「神無月から神在月へ」シリーズはやっと完成した。1-15まであるので、読むのが辛いだろうと思う。
写真を整理している内は、旅の途中のような気がして楽しかったが、いざ書き始めると・・・・・・だった。
これだけ書いておけば、今回所用で一緒に行けなかった人にも、旅の様子が伝わるのではないだろうか。
「神無月から神在月へ」シリーズはやっと完成した。1-15まであるので、読むのが辛いだろうと思う。
写真を整理している内は、旅の途中のような気がして楽しかったが、いざ書き始めると・・・・・・だった。
これだけ書いておけば、今回所用で一緒に行けなかった人にも、旅の様子が伝わるのではないだろうか。
10月18日、庄内空港から一便で羽田空港へ向かう。
集合時間になっても来ないヤツがいた。あたしだけど。心配したKさんが電話をくれた。携帯に繋がらずに自宅へ掛けて、出たのが妹だった。そこでKさんは凍ったらしい。私と妹の声はそっくりで、なんでまだ家にいるのかと思ったらしい。私はフライトの時間は見て十分間に合うと行動したが、集合時間は気にも掛けていなかった。これが原因で、旅行中に遅れるのは私だと立派なレッテルが貼られてしまう事になる。
飯豊連峰や朝日連峰にも積雪が見られた。
庄内から羽田までは比較的天気も良く、雲の上に突き抜けて富士山の天辺が綺麗に見えた。近づけば近づくほど富士山は雲の中に埋もれていく。飛行機の高度が下がっているせいなのかと思ったのだが。
羽田空港で乗り継ぎをする。
天候は晴の予定だったが、眼下は雲海で富士山の先端も見ることが出来なかった。何時になったら富士山が見えるのかと尋ねたら、離陸まもなくだそうだ。探した頃には遅すぎたのだろう。
揺れもさほどなく、飲み物のサービスを受ける。二人のスカーフとエプロンは色違いだった。
瀬戸内海が見えてきた。島だらけである。ここは何処だろう。呉市の手前だろうか。
空港に着陸して滑走路を巡るときに、自衛隊機が見えた。ただ残念なことにオスプレイには出会わなかった。
岩国錦帯橋空港から
空港前でバスに乗った。
空港からほどなくして錦帯橋へ着く。道の駅ならぬ橋の駅から左手に折れ、河川敷の駐車場へ入る。
錦帯橋である。山の上に城が見える。
吉川家の岩国城へ登るのに、この木造の錦帯橋が掛けられたのが始まりだそうだ。
暴れ川だった錦川に、城下と城を結ぶために造られ、改修を繰り返し現在も美しい姿を保っている。
往復のチケットを買い、橋を渡って向こう岸へ向かう。
床材が同じ為、どこからが床でどこから階段になるのか良く見えずにずっこける。危険である。
武家屋敷が並ぶ一画は、現在公園になっている。
猫は人なつこい。
長屋門も立派である。
残された建物の殆どが文化財になっているようだ。
大きな家が残されている。
この家の屋根瓦は、特別に面白い。平瓦と丸瓦のコラボレーションなのだ。どうしてこんな風になったのだろう。
仏教系ではなく、櫓と思えるような建物が堀の向こうに見えた。吉川資料館の中の昌明館。
他にはシロヘビ観覧所なるものがあって、話の種に皆で入ってみたのだが。蛇見たい?1枚だけ撮してきた。動物学的には単なるアルビノだと思うが、ここでは天然記念物に指定されていた。
庄内とは違う植生が見られたが、残念だったのはこの地域もセイダカアワダチソウに浸食されていた。
橋の上から見た柱脚の部分の石の継ぎが面白い。右側には排水溝も掘ってある。
日本一種類が多いソフトクリーム屋があった。
河原の売店では、岩国名物の押し寿司が売られていた。店の人に「後で寄るから。」と言いつつ、斜め撮りした。旅人の「後で寄るから」は信用しない方が良い。
錦帯橋は美しい橋だった。
今回の旅は、どの場所も私にとっては初めてだった。普段なら予習はせずに向かうのだが、一応ルートの確認だけはネットを使って確かめていた。錦帯橋から安芸の宮島へ向かう。世界遺産の宮島は、本州から突き出して建物や鳥居があるものと思っていた。しかし、宮島はその名の通り「島」だった。しかも陸地から目と鼻の先にあり、船に乗って渡っても10分ほどの距離だった。
