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(増補版)262D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年10月~1864年12月)

2015-12-20 02:33:00 | 日記
題:(増補版)262D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年10月~1864年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1864年10月 京都・大坂に、物価騰貴・長州征討・外国貿
 易非難の張紙がなされた。
  戦乱で世は乱れて・・、
  大坂やその周辺の物価は・・騰貴し、
  人夫徴発などの負担を、民衆は・・強制され・・、
  諸物価高騰は・・狂乱状態で、
  また、経済的要因だけではなく・・内戦状態にある世
 が、さらに、その状況に拍車をかけた。
  諸藩は、戦争状態のため、兵糧米を備蓄した。これが
 大きな原因だった。
  また、関門海峡封鎖により西廻りの米が入らなくなっ
 たこと、そして・・投機のために、米価は天井知らずに
 高騰した。
  数か月で、米価は2倍になった。
  逆に、日雇や手間賃の実質賃金は、数年前の半額にな
 った。
  特に、下層の庶民への打撃は・・大きかった。
  世直しの大一揆や、打ちこわしは・・起きた。
1864年10月19日、勝海舟が関係する神戸塾中の姓名出所が
 探索された。
  これは、激徒の巣窟に似ているというので、嫌疑を蒙
 ったもの(氷川清話)
1864年11月、勝海舟、小野浜に碑石を建て海軍鴻基の記念
 とする。
  明年、そのこと廃せられ碑石を深く土中に埋める(氷
 川清話)
  (参考)鴻基:こうき、大きな事業の基礎。
  ここまで、行動を追及されるこのグループ・・、
1864年11月15日、☆幕府、筑波の叛(天狗党の乱)の罪を
 問い水戸家家老・鳥居忠順、大久保忠貞など49名を斬る。
1864年11月21日、☆大阪城に於いて、征長軍議評定 。
1864年11月24日、勝海舟、帰府を命ぜられ陸路(氷川清話)
1864年11月30日、高杉晋作、脱藩し福岡に移る。
1864年11月30日、勝海舟、江戸に着く、老中・阿部豊後守
 に謁し形勢を述べ、直ちに家に屏居す(氷川清話)
  勝海舟、役儀を命ぜられ寄合となる。俗吏の猜疑を受
 ける。天下益々多事(氷川清話)
1864年12月8日、勝海舟、軍艦奉行免職。
  勝海舟が罷免(ひめん、職務を止めさせること、免職)
 され、約2年の蟄居生活を送った。
  八月十八日の政変で失脚した長州藩が、京都へ進攻し
 た禁門の変の責を問われて、勝海舟は、軍艦奉行を罷免
 された。
  さらに、土佐脱藩浪士や、長州に同情的な意見を持つ
 生徒が多かった神戸海軍操練所は、幕府の機関でありな
 がら反幕府的な色合いが濃いとして、翌年の1865年に閉
 鎖された。
1864年12月9日、☆長州征討軍の各自が攻め口に着陣した。
  1週間後の12月16日を攻撃開始とすると決定した。
1864年12月9日、着陣と同じこの日に、長州征伐の終戦へ向
 けて、終戦条件として求められていた条件(三家老切腹)
 の内、
  長州藩の国司親相と益田親施の二家老が、徳山藩にお
 いて切腹した。
1864年12月10日、その翌日のこの日に、長州征伐の終戦へ
 向けての長州藩のもう一人の家老・福原元が、岩国藩
 において切腹した。
  また、この日に、終戦条件で求められていた四参謀も
 野山獄で斬首された。
1864年12月13日、三条実美らの五卿、長州藩の諸隊士700余
 人に護衛され山口より長府に移った。
1864年12月16日(旧暦:1864年11月18日)、第一次長州
 征伐
  征長軍参謀・西郷隆盛の妥協案に基づき、長州藩、戦
 わずして恭順した。
  1864年11月21日に、大坂城にて征長軍は軍議を開き、
  1864年12月9日までに、各自は攻め口に着陣し、
  1週間後の1864年12月16日に、攻撃を開始すると決定し
 た。
  幕府は、朝敵となった長州の藩邸を没収、藩主父子に
 謹慎を命じた。
  しかし、どのような条件で長州藩へ謝罪をさせるかに
 ついては決めず、幕府や征長軍内においては厳罰的な案
 を含めていくつかの案が出された。
  三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放が降伏条件で開
 戦の開始を猶予する案が出た。
  そして、この日・12月16日に、「藩主父子からの謝罪
 文書の提出、五卿と附属の脱藩浪士の始末、山口城破却」
 の命令が出された。
1864年12月、長州藩の謝罪恭順・・長州藩内はゆれる
  第1次長州征伐直後、長州藩の俗論派は、幕府へ「謝罪
 恭順」論をとなえたが、
  それを排して「武備恭順」の路線を確定させた。
