禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「なぜ、脳は神を創ったのか?」 (苫米地英人)

2016-11-29 07:53:39 | 読書感想文

苫米地さんは脳機能学者であり、また、認知科学、分析哲学者を自称する方ですが、著書の多くはわりとくだけた説明をする、学者らしくない人です。たくさんの著書をものにして、セミナーを開いたりして結構影響力のある人らしいのですが、その主張の中に一部腑に落ちない点もあるので、このブログで取り上げることにしました。

彼は自分の主張の根拠として、物理学における不確定性原理と数学における不完全性定理を引き合いに出すことが多いのですが、その引用のされ方に相当な疑問が見受けられるので問題にしたいと思います。

不確定性原理とは「粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができない」という原理です。それは現在の科学力では正確に測れないということではなく、原理的に不可能であるということを意味します。そのことから苫米地氏は次のように言います。

≪ また、量子論は、宗教的な運命論を否定します。量子の状態はすべて確率であるという点で、確率100%の現象はない、ということになります。この世のすべての現象は、可能性の高いか低いかの違いはあるものの、すべて確率によって決まるということです。 ≫

「宗教的な運命論」というのは神がすべてを決定しているという考えのことでしょう。ここで苫米地氏は、不確定性理論により未来は決して決定していないということから、神がすべてを決定しているはずがないという結論を導き出しているのです。ここには明らかな論理の飛躍があります。

未来は確率的にしか決定していないことから、神が未来を決定する能力がないということを導き出しているわけです。しかし、私に言わせれば、未来が自然法則によって必然的に決定されているならば、それこそ神は世界の創生だけにかかわっているだけで、その後は神の存在感はまったくなくなってしまいます。
苫米地さんの言い分を認めるならば、未来は確率的にしか決定していないにもかかわらず、現実にはその確率の中の一過程を選び取っているわけで、それこそその決定には我々には不可知な力が働いていることになります。むしろそれこそが神の御業ともいい得るわけで、少なくとも神の不存在の理由にはならないと考えます。

次に、苫米地さんが神の不存在の根拠としている不完全性定理について説明したいと思います。不確定性原理と名前は似ていますが、こちらは数学の定理です。苫米地さんの考え方の筋道をかいつまんで言うと次のようになります。

苫米地さんは神の概念を万能であるとしていて、その「万能」の意味を「言葉で表現できることは何でもできる」と定義しているようです。つまり、「いかなる楯も突き破る鉾といかなる矛をも通さない盾を同時に造る」とか「『この紙に書かれていることは嘘です』と書かれた紙に書かれていることの真偽を知る」というような能力も「万能」の中に含まれていなくてはならないとしているのです。そして、神さえもこのようなパラドクスを解けるはずがないから、「神は万能でない」つまり、「万能の神は存在しない」、よって、「神は存在しない」という奇妙な論理を展開しているのです。

「『この紙に書かれていることは嘘です』と書かれた紙」に書かれたような文のことを「自己言及文」と言います。不完全性定理というのは自己言及パラドックスに関する定理なのです。「不完全性」という名前から、なんとなく「数学に何かの欠陥がある」というようなニュアンスに解釈されがちですが、そうではありません。無矛盾な数学の体系の中に「この命題は証明できない」という意味の命題が存在するということを証明したのが第一不完全性定理定理です。

「この命題は証明できない」という意味の命題がもし証明できたならば、その数学体系は矛盾しているということになります。もしこの命題が証明できないことが証明できたなら、この命題の意味からしてやはり「この命題は証明できない」という命題が証明されたこととなりやはり矛盾となります。つまり、数学体系が無矛盾であれば、この命題は証明も否定の証明もできないわけです。証明も否定の証明もできない命題が存在する、このことを指して数学体系が「不完全」であるといっているのです。ここでいう「不完全」の意味のニュアンスが理解していただけたでしょうか。

第一不完全性定理をさらに発展させて、「その系の中ではその系の無矛盾性を証明することが出来ない」という第二不完全性定理が導き出されます。そのことがさらに数学の「不完全性」というものを印象付けているのですが、よく考えてみればこれは当たり前のことであります。人間自身に例えれば、自分でで自分の論理を積み上げているかぎり、その理論の評価は自分ではできません。」 明らかな矛盾が露呈した場合、自分で矛盾を認識できるのは数学も人間も同じですが、矛盾が発見されなかったとしても、人間も数学も自分自身の無矛盾性を証明することはできないのです。