団体客専用の入り口から入る。ここに写っている人は、まったくの赤の他人である。
フェリーの数の多いこと!観光客の数はもっと多い。(当たり前だけど。)
船会社もいくつかあり、盛んに往復していた。我々が乗ったのと同じような3階建てのフェリーとすれ違う。
海に浮かんでいる筈の鳥居の下に、沢山の人影が見える。引き潮で近くに行けるようだ。
灯籠の歓迎を受けた後
すぐ近くで昼食を摂る。広島の牡蛎のフライである。
その後、ぞろぞろと厳島神社方面へ向かう
正式には野生だそうだが、人間の動きに動じない鹿が沢山いた。雄鹿は角を切った直後のようで、元気だから近寄らない方が賢明だと聞かされ、温和しそうな雌を撮す。
砂浜に沿った道路を歩き、入り口の鳥居を目指す。高台に五重塔と大きな建物が見えた。
鳥居をくぐり、左に折れ、石段を登って千畳閣に向かう。
豊臣秀吉の命により造られた千畳閣であるが、建築途中で秀吉が亡くなり、完成を見ることが出来ずに現在に至る。
この土地の穏やかな気候が、建物の傷みを少なくしている。破風の部分は風雨にさらされているが、柱の脚はまったく腐食していない。雪が降らない地方の特権だと思う。軒先の瓦は、当初金色で塗られていたらしい。
一般の観光客は、この建物を外から眺めるだけで、宮島の神社の方へ急ぐと言う。「興味があれば入れますよ。別料金ですけど。」とガイドさんが言った。するっと全員が入る。
千畳の畳が入る広さだと、この名前が付いたが、実際は8百数十畳だそうだ。
建設途中なのが幸いして、木材の組み方が見事に見える。それにしてもこの松材の太いことと言ったら。
床材も厚い。それに1枚の面積が広い。節の処理は、様々な面白い形で塞がられていた。
梁に直径1mは優に超える銅製の大きな方角盤が釣り下げられていた。
一度外に出て、縁の下をくぐって五重塔へ向かう。途中は立って歩ける高さである。
文化財の指定は受けているそうだが、羽黒山の五重塔に比べるとあまりに造りが雑で貧弱だった。
それに引き換え、千畳閣から俯瞰して見た宮島の厳島神社は、平安絵巻のような美しさである。
さて、本格的に宮島の厳島神社に参拝する。
海面ではなく、干上がった光景が見られるのは嬉しいのだが、海に浮かぶ神社も捨てがたいねと話す。
まずは本殿の方へと進む。左の女性は今回のバスガイドさんである。人柄も良く、何事も笑顔で対応してくれる。少々のアクシデントなど、さらっと受け流し見事な手綱さばき(?)である。通常のバスガイドの他に、選挙ではウグイス嬢も頼まれるそうだ。機転の利く、それでいて頭の良さを一切表に出さない素敵な人だった。
宮島の中では、お土産屋さんのボランティア(と言っておこう)のガイドの女性も案内をしてくれた。もうずっと先を歩いていると思われる。
参拝した後に、そっとご神体を撮す。大きな鏡だった。
人の流れのままに、回廊を歩く。
先に鳥居が見えた。
遠くから見る五重塔は、背景として美しい。
中心部へと移動する。
社の中に人がいるなと思ったら、結婚式の最中だった。
花嫁さんは綺麗だ。
巫女さんもそれなりに。
くわっ!かっ!! 中央の外部には、狛犬が鎮座していた。
狛犬が見守る先は、神楽の舞台だ。これは大河ドラマの平清盛でも使われたらしい。私は観ていない。
もう一対の回廊の方には
能舞台が組まれていた。ここで見る薪能はどんなに素晴らしいだろう。先の神楽の舞台でも、年に数回奉納されるようだ。
さらに進むと屋外へ出た。
お土産屋のガイドさんが「こっちです!」と旗を振るのだが、なかなか全員は集まらない。
砂浜は、まるで小川のようなさらさらの流れである。
反対側の鳥居を見た所。これほどの干満の差があるのなら、このような海に浮かぶ神殿も出来ると言うものだ。
この鳥居の木材が凄い。皮を剥いだだけで、円柱の加工はせずに自然の形のままに使っている。鳥居は砂浜に立てただけだと言うが、基礎はコンクリートだった。これは明治以後の仕事のようである。
