無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

砂越城本丸跡

2022-09-11 22:44:05 | 歴史


飽海地域歴史研究会の課外授業で、酒田市(旧平田町)砂越城に来た。
朝9時50分集合だったので、余裕はあるなとキャベツなんぞを千切りしたりで時間を費やし、朝食はあと一口食べられないままに飛び出した。
事前に、砂越城本丸公園をGoogleで予習してたのに、マックスバリュの信号を曲がったのが行けなかった。


今日の授業に参加していた人が多かったので、後を付けた。
跳ね橋を渡って集合場所に着いた。


狭いけど一応堀である。



堀の内側の堤の上で講義が始まった。
砂越氏によって開かれた城と砂越町の歴史は、酒田よりも古い。
国府である城輪柵が本楯に出来たのは、この砂越が重要な町だったからだ。
その頃の酒田は海の底で、酒田が歴史に登場するのは平安時代の頃である。


砂越は最上川舟運の湊を持ち、平城である為に堀や堤を造った。
砂越周辺の他、南は清川、現鶴岡市の荒屋、谷定、北は星川、大井、瀧の浦、女鹿を勢力圏に置いている。
砂越氏の娘が秋田の能代の安東氏に嫁ぐ。物と人両面で交流があり、特に国代の鉄砲を譲った事が、歴史資料として脚光を浴びる。
国代は現在の滋賀県長浜で、大阪の堺と肩を並べる有名な鉄砲鍛冶が居た所である。
現在、平田には史料が少ないが、安東氏の嫁さんの方に多くの平田史料が残っており、その大半は八戸市に保存してある。


上杉氏の城の造りを習う。山城で段々になっているのは郭だそうだ。
また長篠の戦いで、織田の鉄砲隊が三列を組んで武田と戦ったことが、良い例として歴史に残っているが、武田側にも鉄砲隊は存在した。


堤がぐるりと回っている。


砂越城は古く、建物は残っていない。本丸があった辺りに、諏訪神社が建てられている。


砂越氏は鶴岡の大宝寺氏と度々戦った。
戦国時代になると、そこに最上義光や上杉も関わり合ってくる。
砂越氏没落後、鶴岡市の大山の武藤氏が砂越に入ってくる。
その折、大山の天神様を勧請し砂越氏の神霊を祀るとて諏訪神社を建てる。

日本人はね、たとえ戦いの相手、敵であってもきちんと祀るんだよ。
暗殺で倒れた人を、暴くような真似はしないんだよ。


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