〇今朝は五時だった。ベッドから起き上がってブラインドを開けると、薄日の中に母の遺骨を安置したオーオカビルが目に入る。入院前は俺が寝起きしたり、来客したりするフロアとは別の階に遺骨があることは常に意識していても、エレベーターでわざわざ母に会いにいくのは、母の好きだった珈琲を取り替えに行く時だけだったが、ここからだと窓の外をみれば自然と母との会話になる。入院生活の文句ばかり言っているけど、この広尾病院でよかった。母が亡くなって十日後に緊急入院、一週間後には一時退院するものの、その二週間後には再入院。今日で四週間目に突入。昨日の医師団の診断では退院はまだまだ先になりそう。食欲はコンビニ食だけど旺盛、地下までも一人で歩いていけるほどに元気なのに、この狭い部屋(といっても個室だから治療費とは別に一万四千円が加算)で我慢できているのは、目の前に母の遺骨を安置した部屋が見えるからに違いない。
〇入院生活が長くなりそうだったので、Nに頼んで持ち込んで貰った一度はエンドマークをつけた筈の原稿用紙600枚強の小説をもう一度推敲する内に、やっぱりこんな小説は俺の死後残してはいけない気がしてきた。でも生きている内に廃棄処分にはしない。母のお棺の中は赤いバラで埋めつくされていたけど、俺のお棺の中はこの原稿用紙で埋めつくすのも一興か?
〇小説の推敲を諦めてから来年Nとやる予定になっている「白金五丁目の洗濯女」のことを考えている。何か思い付くと手帖にメモする。気付くと白金五丁目のコインランドリーで展開する筈の物語が「ポルトガルの洗濯女」になっている。「ポルトガルの洗濯女」はフランスのシャンソンだけど、事実ポルトガルには今でも共同洗い場があって主婦たちが集まって洗濯をしているのだ。ちょっと待て。だったら登場人物がいるぞ。いつの間にか時代はサラザール政権下のリスボン郊外に移り、病気になっていなかったら十月に再演していた筈の下山事件を扱った芝居にリンクできないか?Nさんファンだった母よ、どうだろ?このアイデア?Nさんの色気は倍加しないか?
〇アサリの味噌汁も飲みたいけど、とろろ昆布のお吸い物?も飲みたい。いやインスタントの松茸のお吸い物でもいい。とにかく温かい飲み物に飢えているのだよ。
〇同い年の脚本家兼映画監督のAから見まいのメール。彼も大病手術を繰り返しているのになかなかくたばらないどころか、70代になって監督した映画がベストワンになり、更に新作映画に取り組んでいまロケハン中とか。階段を昇り降りが辛いと言っているけど、あの病身の何処にあんなエネルギーが潜んでいるんだろ。頑張れ、A。広尾病院からエール!
〇オッチョコチョイの俺は中学時代にドストエフスキーの「罪と罰」をタイトルだけで推理小説と勘違いして読み始めたものの、すぐに犯人が分かってしまった上に高尚な哲学的問題の議論に途中で飽きてしまったけど何とか最後まで読み通すことが出来た。犯人が最初に分かっていてもサスペンスがなりたつのだと朧げながらに思った小説だ。「刑事コロンボ」の作家はきっと「罪と罰」を参考にしたに違いない。50歳で職業的脚本家をやめて飲食店を始めた時、それまで小説を読んだり映画を見たりするとすぐ仕事に結びつけてしまいがちだったので、しばらくは小説を読んだり映画を見るのはやめようとした。でも、ある時鎌倉に行く用事があって、途中週刊誌を読む位だったらエンタテイメントしようと六本木の本屋で買ったのがポール・オースターの「幽霊たち」という短篇小説。でも予想は外れ、この小説、全然幽霊もなにも出てこない。探偵が張り込みをしているだけの小説なのに柴田秀幸氏の翻訳で緊密に描かれたその世界は所謂エンタテイメントとはほど遠く、一気にこの作家のファンになってしまった。翌日お店に来た脚本家兼エッセイストのTにすごい作家をみつけたよと得意気に話したら、オースターとは婦人公論でこの間対談したばかりだとさりげなく言われ、大恥を書いた覚えがある。何年か小説や映画の世界から遠ざかっている間に俺は異邦人になっていた。この二つのエピソード、何処か似てると思っていたのだけど、こうして書いてみると何処が似ているのか分からない。
〇母屋?のビルで芝居の公演をする時なんかに、離れのこの病院が島部からの緊急搬送病院に指定されている為に、最初音もなくヘリコプターが近づき、やがて映画「地獄の黙示録」が如くワグナーの「ワレキューレ」と共に轟音が鳴り響き、ビル全体が揺れる錯覚に少なくとも週一で陥っていたけど、ここに入院して一か月、ワレキューレを聞いたことがない。そこで出勤してきた看護士のBさんに聞いてみると、週一か週二でヘリコプターによる緊急搬送はあったと云う。屋上で轟音を立てても病院内には聞こえない設計になっているとか。彼女も詳しく説明できなかったが、夜勤明けでうっすらと化粧を直したBさんの横顔に見とれていた俺は、「もっと勉強してきますね」と云うBさんに「うん」と答えるのが精一杯だった。
〇釈放の日はいつぞ?三人の刑務官がそれぞれ顔を出してはそれぞれ別の見通しを述べていく。いつの間にか俺はとんでもなく難しい病気になっているみたいだ。