フジツボなどが付着しており、それに硬貨がうまく張り付いていた。
足元の地面には蟹の穴があった。日本海のような磯臭さは、辺りには漂っていない。それでも生き物はいた。
厳島神社は古くは伊都岐島神社と読んだらしい。
数百年前の石積みを横目で見ながら、お土産屋街へ向かう。
青空天井のアーケードには、手動の天幕で日よけがしてあった。
あんな所や
こんな所を寄りもせず
気になる所も素通りして
目的地(?)の店に着く。九州屋と言うそうだ。なぜ宮島なのに九州かと言うと、先代の店の主人が九州の出だったらしい。まんまと、ここで紅葉饅頭を宅急便で送ることになった。宮島は特に産業はなく、観光だけが生きる道なのだそうだ。年間に何百万人の受け入れをしているとか。この日は修学旅行の団体とすれ違うことも多かった。
船を降りて一路広島へ
建物の軒先に見慣れた物がぶら下がっている。
あまりに多いので、不気味に思ってガイドさんに聞いてみた。市をあげてのお祭りがあるらしい。
広島には、様々なレトロな車両の路面電車が走っている。
ホテルは駅の横のちょっと素敵なビジネスホテルだった。
窓から眺めた風景がこちら。駅近くなのが判る。
夜は町へ繰り出す。
奥がアナゴ、左がカタクチイワシ、右がなんと「わに」だそうだ。「わに」って何よ!因幡の白ウサギに出てきたワニはサメだった。ちょっと歯ごたえの薄いビンチョウマグロのような食感だった。
甘鯛の兜煮にそうめん。そうめんもこちらが名産だったかな。
かきくえば・・・もう一品牡蛎の料理があったかな。
釜飯はお好みで具材が選べる方式だった。私はしらすを選んだ。みんなでバラバラに頼み、トレードしながら食す。
そうだ!この日は広島-巨人戦の最終日だった。「余所の店に飲みに行っても、決して広島の勝敗だけは喋らないように。」と念を押されながら、1日目の広島の夜は更けていった。
我々の旅行は、一般のツアーとは違い、観光地や目的を自由に組み込む事が出来る。当初の予定には広島の平和公園は入ってはいなかった。せっかく広島まで来たのに、平和公園に行かないなんて・・・。夜でも朝でも時間を見つけてタクシーを走らそうと考えていたら、旅の初日に渡されたスケジュールに、きちんと平和公園が織り込み済みだった。ありがとう!
朝の8時前にホテルを出発する。この頃からスケジュールは早め早めに動くことになる。
原爆ドームは、木立に隠れていたので、突然に見えた雰囲気があった。
その横を通り、相生橋を渡る。
川を挟んで、原爆ドームと対岸に平和公園はあった。川の堤防の石垣は、黒ずんでいた。原爆投下の日に、どれだけ大勢の人が水を求めて川にたどり着いたか。
もうすでに、修学旅行の団体や一般客も入っていた。
川があり、緑も多い公園だが、この原爆ドームをシンボルとして設計されている。
平和の鐘を静かに鳴らす。
原爆の子の像。原爆の為白血病で亡くなった少女の話は、何度も映画で観た。千羽鶴と歌が印象的で、今でも口ずさむことが出来る。
原爆の子の像の横を通り、さらに進むと燃える火が見えてきた。このモニュメントは人間の手のひらを上に両手首を合わせた形になっている。こちら側には水は張られていなかった。
芝生の広場の前に原爆の碑は建てられていた。
見たままであるが、ここから原爆ドームがまっすぐに位置している。
黙祷を捧げる。
広場を抜けると、広島平和記念資料館と、広島国際会議場がブリッジで繋がって建てられていた。綺麗な建物だった。
広島市を出て呉市へ向かう。広島は想像していたよりもとても大きな街だった。平成の合併で、都市はどんどん大きくなって行くと言う。
牡蛎の養殖場が見えた。
呉市の造船所付近である。沢山のクレーンと自衛隊の艦船らしき船が見える。
施設へ渡る歩道橋を歩くと、潜水艦が見えた。酒田北港に寄港した潜水艦とは明らかに大きさが違った。
大和ミュージアムに入る。
戦艦大和は、呉市の造船所で造られた。本物は太平洋の下に沈んでいるが、これは1/10スケールの模型である。それでも普通のレジャーボートを遙かにしのぐ大きさだ。
明治時代に造船所を造った歴史の資料が、年毎に並んでいる。内部はフラッシュを使わなければ撮影は良いそうだ。
そして少しづつ戦争に近づいて行く。
船や飛行機などに興味があれば、涎が出るほどの資料の種類と量があるミュージアムである。
子供達よりも大人に人気があるだろう。戦争を体験した人達には、思い起こす物が有りすぎた。
大和の設計の青写真(懐かしい)である。戦前の建築なら尺貫法で書かれている青写真もあるが、これはメートル法で記入されていた。
もう、この辺りを眺めると、胸が締め付けられるようだ。人間魚雷なんだもの。
残された旭日旗。一針一針丁寧に縫われていた。これに難癖をつける国が隣にあるが、この旗の元で自分達も戦った事を忘れてしまったようだ。
広島市と呉市は、平成の合併で隣合わせになった。実際に近かったから、広島上空に昇ったきのこ雲も振動も伝わったことだろう。
戦艦大和の模型の置かれている部屋の隣に、零戦や魚雷が飾られていた。零戦はここだけに限らず残されてはいるが、部品を換えたりせずに、原型をとどめている機は珍しいそうだ。想像していたよりも小さな機体だった。
階段をぐるっと降りて、ショップで大和のレトルトの海軍金曜日カレーを買った。
広島市から呉市にかけて、マツダ自動車の本社や工場がとても多い。走っている車も当然多いそうだ。これはマツダ車のモータープールで、左の大きな船に忙しく新車を乗り込ませていた。
海の写真が青いのは、バスのガラスのせいだろうと思う。こうして呉市を後にした。
呉市から高速道路を乗り継いで、本州を横断する。
特別に高い山は見当たらないが、峠のような山間をぬって高速道路は続いている。瀬戸内海に近い地域では、滅多に雪は降らず、10cmも積もると大変な事になるらしい。
すぐに安佐SAに入る。ここは「たたらの里」だそうだ。
砂鉄の採れる場所があり、たたら製鉄が行われたらしい。
産直野菜で珍しい野菜はないかと探す。買って帰れる訳ではないのだが。
さらに山間へと進む。走っている高速道路は、有料区間と無料区間が混在していた。窓から見える住宅は屋根瓦を葺いた立派な建物が多かった。
朝に平和公園を入れたので、食堂などで昼食を摂る暇はなく、お弁当が配られた。、魚づくしの旅で唯一メインは肉だった。
昼食後、ウトウトや爆睡で惰眠をむさぼっている内に、島根県へ入っていた。見た目は瀬戸内海の島と変わりはないが、ここは宍道湖(しんじこ)である。
本来の目的の(社)建築士会連合会の全国大会(しまね大会)の会場に到着した。歓迎の幟旗が揺らいでいる。
会場前では、若い建築士達が艶やかな半被姿で出迎えた。
忍者もいるし、武将も、ハイカラさんまでいる。
受付し、会場へ入る。式典が始まるまで、各ブースで展示やシンポジウムをのぞき、買い物をする。
式典の最初は、オープニングアトラクションで岩見神楽が演じられた。横笛を担当しているのが若い女性だった。曲は神楽なのに激しく切れることなく続いた。
八岐大蛇達が火を噴いたり暴れ回ったりと、凄い迫力だ。
そこへ登場したスサノオノミコトとクシイナダヒメ。この串稲田姫が面とはいえ、べっぴんさんである。須佐之男命(スサノオノミコト)は、げに恐ろしい顔をした豪傑だった。八岐大蛇伝説を神楽にしたこの大蛇(オロチ)を、大蛇6匹の短縮バージョンでお披露目した。
どんな物か知りたい方はこちらyoutubeの石見神楽(大蛇)をどうぞ
大会式典での会長挨拶が始まる。
・・・・・中略・・・・・・
大会を終え、会場から今夜の宿の玉造温泉へと向かう。
しばしの休憩の後、宴会が始まった。
全国的なビールで乾杯し、地元のワインや
地元の日本酒を楽しんだ。
あまりに、このシリーズが長すぎて、まだまだ続くようで読むにも疲れてしまう。
それに時系列が逆にアップされるのを見るのは辛いと苦情が舞い込み、数字を若い方から並べることにしたので、ここらでちょっと休憩!
