goo blog サービス終了のお知らせ 

老人雑記

生活の中で気づいた浮世の事

   春   「 鬱 うつ 愁い 」

2019-03-22 09:38:11 | 俳句

 

       

       (四国の表玄関 玉藻城周辺の交差点)

鬱鬱うつ鬱 憂うつ

 

まったくもって恥ずかしい。

昨日は近所の句会の見学に行った。

句会と名前がついていたから「句会」だと思った。

最初から見学をして、もし?よかったら、、と思ったから?

しかし句会?勉強会?添削会だった。

師?指導者はかっては超有名な結社の同人だ。

そんな人達の集まった句会だと思っていた。

 類句、類想 俳句以前の句のオンパレードだ。ただごとの句ばかり。

先生と呼ばれている人は確かに添削は上手い。しかし添削をやって句が別物になったり、レトリックを使い、難しい漢字を無理に使ったりして小難しい上手そうな句にはなる。しかし類想、類句、掃いて捨てて余りあるおざなりの句が出来あがる。

       

       (サンポート この港から船の旅は始る。)

黙って見学をしていたのに、つい意見をはさんでしまった。後味の悪い自分に嫌気がさし午后は港へ船を見に。

今後、いくら近辺の句会で近くても、出席いたしません。

 午后は灰汁のたまったような心を一新するために、サンポートね散策に。

    (サンポーと展望デッキかた見たサンポート周辺)

 旅に行きたい。

           春の湖へ愁の詰まる旅鞄

           おぼろめく玉藻の城や忘れ潮 

      

      

      (もうすぐお城の桜祭りがはじまる。)

 

            花の門雪洞すさびをりにけり 

少しは鬱がはれたかな。

            薔薇咲けるいつも旅立この港

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


     涅槃桜

2019-03-19 14:59:20 | 俳句

 

 散歩の途中で出会った桜。

親子の見物人がいて近寄ると、桜が咲いていた。

娘さんが、「涅槃桜」と教えてくれた。

 

 『ミョウショウジ、またはミョウショウジザクラ明正寺桜)だそうだ。

サクラ園芸品種の一つである。カンザクラとカラミザクラ雑種と考えられている。3月中旬に微淡紅色または白色の花をつける。別名涅槃(ねはん)桜。』

 ソメイヨシノにくらべ、1ヶ月近く早く咲きはじめ、その時期が釈迦の入滅した2月(旧暦:現在の3月)15日に近いことから涅槃桜と呼ばれています。愛媛県新居浜市黒島の明正寺(真言宗善通寺派)で発見し、品種名をミョウジョウジサクラと命名したもので、花の香りが一般的な桜より強いのが特徴です。

1973年(昭和48年)に、明正寺から弘法大師御誕生1200年を記念して総本山善通寺に贈られました。

 

      

最近とみに善通寺で 涅槃桜 が咲いたというニュースが流れていた。

お大師さまと善通寺と涅槃なる言葉が重なると、なぜか連想をして有難く、無視できぬ、聞き捨てできぬ桜という感がしてくる。普通、見てみたくなる視聴者の気持ち。

その桜が咲いていた。薄い花びらが重なりあって詰まって咲いている。早々にお花見ができるとは、散歩のおかででの巡り合せと嬉しかった。

桜の俳句は名句があまたあって、自分で花を題材に詠むのはまこと難しい。

 

昨日に比べて今日は寒い。昨日は15度もあった気温が今日ま雨が降って11度まで下がっている。

花冷えとはまだまだ実感がともなわぬが好きな 風生さんの句が浮かんできた。

           花冷はかこちながらも憎からず     富安風生

決して憎いのではない。アンニュイな気持ちを楽しみながらも持て余してているようなそんな寒がりの風生さんが思い浮かぶ。

 

           睦まじく母と子花の寺巡り

 

 

 

 

 

 

 

 

 


      日の永し

2019-03-17 11:07:54 | 俳句

    

外へも出ずにひたすら?お裁縫。

毒にも薬にもならぬ小物を作って遊んでいる。    楽しい。 中に洗濯鋏が入っていてメモ挟みにもなる仔猫ちゃん。夫のネクタイの廃物利用だ。

 

         

もっともっと沢山作る?肩を凝らして時間を忘れて、ラジオはいつの間にか深夜放送になっている。

俳句仲間も聴いている人がいると耳にしたこともある。

一昨日、昨日と二日がかりで、又7エプロンドレスを縫った。

 

   

藍染のチェク の木綿の布。

まあ自分でいうのも?気にいった仕上がりだ。胸に猫ちゃんノブローチ。少し派手に見えるかな。

無心に縫っていると私の部屋は窓が西に。夕日が入ってきて急に部屋全体が明るくなる。

日が永くなってきた。

時計を見るともう五時。夕飯の支度? これが面倒だ。主婦失格。 冷蔵庫に残っている、おかずになる、材料を思い浮かべて適当に、、、、。そうはゆかない日も。急いで買物に。歩いて7~8分の所にスーパーが二軒ある。さて今日はどちらのスーパーへ行こうか? それで平凡な一日の終わり。