苫米地さんは、このことから「完全なシステムは存在しない」と言い、さらに「完全なシステム」であるはずの神も存在しないと主張するのです。それはあたかも、「神はどんな重いものでも持ち上げられるはずだが、神でも持ち上げられないほど重い岩を造れないのは神ではない。」と言っているように私には聞こえます。神は人知を超えた超越的存在とされているのですから、その存在も非存在も論理的には証明され得ないとするのが妥当であると思います。

最後にもう一点、先にあげた不確定性原理によって展開された量子論を、仏教にらおける「空」と関連付けていることに注文をつけたいと思います。「空」の概念は仏教においては根本的なものであり、科学上のいかなる発見があろうとなかろうと影響のあるものではないということを強調したいと思うのです。量子論がいかに「空」と合致しようと、それによって「空」の概念が補強されるということはありません。色即是空ですから、どのようなものも「空」に合致するのは当たり前なのです。

 

南足柄にて

 

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有限性の後で(カンタン・メイヤスー) (後編)

2016-04-27 12:48:37 | 読書感想文

 (中篇の続きです)

メイヤスーはカント以降の哲学者のほとんどが「相関主義者」であるという。彼は相関主義者を「我々は思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、どちらか一方のみへのアクセスはできないと考える人」と定義している。彼はこの相関主義を乗り越えるために、「祖先以前性」と言う概念を持ち出してきます。

人間と言う種の出現に先立つ ― また、知られうる限りの地球上のあらゆる生命の形に先立つ - あらゆる現実について、祖先以前的[ancestral]と呼ぶことにする。≫ (p.24)

人間の主観を中心とする相関主義と、祖先以前性を客観的な事実として受け止める科学は、両立しないとメイヤスーは言います。そして、相関主義者に対して次のように問いかけるのです。

「45億6千年前に何が起こったのか、地球の形成は起こったのか、イエスかノーか」

メイヤスーは相関主義者の答えを予想して、次のように述べます。

ある意味ではイエスだ、と相関主義者は答えるだろう。なぜなら、そうした出来事を指示する科学的言明は客観的なもの、つまり、間主観的な仕方で検証されるものだからである。けれども、ある意味においてノーだ、とそのものは付け加える。なぜなら、そうした言明の対象は、素朴に記述されたような仕方では存在し得なかった、つまり、意識に非-相関的には存在しえなかったからである。そうなると、私たちは次のように十分常軌を逸した言明にたどり着く。--祖先以前的言明は真である、客観的なものであるという意味において、しかしながら、その言明の支持対象が、その真理が記述するような仕方で実際に存在しえたということはあり得ない。それは、真なる言明なのだがしかし不可能な出来事を現実のものとして語っているのであり、思考可能な対象をもたない『客観的な=対象についての』言明なのである。≫

つまり、相関主義者の答えは無意味だと断定しています。そこで、相関主義と科学の客観性のギャップを解消するために、思弁的唯物論と言うものを提唱します。数学的に思考可能なものは絶対的に可能であるという立場、数学的に記述されたものは人間の存在に関わりなく「何か」として実在し得るという考え方であります。これは科学に対してそれなりの絶対性を与えたいということでしょう。

メイヤスーは、ガリレオが力学を発見して以来は「世界は余すところなく数学的に処理されることが可能になった。」と言います。また、祖先以前性についても、放射性元素の崩壊速度の測定や熱ルミネセンスの諸法則などにより、年代測定は絶対的なものになったと言います。そして、数学的言説によって打ち立てた祖先以前性のものについては、そういう測定技術なども含めたうえで実在論的な意味を持つと考えるべきであると主張します。それが究極の意味であり、それ以上の(相関主義者の主張する)意味を付加するのは無益であるということです。

メイヤスーは、現在の「私の」思考から抜けられない相関主義者は祖先以前性について思考することはできないというのですが、どうでしょうか。祖先以前の過去については、(メイヤスーが「原化石」と呼ぶところの)証跡をもとに現在からさかのぼって追及するしかないのです。その遡及は今行うのであって、その原化石と言うのも今あるものです。私たちが過去と呼んでいるものも私たちが今想起しているものであります。つまり、「過去」とは今私が思考の中に構成しているもの以外はどこにも存在しないわけです。当然、祖先以前のものも今構成されている過去の中に位置づけられるわけです。