さすがに島根は山形より西に位置しているだけあって、夜明けが遅い。
4時半に起きて、大浴場へ行ったら、沢山の先客がいて貸しきりにはならなかった。身支度を調え6時にホテルのフロントで玉造温泉の朝市の場所を聞く。
まだ夜は明けていない。そのお蔭で可愛い灯籠達に出会えた。
一つ一つが別の顔を持っている。さぁ、朝の散歩を始めよう。
道の脇に設けられた足湯のようである。小雨が降ってきた。
おや、足跡がある。先に入った人がいたようだ。
教えられた場所に着いた。外でテントでの朝市を想像していたが、ゆうゆと言う観光施設での市だった。断りを入れて写真を写す。
夕べの宴会のデザートに出てきた甘柿である。名前を聞いても「合わせ柿」としか聞けなかったが、合わせ柿だった。
ぶどうは比較的どれも安い。
魚は、う~んと首をひねる物も売られていた。ここは日本海産の魚介類である。
えらく長い茄子もあった。
庄内では見かけない野菜もあった。
懐かしい徳島のなると金時が、綺麗な紫の肌を見せていた。
夕べの宴会の時に出てきた平べったいインゲンは、ワレットと呼ぶのを知った。これは食べやすい。
地酒のコーナー
地ワインのコーナー
先ほどの葡萄の値段から、産地であることが判る。山間部も多いのだろう。バスの中で食べるみかんを買って外へ出た。
先ほどより少し明るくなってきた。
何本もかかる橋の上から見下ろすのも面白いが、川沿いを降りて歩くのも楽しそうだ。
橋は同じ物がない。曲玉(まがたま)をデザインした橋が見える。
この可愛い灯籠達をご覧なさい。日中に歩いたら気がつかなかっただろう。
こんな絵のついた灯籠もあった。
川のすぐそばに足湯があった。石垣に取り付けた井戸のような物は、実は各宿からの排水管を隠している物だ。こんな心遣いも良いなと思う。
木で出来た朽ち果てそうな橋もあった。もちろん渡ってみる。
橋の途中で井戸を見つけた。
もちろん寄ってみる。川に錦鯉がいた。
今し方渡った木の橋の全体が見える。堰の上のハの字と言うか、への字と形のがそうである。
道路の反対側に、こんな物を見つけた。
美人になる玉造温泉の温泉水である。無料で汲んで良いとの話しだった。スプレー式の容器は有料で、箱の中から取り出すようだ。温泉の水はミストにして顔にかけるらしいが、一応5日間以内で使い切って欲しいとのこと。
雨が降り止まないので、傘もさしておらず、少し急いで帰ることにした。こちら側が泊まったホテル側である。正面に見えるのが高速道路。ホテルは温泉街の一番端にあった。
実に面白そうな川である。
見たことのある顔の像があった。せんと君を造った藪内佐斗司氏の作品のようである。
こんな所にオロチもいた。
旅館に帰って朝食の後出発する。味噌汁は待望の宍道湖のしじみの味噌汁だった。美味しい。
玉造温泉を出て、出雲へ向かう。この旅行にメインイベントは数々あるが、同行者19名中女性が8名と言う比率は滅多になく、これも出雲大社の遷宮と縁結びのお願いがあった為と思われる。
出雲の平野は稲刈りは終わっていた。この地域の農家の特徴は、強い西風から住宅を守る屋敷林が西側に設置されている事だ。
単に普通に植える松の林と違って、植木職人の手で見事に刈り込みされている。近頃は職人がいなくなり、もしかするとこの風景は消えることになるかも知れない。
一つ残念な風景をお見せしよう。日本各地を侵略しているセイダカアワダチソウの黄色が、ここにも広がっていた。この植物は非常に生命力が強く、他の在来植物を枯らし、発する毒気によってミミズやモグラまでも駆逐すると言う。何とかならないものかと常々考えていたら、思わぬ話が他のブログに載っていた。後で詳しくこの話題は取り上げようと思う。
さて、せっかく時系列にシリーズは置き換えたが、出雲大社はバスの都合で駐車場から出発し、まったく逆のコースを辿ることになる。大社へお参りするのに、手水で身を清めることもせず、裏口から忍び込んだようなものである。
彫刻された塀が面白かった。
その塀の前にあったのが、「君が代」に出てくる「さざれ石」である。高さは2mを優に超える。実は羽黒山神社にもあると、情報が入った。
お土産が並んでいる建物の横を通り、神楽殿にお参りする。このしめ縄の見事なこと!
