年9月17日に、徳川宗家は相続したものの、将軍職
の就任は拒み続けていた・・が、
1867年12月30日に、将軍の宣下を受けて、ようやく将
軍に就任した。
徳川慶喜は、正二位権大納言に任ぜられ、
徳川の最後の征夷大将軍となり、
1913年(大正2年)11月22日、77歳で没した。
(将軍在職1867年~1867年)
就任後、フランス公使・ロッシュの援助で、幕政の改
新を図ったが、大勢には抗しえなかった。
徳川慶喜将軍宣下(氷川清話)
1867年、この頃、葛餅(くずもち)15文。
1867年1月12日、幕府が、デンマークと通商条約を締結した。
(日丁修好通商条約調印)
丁はデンマークのこと、読みは「にってい」。
1867年1月13日、フランス軍事顧問団が、横浜に到着した。
翌日から、幕府陸軍の訓練を開始した。
第一次フランス軍事顧問団(1867年~1868年)は、西
洋式陸軍の訓練のために、日本に派遣された、最初の顧
問団で、士官6人、下士官兵9人の15人だった。
団長のシャルル・シャノワーヌ参謀大尉が率いた。
後に、4人が追加派遣され、総勢19名となった。
顧問団の一部は、明治政府成立後も、幕府側に加担し、
戊辰戦争に参加した。
横浜で、到着の翌日から訓練開始した軍事顧問団は、
大田村陣屋(現在の港の見える丘公園付近)で、幕府の
エリート部隊である伝習隊に対し、砲兵・騎兵・歩兵の
三兵の軍事教練を開始した。
伝習隊は、最新の装備は有していた。
団長のシャノワーヌは大坂に赴き、ロッシュとともに、
1867年5月2日および3日の二日間、将軍・徳川慶喜に謁見
した。
ここで、シャノワーヌは、幕府陸軍の大規模な改革の
必要性などについて述べた。
これに対し、慶喜は、江戸において、陸軍総裁・松平
乗謨から承る(うけたまわる、謹んで拝聴する)こと、
必要経費は勘定奉行より支給すると回答した。
その後、幕府陸軍は、大幅な組織改革を行い、旧暦9月
(10月)には、顧問団は、横浜から江戸に移り、教練を
受ける兵員数も増加した。
教練の成果に幕府も満足し、1867年10月20日には、陸
軍奉行の石川総管と浅野氏祐の連名で、シャノワーヌに
宛てて感謝状が送られた。
しかしながら、1867年11月9日の大政奉還、1868年1月
27日(慶応4年1月3日)の戊辰戦争勃発により、軍事顧問
団の継続は不可能となり、訓練の期間は1年強に留まった。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます