無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

羽黒山の太々御神楽

2016-05-31 13:41:58 | 社会

山頂の駐車場はバスで溢れかえっていた。「土曜日は、酒田中の幼稚園や保育園が、羽黒山に行くって言ってるよ。」との情報が入っていた。その為少し早く家を出てきたので、萬谷さんの団体バスはまだまだ到着していなかった。

玉こんにゃくの自動販売機・・・でもないか。

四つ葉のクローバーを撮したりして、到着時間を待つ。

お迎えの山伏さんの案内で、羽黒山の説明を受ける。

蜂子皇子の墓所の前を通って本殿に参る。

参集殿の大広間で、羽黒山の歴史を聴く。

講師は権禰宜の佐藤氏。(ちなみに漢字が苦手な私は、禰宜(ねぎ)が読めなかった。Wikipediaに依ると、権禰宜は宮司の中で下位の役職だそうだ。)

今回の太々御神楽の詳しい説明をして頂くのだが、言葉の意味と漢字が判らず、途方にくれる。日本国中の各神社にも太々神楽が伝わっている所も多いが、羽黒山の太々御神楽でネットで拾えたのはこれだけだった。ええっ~、お一人様12000円なのか。昼食込みで10000円は、破格のお値段だったんだと、萬谷さんの実力を今更ながらに知ることになる。

蜂子皇子の開山以来、日本では西の伊勢参りに対して東の奥参りと呼ばれ、陰と陽に分けられていた。開山したのは羽黒山が早いが、月読命(つきよみのみこと)を主祭神とする月山が中心で、出羽三山にお参りすることは当時の人々には、多額の旅費と山賊の出没する道中の困難で、命がけだったと言われている。その為、地域の人達は大勢で講を組み、集めた金を一人か二人の代表に託して出羽三山参りを続けて来た。月山は無理だとしても現在のように自動車で動ける三山参りではなく、徒歩で山を巡った。ようやく羽黒山に着いたうれしさを形にして、この太々御神楽を奉納したと言われている。宮参り講でのお土産は留守を守る人数分の御札である。みやげは元々御札を貼る木で宮笥と言った。これがそもそもの由来である。佐藤氏は土産をうぶすなと呼んで説明したが、少し違うようだ。お伊勢参りでは、この宮笥の御札の他、神宮の周りで店を出し地域で取れた産物を売った。それが土産になったとも言われている。

これは蛇足だが、羽黒山と呼んでいる神社は、羽黒神社とは言わない。出羽神社(いでは神社)と呼ぶのが正式なのだそうだ。東北の奥、出羽の国(でわの国)の守りの神社なのだろう。


日本には雅楽がある。大和楽が古く、唐楽つまり大陸から伝わったとされている。これは笙 龍笛 篳篥(ひちりき)で演奏し、世界最古の和音を用いたオーケストラと呼ばれている。神楽では笙 龍笛 篳篥以外にも楽太鼓、琴、銀鉦、鳳笙、時には琵琶も用いたと言う。神楽のメインは唄である。歌い手は指揮者の代わりも務める。楽器はサブなのである。羽黒山の太々御神楽は、奈良の春日大社から伝わった舞だそうだ。

その後、三社合祭殿に移り、祝詞を上げて貰ったのち、太々御神楽が始まった。二人の巫女舞、一人の神主舞、一人の巫女舞と続けて奉納する。

ここで、撮影の許可を得て、動画を録画する。メインのカメラを壊して携帯での撮影なのだが、見事に失敗した。きちんと撮す練習をするべきだったと思う。最初のは録画ボタンを押したのに写ってなく、2-3度目の撮影では90度首を横に向けなければ、観れない動画になっていた。始めから写真にすべきだった。辛うじて写真になった最初の二人の巫女舞の部分である。まるで羽根を広げた蝶のように軽やかな舞だった。曲目は君が代。元歌が判らないほど編曲されていた。と言うより、こちらの方が元かな。動画と音源が無いのが返す返すも残念である。

その後、玉串奉奠など一連の行事を終える。

撮影が失敗しているにも関わらず、意気揚々と引き上げる私の目の前に、御神酒を配る若き巫女さん。

次に大広間に戻り、権宮司の阿部氏の講演を拝聴する。

羽黒山は今から約1400年前の推古元年(593)に第三十二代崇峻(すしゅん)天皇の第一皇子・蜂子皇子によって開山された。崇峻天皇は推古天皇(女性の天皇)の一代前の天皇であり、蜂子皇子は聖徳太子と従兄弟だと言われている。最初の開山は羽黒山だが、ついで湯殿山、月山と続き、出羽三山とした、その役割は、人間の現在を司る羽黒山、死と黄泉の月山、未来と生まれ変わりの湯殿山を指し示す霊山である。即身仏は湯殿山の信仰であり、高野山に源を発する。神社としては大国主命(最後には黄泉の国の守り主となった。)。羽黒山は稲荷神社も関係しているらしいが、時代に併せて目まぐるしく信仰の先を変えている。羽黒を含め庄内の辺りは、縄文弥生の遺物が数多く発掘される、古くから人が暮らしていた恵まれた土地だった。土着の信仰もあっただろうが、丁度その頃、大陸から新たな仏教も伝来し、霊山としての位置づけがされていった。

羽黒山はかつて神仏混合であったが、仏教に於いても度重なる宗教戦争にもまれ、天台宗に繋がれて行った。明治政府の神仏分離が行われると、正一位の神階をいただく羽黒山は神社となる。明治以後、太平洋戦争が終わるまで、蜂子皇子の墓廟は宮内庁管轄となり、職員の管理詰め所も墓所の前に残っている。神社として生き延びて行くにも、建物の形をその都度変えていかねばならなかった。神社となっても、未だに建物のあちらこちらには、仏教の名残が見て取れる。分離された仏教の方の建物の代表格が、羽黒の手向にある黄金堂である。神社としても寺としても、宿坊を営む山伏達は似た行を行う。寺では8月25日から1週間。神社では1日遅れの8月26日から1週間、各々行うのだそうだ。

 

話は変わって、伊勢神宮は20年に一度遷宮をする。その解体された用材を使って、地方の神社で改築を行う。庄内では羽黒山と鳥海山の大物忌神社でその用材を頂く。遷宮は建物だけにあらず、宝物も新しくする。今回、伊勢神宮から下附された御神宝を参集殿にて展示してある。御鉾、御櫛笥、蒲御靱、銅黒造御太刀だそうだ。・・・読めない。実物を確認するには、11月23日まで参集殿は無料。博物館では大人300円。

さて、齋館に場所を移しての遅めの昼食となる。今までで一番豪華な昼食だった。山菜づくしに舌鼓を打つ。

そこからまた移動し、お茶席に入る。この度の和菓子名は「いにしえの舞」だそうだ。

ついで、薄茶を一服頂く。この頃には足のしびれが限界を超える。

よろよろと立ち上がり、蝉の声や鳥の鳴き声の聞こえる窓辺に立つ。手摺りには苔が生えていた。

本殿から齋館に行くのに、内部を通って行く方法を知っているだろうか。延々と階段を登り降りするのである。

外の方が楽だったと思う人が殆どである。

駐車場へ行く参道で、ヒメシャガに出会う。

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