それと、メイヤスーはしきりと「数学的」ということを口走るのですが、数学的言明は法則を通じてなされるのであります。しかし、その法則はすべて経験から帰納されたものであることを忘れるわけには行けません。ガリレオの運動に関する法則も、同位元素による年代測定法も、全て観測(経験)をもとに帰納したものであります。そもそもヒュームが提出した懐疑は「帰納法に論理的な根拠はない」ということでした。したがって問題は法則の安定性などというものにあるのではなく、法則そのものに理性的な根拠が見いだせないことにあったはずです。その法則をもとに記述した世界を「絶対」視するというならば但し書きがいろいろと必要になってくるような気がします。

現に、科学者に対して先ほどの質問「45億6千年前に何が起こったのか、地球の形成は起こったのか、イエスかノーか」を投げかけたらどのような答えが返ってくるでしょうか? おそらく単純に「イエス」と答える人はいないはず、たぶん次のように答えるはずです。

  「45億6千年前に地球の形成は起こったと推定される。」


アマチュアである私の反論などメイヤスーにとっては当然予想の範囲なのでしょうが、どう考えても私には相関主義は乗り越えられないような気がします。もしかしたらメイヤスーの主張する「絶対」について、私が彼の意図を正確には把握しきれていないのかもしれません。読者の方でお気づきの点があればご教示願いたいと思います。

 

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有限性の後で(カンタン・メイヤスー) (中編)

2016-04-25 10:23:18 | 読書感想文

(前篇の続きです)

一般的には論理の集積であると思われていた科学法則が論理的な根拠をもたないということを、ヒュームが明らかにしてしまった。ところが、論理を何よりも重視するはずの哲学者が、論理的根拠をもたない物理法則を信じている。いわば、宗教を信じるごとく科学を信じているわけです。

その状況についてメイヤスーは、「彼らは暗黙の裡に確率論を適用している。」と指摘します。

理性は私たちに、原因も理由もなくビリヤードのボールが台の上で千もの(あるいはそれ以上の)しかたで現実に動き回る可能性を与えてくれる。≫ にもかかわらず、熟達したハスラーは思い通りにボールを操ることができるという現実があります。つまり、ボールは幾千もの可能的な軌道の中から物理法則にかなった唯一の軌道を常にたどっていると考えられます。それはあたかも、サイコロを千回ふって千回とも同じ目が出るようなものです。同じ目が千回続けて出たら、普通はサイコロに細工がしてあると考えるでしょう。同様に幾千もの可能的な軌道の内、ハスラーの思い通りにボールが動くのは確率的にはほぼありえないこと、つまり自然にはそうなるべき仕掛け(=物理法則)が存在する。カントもヒュームもそのように考えているとメイヤスーは言うのです。

ここでメイヤスーはこの場合の確率論的推論の無効を訴えます。確率論を適用するには可能な事象の全体化が必要なはずなのに、集合論の標準的な公理系においては可能的なものは全体化不可能である、と言うのです。確かにビリヤードの台のどの小さな部分をとっても無限個の点があり、その上をボールがランダムに動き回るとしたら、その可能性の数は非加算個の点の中から非加算個の点を選び出し、その選び出した点を任意の順に並べる場合の数の分だけあるということになり、それらのケースを枚挙することは到底不可能です。

このことが直ちに確率論的推論の無効につながるのかどうか私には判然としません。素人目には、ボールが唯一法則通りの軌道しか通らないことと、他の可能性の存在が確実でありさえすれば、確率論的推論は依然として有効であると素朴に言えるような気がします。本当に確率論的推論が不能だというためには、全体不可能ということではなく、他の可能性が実は見せかけの可能性に過ぎないことを証明する必要性があるはずです。しかし、メイヤスーは、「いずれにせよ、私たちは可能的なものが全体不可能であると考える手段をひとつ所有している。」ことで、神秘的な仕方で導き出した自然法則の必然性への信頼性を失効させることができると主張するのです。

可能的なものを非全体化する者は、法則の安定性を考えることはできるが、それを謎めいた物理的必然性によって二重化することはない。したがって、オッカムの剃刀が、現実的な必然性に対し適用されるのである。現実的な必然性は、世界を説明するに無益な「存在」となるのだから、それなしで済むし、これには神秘を廃止する以外の損害はないのだ≫ (P.180)