ちなみに、小雨ではあったが、傘が必要だった。「本殿の方は混んでいるので、必要ならお札の類はここで買ってください。」と言う声を無視して本殿脇で買うことにした。
巨大な国旗掲揚塔がそびえていた。でかいし高い。確か47m75mほどあると言う。ここに掲げる日の丸の大きさも尋常ではないようだ。雨が降っていなかったら、それを見ることが出来たそうだ。
近づいてお参りする。
神楽殿の中では、またしても結婚式が行われていた。わぁ~良いなぁ~!
こちらでは、別口の結婚式かなと思ったら、生け花の池坊主催の催しがあったようだ。やっぱり若い女性の着物は良いなと思う。
本殿の前である。もう人だらけである。これでも昨日よりも少ないのだとか。
これは柱が発掘された跡を、直径に合わせて石を敷いた物。昔の出雲大社は土台の背が高くて、とんでもない高さの階段がついていたらしい。その階段の柱ではないかと言う説明だった。
どうしたら本殿が見えるのだろう。
二礼四拍手一礼をして、おもむろにカメラを向けた。
こんなに人が多いのに、いつまでも佇む訳にもいかず、人に押されて横へはける。格子の隙間から中を撮すのだが。
格子はこんな具合に綺麗なのだ。
後ろを振り返ると、遷宮までのご神体を納めていた拝殿があった。
徐々に後ずさりをして、ようやく大社が少し見えてきた。
もっと下がると、もっと見えるかと思ったのだが。
こちらにも売店はあった。お札を頂くのに、売店はおかしいかな。私は普段なら並ばない行列の後ろについて、本殿の左脇でお札を手に入れていた。出雲大社には商売繁盛のお札が見当たらない。
門を抜けると、大きな大国主命の像が現れた。
その像の背後にあった建物だが、ちょっと名前が判らない。
逆のコースを歩いているために判らなかったのだが、松並木の左右を人々が歩いて、中央部分は空いていた。本来は一般人は左右を、中央は公家の方々が通る参道なのだそうだ。立て札が立っていたので、本当にそんな風に書かれているかと確かめたら、松の木のためなどと優しい言葉が書いてあった。松の木の根の為なら、左右でも駄目だろうと普通なら考える。
おい、そこの4名の一般人、どこを歩いているのかね!
ツワブキが綺麗だった。
凄い行列がここにもあった。小さな小さなお社なのに、大きな御利益があるのだろう。
本来ならば(またしても)入り口の鳥居をくぐって進む参道は、珍しいことに下り勾配で入って行くのだという。
そして、入り口の鳥居に着いた。
出雲から松江へとって返した。
出雲へは宍道湖の南側を走った。私が座っている席は逆側だった。帰りはゆっくりと撮せるかなと思ったら、宍道湖の北側を走ると言う。ガッデム!