  この時、藩主の敬親(たかちか)が、腰砕けの佐幕に
 傾いていたら、長州藩は解体され、維新を先駆ける原動
 力にはなり得なかったと思われる(プレジデント平成10
 年7月号)
  第1次長州征伐を発令した幕府の大軍を迎えるという危
 機に直面すると、それまで後退していた俗論派が進出し、
  そして、過激分子を粛清して、幕府に謝罪するなどで
 危機を脱した。
  藩主。敬親は寛大だった。
  長州藩は、高杉晋作ら松下門の過激派が暴走しても、
 彼らの行動は黙認され、庇護を与えるまでに寛大であっ
 た。
  しかし、俗論派とは、たびたび入れ替わった。
  武備恭順を確定させた長州藩、武備恭順は、見せかけ
 だけの恭順、
  それは、再起を図るための武備をしているということ、
  長州藩の俗論派は「謝罪恭順」、
  幕府に全面的に恭順したという形の俗論派から見ると、
 武備恭順派は危険分子と写っている。
  故に、長州藩内で、この二派が争った。
  外国艦船の来航を契機に、平和な文化が花咲いていた
 日本は、すっかり戦乱の世となった。
1864年12月18日、小栗忠順(おぐりただまさ、幕臣)が、軍
 艦奉行を命ぜられた。
1864年、デンマーク戦争が起きた。
  ドイツの内乱につけこんで、イギリスとオランダの援
 助の約束を得た上で、北ドイツに侵入した。
  結局は、土地・領土の奪い合いの餓鬼の戦争。
  下記のアメリカ合衆国の場合も同じだが・・、
  ヨーロッパやアメリカのキリスト教国は、こんな戦争
 に明け暮れていた。
  そして、1866年には、懲りない面々は、またまた、領
 土・領有をめぐって、普墺戦争を起こすに至る。
  遅れた国々だった。
1864年11月29日、アメリカ合衆国の先住民の方々=アメリ
 カ・インディアンの方々がアメリカ軍によって虐殺され
 た。
  アメリカのコロラドで・・、
  アメリカ軍が、何と、無抵抗の先住民のインディアン
 の方々を無差別に虐殺して行った
  (シャイアン族とアラパホー族のインディアンの方々)。
  アメリカ合衆国の正規の軍隊が、無抵抗の人たちを、
 殺して行くという行為である・・が、
  また、アメリカの民間人も・・卑劣な方法で、先住民
 のインディアンの方々を追い出し、殺して行った。
  ならず者をのガンマンを雇って、インディアンの方々
 を追い出し、
  また、殺して・・土地を奪って行った。
  アメリカ政府は、居留地・保留地という方法で、
  インディアンの方々を集め、隔離し、インディアンの
 方々の土地を奪った。
  それで、アメリカ白人の入植地を増やしていった。
  入植地は順調に増えた。
  インディアンの方々は、物同然の邪魔者扱いで取り扱
 われ、人道的な視点はまったくなかった。
  キリスト教の有色人種蔑視の洗脳とマインド・コント
 ロールが行なわせた、
  この宗教は、完全にアメリカ人の判断力を鈍らせてい
 た。
  当然、インディアンの方々は、自衛のために・・抵抗
 し、戦いをすることになって行く。
  しかし、南米などでの、1000万人にも及ぶ殺戮と同じ
 く、
  スペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちのそ
 の蛮行と同じく、
  使用される武器、持っている武器の・・厳然たる差に
 よって、
  このアメリカの地でも・・、先住民のインディアンの
 方々は、その非力さによって・・殺されて行った。
  インディアンの方々が・・悪いのではない・・、
  コロラドでは、戦いの前に、「インディアンの頭の皮
 を買い取る」ということを宣伝する集会を、アメリカ人
 は開くという・・卑劣なひどいことをした。
  どちらが野蛮人か・・と、言いたい。
  「耳まで付いている頭の皮」なら高額だ・・という話
 までするという・・低劣さだった。
  インディアンの方々の土地の奪い取りを煽り立てるア
 メリカ人たちの・・集会だった。
  インディアンの方々の死体の処理は、ここには書けな
 いような野蛮な方法で処理された。
  新聞は、マスコミという立場を利用して・・卑劣にも
 インディアンの方々への憎しみを書きたてた。
  卑劣な報道機関だった。
  「やつら(インディアンの方々)は、この地上から消
 し去るべきだ、
  自堕落で、宿無し同然で、
  残忍で恩知らず・・そんな人種である」・・と、軽蔑
 すべき人種攻撃で、極端な差別報道だった。
  今・現代、インディアンの方々は、絶滅という危機に
 あるが、
  キリスト教に洗脳された人種差別観念によって虐げは
 続いて来た。
  2人の白人兵が殺されると、25人のインディアンの方々
 が殺される・・ということで報復がなされた。
  キリスト教の「目には目を」の報復の教義である、行
 為である。
  それにしても、進んだ武器を持っているからと言って、
 インディアンの方々を簡単に殺すアメリカ人の擦り込ま
 れた、洗脳された考え方が、なさせた行為だった。
  条約を破るのはいつも白人だった。