こんな日が続いて幸せと、、、、、目は治療中。心臓は小康状態、糖尿病が少し数字が悪いが、生かされている。健康な人には解らぬふっとした感。

 

            日脚伸ぶ透析終えて戻り来る

       お隣の奥さん。一週間に三度の透析通い。いろんな病持の方がいる。

 

            日の永し死ぬまで推敲しても駄句

       ちっとも句はできぬが、、、妥当なところと素直に諾える昨今。

            日の永し師が空席の句会かな

 

            スクランブル交差直角に曲がる遠足児

            春が来たピッコロのやう児ら唄ふ

      

       

 

  

        

 


    遍路鈴

2019-03-12 11:51:03 | 俳句

新しい散歩コースを見つけた。

       

いつも歩く道を左に曲がってみた。墓地が垣間見えるていたから、いつもは独りだと避けていた。連れ合いが一緒に歩いていたから、「この道へ行ってみようか?」と初めての道を登って行く。

何人かの人とすれ違った。私には新しく見つけた道だが、みなさん良くご存知らしく老夫婦、女性のグループ。屋島は奧深い場所だと再認識をする。

       

いきなり鬱蒼と木の繁った急勾配の径となった。

屋島の我が家附近で初音を聞いたのはこの山中が初めてだ。(他だは聞いている)

          初音聞く思いもよぬ古戦場

     最近、投句をした没句。まだ二月も早い頃。どこにでもある類想句。投句をしてから気がつく。勉強不足もいいところの句。

 

           遍歴も遍路も深く草に消ゆ    中原道夫

最近は一日中、遍路の鈴を聞いている。中にはパックパッカーのような青年が腰にすずを吊って霧の中に消えて行く景も。

真実鈴振り、、はかない人生をひたすら歩く人々を見守っている石佛さま。いつか草の中にみんな消えてゆくのだろう。

     

原生林の中に石佛さまが。新しいお花が供えられている。どなたかがお世話をしているらしい。

          

傍らに小さな菫が咲いていた。

            菫ほど小さき人に生まれたし     夏目漱石

見落としてしまいそうな菫。菫の種類は多い。なんという菫かは知らないが今日の一会がうれしかった。

    

行く先々にこのような道標が、、、全部これらは附近の人や全国の先達やボランティアの方々がやってくれている。

        

踏み固まれられた径。走り値が勾配を歩きやすく歩幅に添うように張っている。

           手足より確かなものに遍路杖     鷹羽狩行

無心で足を運ぶ。杖に疲れた身体をあづけていることも身体の一部分としている。全く、同行二人 お大師様と杖は切ってもきれない徒遍路の必需の品なのだ。    

           お遍路の誰もが持てる不倖せ     森 白象

           似たれども吾の筈なき遍路かな    野村登四郎

人生は遍路行脚と同じ。

 

ここを登りきれば屋島寺の裏門に辿る。

  

今は屋島寺、志度に住んでいる時は志度寺が散歩コースの一角だった。空海さまのお膝元に住んでいながら、ちっとも人間ができぬ。     

 門前の小僧経を読む、、、とはいかぬ。

             一山を震わしてゐる遍路鈴

             北窓を開くはるかを遍路鈴

     

           

      

 


  そうだ   躁なんだ

2019-03-08 10:06:27 | 俳句

         

私の名刺です。

勤めに行っていた時以来の名刺だ。

先だって栗林公園の鯉がヘルペスに罹って全滅をした。それで寄付金を集めていた。些少だけれどお役にたてばとカンパをした。

その記念だか?何だか名刺が送られて来た。

そうなんだ! 私はれきっとした「うどん県」住民なんだ。

税金もろくろく納めていないから、ふるさと納税なんてのは私には全く関係ないと思っていた。このカンパもふるさと納税扱いらしい。

 

医大での検査は、難病の目の再発らしい。検査に二日も要した。

取敢えず薬で様子を見ることになった。

ああそうですか!矢でも鉄砲でも飛んで来い。今は何も怖くない。限られた線路の上を走っているがいつどこで土砂が崩れいたり橋が落ちてるかもわからない、線路まかせの人生だ。あがいてもしょうがないと最近は考えていたから。

自分の意志ではいくらもがいても、どうにもならぬの。それの繰り返しの生き様だったから、開き直っている。

 

躁なんです。頭も働かなくなり「俳句」も最近思うことは、身の丈にあった句を、それなりに詠めばいいと開き直ってから、ルンルンランラン、躁が優って鬱なんぞは消えた。

詠めればよい。詠めなければそれも又仕方ないこと。

「おこりが落ちた」、、、そうなると何をしても気が楽、身が軽い。

 

            遠足の子が窓下を長き列

逢う人に「お早うございます」「お早うございます」口々に、、、可愛い事だ。

            飯蛸のおでんほほ張る子巡礼