カメラを向けて松江の街を撮した。
町の中心部へと入り、堀川の遊覧船乗り場へ着いた。
これから松江城の内堀を船で遊覧する。橋の下をくぐるので、船の屋根は上下に昇降する。頭を打たないようにと予行練習をして出発した。
何艘も遊覧船は進んでいる。定員が13名らしく、我々は二班に分かれた。
左手は城跡で、右手は住宅地から始まった。
第一の橋は、さほど低くない。右の実の付いている木はハゼで、実はロウソクの原料になると言う。
橋が少しづつ大きくなって官庁街へと進んでいる。
あまり良く写っていないが、鴨と一緒に亀がいた。ミドリガメが大きくなったのだそうだ。これも困った外来種で、かなりどう猛で在来の亀も魚もいなくなってしまうと船頭さんが言った。
この薄い建物は、酒田で言うところの半裂き屋である。間口で税金が異なったために、このような建物が建ったのだ。
これはもう大店と言える。
住宅だろうと思われる建物には、石段があって、昔はここで洗濯をしたようだ。ただ、この堀は宍道湖の水を引いている為に、少し塩辛い。松江は水の町と歌われているが、実際には飲み水には事欠くと言う。水道料が馬鹿高いと言ったが、本当かはわからない。
また、堀に宍道湖の水を引くためにポンプを動かしているそうだが、これが故障した時には3日間遊覧は中止になったそうだ。
橋桁まで低いのが全部で4箇所あった。屋根がウィーーンと下がって、這い蹲って通過するのを待つ。
サギが動かない。偽物か、ここはディズニーランドかと思ったら、生きていた。
松江城が見えてきた。本当は天守閣に登りたかったが、丁度この日が松江の祭りの日で、バスは入れないという。
わぁ~い、祭りだ祭りだ!賑やかにお囃子が聞こえてくる。全国大会の会場前にあったのも、この山鉾だと思う。町内毎に半被もデザインや色が違っていた。
この石垣も趣がある。石で積んだだけでも、工事費は馬鹿にならない。そのため見える所は石垣で、その他は林を広げることで石垣の代わりとして使ったのが、松江城の城壁らしい。
右手に武家屋敷が見えてきた。
この堀のほとりを散歩するのも楽しそうだ。
この近くに小泉八雲の銅像があった。住んでいた家も近いらしいのだが、我々の船の船頭さんは、そんな話よりも自分の給料の話しなど下世話なことに終始して・・・・残念だった。
左に曲がると、船着き場が近づいてきた。
宍道湖の水は中海を通って日本海へ流れる。宍道湖と並ぶ湖のような中海は、実は海水で出来ている。そのそばを通って安来市へ向かう。安来はあの泥鰌すくいで有名な所だ。
実はあの踊りは、本来は泥鰌ではなく、たたらの為の砂鉄を取る様子を踊ったのが始まりとされている。
まずは向かう前に腹ごしらえをする。
これに味噌汁とご飯、それに天ぷらがついた。
隣の家の屋根瓦が美しかった。
早めに店を出て、その辺りをうろついたら、やっぱりバスの集合にビリで入る。
屋根瓦の話しになるが、この辺りの住宅は大きい。今どきのハウスメーカーの住宅が見えない。2世代3世代で住む家が多いと言うことなのだろうか。全国何処へ行っても同じような住宅地の、プレハブと呼ばれるハウスが少ないのだ。余計に町並みが綺麗に見える。
風が強いとは言ってはいたが、軒先も出ていて鉄板葺きは驚くほど少なかった。裕福な地域なのだろうと推測する。
屋根の瓦の色も、黒色と赤色があった。産地が違うのだという。大きく2つの産地(地域)に分かれているそうだ。
それにしても、屋根の色が揃うだけで、町並みが変わる。
羨ましい景観だと思う。ヨーロッパの赤い瓦屋根と比較は出来ないが、日本でこれだけ美しいのは見たことがない。それが続く。
松江や出雲(島根県)は良い所だよと自慢して言える町並みがあるのだ。これは羨ましい。
この辺りの豪華な瓦の葺き方を是非に撮したいと思ったのだが、バスに座っている位置も悪かった。
そんなこんなしている内に、足立美術館へ着いた。現在は財団法人になっているが、この辺りの実業家の足立全康氏が71歳で開館したもので、その建物や敷地の広さ、日本庭園の見事さ、横山大観を始めとする美術品の多さはちょっと真似の出来ない美術館になっている。
お金持ちって良いな!