  そのため、あちこちで小競り合いがあった。
  そのいざこざを理由に、優れた武器で、アメリカ人は
 暴力をふるった。
  白人入植者が殺された時は、狩りをする様に、あたか
 も動物の狩りをする様に、インディアンの方々が居ると
 銃で撃って、インディアンの方々は殺された。
  そうしても良いと州政府は許可を与えた。
  インディアンの方たちは「赤い悪魔」と言われた。
  和平を宣言しているインディアンの部族の方々でさえ
 も、無差別に殺された。
  日本の東京や大阪や各地の都市が、無差別爆撃で、国
 際法違反の行為で、市民の方々が殺された様に・・殺さ
 れた。
  有色人種という事から、安易に殺すという行為が導き
 出されていた。
  インディアンの各種族の酋長の方々は、和平を、種族
 の中で話していた。
  アメリカが、メキシコの地を奪った時のやり方もそう
 だった。
  相手の困ることをやり続け、相手が反撃すると、仕方
 なくファイトバックすると・・、
  この時だとばかりに・・その事でもって、相手が先に
 手を出したのだという因縁(いんねん)の付け方をして、
  お前が先に銃を抜いたのだろ・・という論理で・・、
  キリスト教の教えである、相手が先に抜けば、相手を
 殺して良いというキリスト教の教義で・・、
  また、キリスト教には、戦う前に警告すれば相手と戦
 争しても良いという教義など、戦争論理が色々あるが・・
  何しろ、キリスト教はこの様な戦争になる教義や、「
 異教徒は殺せ」「魔女は生かしておいてはならない」の
 殺人指令の教義があるが・・、
  この宗教観が、この様な行為に大きく影響している。
  アメリカ軍大佐のジョン・M・チヴィントンの言葉:
  「インディアンに同情する奴は糞だ!・・
  私はインディアンを殺さなければならない。
  そして、神の天国のもとでは、どのような方法であっ
 ても、インディアンを殺すことは正しく名誉あることで
 あると信じる」。
  このアメリカ軍大佐は、インディアンの方々をシラミ
 にたとえるのが好きな人間だった。
  子供も無差別に殺した大佐だった。
  また、言った、「ちいさいものもおおきいのも、すべ
 て殺して、頭の皮を剥ぐべきです。卵はシラミになりま
 すから」と言った。
  この大佐が、この日に、何もしてない無実のインディ
 アンの方々を・・虐殺した。
  ほとんどが女性の方たちだった。
  男の人たちは、バッファロー狩りに出掛けていて留守
 だった。
  男は、ほとんどいなくて、居ても老人だった。
  攻められたインディアンの方々は、米国国旗を掲げ、
 米国保護下の場所だと主張し、示した・・が、
  また、白旗も上げて攻撃を止める様にも示した・・が、
  大きな声で攻めない様に、敵対的なインディアンでは
 ないと示した・・が、
  悲しいかな・・攻撃が止むことは無かった。
  大佐は、「殺せ!・・どいつもこいつも頭の皮を剥げ
 ・・、大きいものも小さいものもだ。
  シラミの幼虫は、シラミになるからな!」・・と、兵
 士たちに叫んだ。
  無差別虐殺命令を発していた。
  何と! アメリカ合衆国は、この軍隊へ、「野蛮人殺
 戮者の軍だ」・・と、栄光が与えられた。
  この様なアメリカだった。
  アメリカ合衆国の新聞は、「インディアンの頭の皮は、
 今や、エジプトのヒキガエルと同じくらい厚く重なって
 いる」と、馬鹿にした表現で報じた。
  「インディアンの絶滅がアメリカの悲願だ」と言った。
  大佐や兵士の「無抵抗者への殺戮者」は讃えられた。
  英雄となった。
  当然、インディアンの方々は憤った。
  無抵抗のインディアンの方々を殺したアメリカ軍の行
 為は、何ら、解決を与えるものではなかった。
  戦いを起こすアメリカ軍だった。
  この様な卑劣な行為によって、連鎖する戦いが生まれ、
 何ら関係のないアメリカの白人の方々が殺される原因を
 作った。
  その様な栄光を与えられるべきではない、無差別殺戮
 をしたアメリカ軍だった。
  コロラドのサンド・クリークにおいて、アメリカ軍が
 行った大虐殺行為だった。
  こんな事は、今・現代でもアメリカ軍はやっている。
1864年、ロング・ウォーク・オブ・ナバホ
  アメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンによる、
 卑劣な民族浄化と称して行われた行為。
  アメリカ・インディアンの方々に対する悪行為(極寒
 の時にわざと、500キロメートルにもおよぶ、歩いての
 強制収容所への移動命令)。
  特に、インディアンの方々の、弱者の・・赤ん坊、幼
 児、病人、ご老人などの多くの方々が命を落とした。
  すでに、説明させて戴きました。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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