「現実的な必然性」をオッカムの剃刀でそぎ落とせば、起こった事実をただ事実としてだけ受け止めるということになる。ならば「法則の安定性」を考えることができるというのは矛盾しているように感じます。「現実的な必然性」がなくなるのは現実以外の可能的なものが存在しない場合のみであり、その場合には「法則」そのものもなくなると考えられます。

メイヤースはカントやヒュームを「確率論者」であると一方的に決めつけておいて、可能性の全体化を否定する立場からカントやヒュームを弾劾しているような気がします。可能性の全体化を否定した後でもメイヤースに法則の安定性を考えることができるのなら、カントやヒュームにも依然として「我々の認識の背後にある、宇宙を統べる『神秘的』な支配力」を措定する権利があるように考えられます。

 しかしここはメイヤースの言い分を認めるとして、可能性の全体化を否定した場合、メイヤースにはどのような見通しが残されているのでしょうか。彼は果たして哲学に新しい地平を切り開くことができたのかどうか、正直に言うと私にはまったく理解できなかったというしかありません。184頁から3頁にわたって数学的言説の絶対性ということについて言及しているのですが、何度読み返しても老化の始まった私の頭で理解することはかないませんでした。

≪すなわち、思考の存在から独立であると想定される実在について、もはや論理的にだけでなく。数学的に復元することの絶対論敵射程を正当化できるようにならねばならない。カオス--それが、唯一の即自的なものである--が実際に生み出しうる可能的なものは、有限であれ無限であれいかなる数によっても計測されることはないということ、そして、このカオスの潜在性の超-莫大性が、眼に見える世界の完璧な安定性を可能にしているのだということを明らかにせねばならないだろう。≫ (P.185)

私には、カオスの潜在性の超-莫大性と眼に見える世界の完璧な安定性がどのように関係しているのかが全く分からない。なによりも、数学的手法でヒュームの問題を解決しようとしていること、そのこと自体が「理由」を模索していることにはならないだろうかと思ってしまうのです。次回(後編)は「祖先以前性」と言う概念について述べてみたいと考えています。

(後編に続く)

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有限性の後で(カンタン・メイヤスー) (前篇)

2016-04-23 06:40:18 | 読書感想文

1月末に書いた「なぜ、『なぜ』と問う?」という記事に関連してある方からこのメイヤスーの著書をご紹介していただいた。この論文についてインターネットで検索してみると、哲学史上のエポックメイキングであるかのような刺激的な書評がいくつか目についたので読んでみようと思い立ちました。

著者名はカンタンですが、そこは哲学書ですのであまり簡単なはずもありません。問題の背景を説明するために少し長めの前置きを述べたいと思います。

「ものごとにはすべて、そうである理由がある」というふうに、通常我々は考えます。このことを原理であるとして充足理由律と名付けたのが、18世紀の科学者であり哲学者でもあるライプニッツです。充足理由律にしたがって世の中におこる現象を見るとき、世界は因果律に支配されていることになります。あらゆる現象が原因と結果という因果関係にあるからです。物理現象における因果関係を説明するのが物理法則ということになります。

ところが同じ18世紀の哲学者ヒュームが、「因果律は理性によって根拠づけることができない。」と言い出したのです。原因と結果の間に必然的な結合と言えるような結びつきはない、我々が「必然」と考えているのは繰り返しの習慣から生まれる主観的な蓋然性にすぎないというのです。早い話が物理法則も「気のせい」であると言ったのです。

ヒュームの提言は哲学者に大きな衝撃を与えました。一見非常識ですが、哲学者の論理からすると当然のことであったからです。このことを最も深刻に受け止めたのがカントで、彼はヒュームの懐疑を克服するために、超越論的観念論を打ち立てました。この世界は我々の主観が因果律に沿うよう「構成」したものであると云うのです。であるから、彼はこの構成された世界の中では因果律はア・プリオリであると言います。

ちなみに、仏教では充足理由律は限定的にしか受け入れていません。因果律は一応認めているのですが、充足理由律を厳格に採用するとどうしても「一番最初の理由」としての創造神を認めなくてはなりません。諸行無常を説く仏教に充足理由律はなじまないのです。仏教はこの世界がこのようであるのはまったくの偶然であり、我々はそのことを無条件に受け入れなくてはならないと説きます。もしすべてが必然であるならば、恵まれた人間とそうでない人間の間には生まれながらに、人間としての根源的かつ「正当」な差別があることになってしまいます。仏教は人を差別しないし、そもそも人と人を比較することもしません。各個人がさらされた境遇というものも比較しなければ遇不遇ということもなく、執着も生まれない。とにかく身に降りかかった運命は事実として受け止めるしかない。それが無常の世界に対する仏教的諦観であります。「執着を持たない」それが釈尊の根本の教えであります。

少し横道にそれましたが、ヒュームの「因果関係に理性的根拠を見出すことはできない」ということは現代の哲学では当然のこととみなされています。それにもかかわらず物理法則は安定している、つまりこの世界は斉一な秩序によって支配されている。そう信じなければ私たちは生きていくことができません。結局、カントはもちろんヒュームでさえも物理法則を信じているのです。現在までこのギャップを正面から乗り越えた哲学者は誰もいないと言われています。メイヤスーは充足理由律を徹底的に排除してこのギャップをなくしてしまおうと言うのです。

うぅっ、前置きが長くなりました。本論はこの次にします。

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ウィトゲンシュタインと禅 ( 黒崎宏 著 )

2015-08-16 08:16:08 | 読書感想文

論理哲学論考を初めて読んだとき、確かに禅に似ているという印象を抱いた。しかし、彼が禅の修行を積んだ形跡もなく、思考に明け暮れる彼の生活は禅者とは程遠いもののようにも思える。かけ離れた二者が同様の主旨のことを述べているとしたら、それは普遍に向かう収斂ではないだろうか?

本の帯には「考えるな見よ!」となっている。
ウィトゲンシュタインは我々の言語(概念)による世界構成に問題があると言う。不立文字という視点に立つ禅とは同じ視点に立っているわけである。世界の実像を知るにはまず素朴に見つめることが大事なのだと思う。

  5.63  私は私の世界である。(ミクロコスモス)

  5.631 思考し表象する主体は存在しない。

坐禅をしていると、私と世界の境界がなくなっていく、独座大雄峰の境地から心身脱落し無我を表現しているように読み取れる。

  5.64  ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致
        することが見てとれる。独我論の自我は広がりを欠いた
        点に収縮し、自我に対応する実在だけが残される。

独我論は極端に主観的な観念論と言っていいだろうか、それをさらに徹底すると「純粋な実在論」になると言っている。「私が私の世界」となったら、むしろ「私」は剥落してしまうのである。そこに残るのは既に主客を超越した素朴な世界がある、その素朴さが「あるがまま」受け入れるということである。後半の「自我に対応する実在」とは臨済のいう「一無位の真人」を連想させる。

ここで着目したいのは「独我論」と言う言葉である。ウィトゲンシュタインと禅に共通しているのは独我論的視点であることは間違いないことだと思う。

私たちは物事を見究めるには客観的であらねばならないと考えている。それ故学問は客観を旨としているのである。客観とは自分の外側に視点を持つということである。科学は自分も含めたこの世界を俯瞰しなければならないからである。

「世界は自分の外側に広がっており、私はその世界の中の一点景である」という視野をもつこと、それに「自然的態度」と名付けたのはフッサールである。フッサールはその「自然的態度」の中にすでに推論による構成が入り込んでいることを見抜き、その推論をドクサ(憶見)と呼んだ。

私たちは八百屋の店先で赤いリンゴを見たとき、「そこにリンゴがあるから、私の目に赤くまるいものが見えている。」と感じる。しかし、フッサールは逆に「赤くまるいものが見えているので、私はそこにリンゴがあると感じている。」と考えるのである。『見えている』のは事実であるが、『実在している』というのは推論である。自然的態度では、『見えている』ことと『実在している』ことの順序が逆転しているのである。

超越を排除するには独我論的視点から出発するしかない。フッサール以降の西洋哲学者は独我論的視点を意識しないわけにはいかない。そういう意味で西洋哲学は東洋哲学に近づいている。

ウィトゲンシュタインと禅が近い、という全く同じ意味でフッサールの現象学もまた禅に近いということが言えると思う。哲学であろうと禅であろうとそれが普遍を目指している限り、いずれ収斂してくる部分があるのは必然のことであろうと思う。

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