クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

ハイランド赤富士再訪(改) R- 1- 5- 7

2019-05-07 19:56:38 | 安中・松井田
五日前に引き続いて再び安中のフラワーハイランド訪問。
狙いは開花の進んだはずの赤富士と多分始まっていると
思われる中咲のシャクナゲ。

拙宅からは現地まで約20km程度だが、安中・城下から県道に
入ると車両の行き来も少なく新幹線安中駅南の広田から
先は殆ど一人旅なので気楽な走行。

時間も早いので駐車場には先客一台のみ、前日の雨に濡れた
遊歩道を歩きだすと周りのツツジ群も華やかな姿を見せる。



今まであまり目立たなかった白い躑躅も盛上がり始めている。



黄色の黄梅のような花とツツジのコントラストも爽やかだ。
これが黄梅なら中国の北部・中部が原産地で江戸時代・元禄年間・
1695年の『花壇地錦抄』に、「黄梅、花形梅花のごとく黄色なり」
とあるとされると聞くので、その少し前の寛永年間(1624-1644)
から元禄時代初期に日本へ渡って来たらしい。
但し中国名が「迎春花」、日本では立春から啓蟄の前までの季語
と聞くと違う花かな?



時計回りで山頂へ向かってハイキング、「浅間山」看板の前の
ツツジはまだまだ満開にはほど遠い。



稲荷神社上の「妙義山」はやや形が出来てきたがあと一週間以上
待たないと鑑賞には値しない程度。



山頂からぐるっと東に降りて「赤富士」。満開ではないが
程々の見栄え。
(途中で止めるには画面左下の縦二本棒を
クリック、再開するには止めているときに左下に現れる右向き矢印を
クリック。一旦終わってから再度見るには左下の戻りマーク)

ハイランド赤富士


時間もあるので縦横に開設されている遊歩道を巡って中咲の
シャクナゲを鑑賞。大きな花に見合うように蕾自体が豪華なので
未だ咲き始めとはいえ十分に楽しめた。
(途中で止めるには画面左下の縦二本棒を
クリック、再開するには止めているときに左下に現れる右向き矢印を
クリック。一旦終わってから再度見るには左下の戻りマーク)

ハイランドシャクナゲ中咲


万歩計が6500歩位を指したところで打ち止めにして帰路の途中に
ある「秋間梅林頂上コース」を通って「観梅公園」へ移動。
車道から下の公園を眺めると一面の緑の平地が広がっているが
目指すポピーの花は見えない。
駐車場脇の路傍にはちゃんと一人前のポピーが咲いているのに



肝心の畑の方はこんな様子で咲き誇るのは五月末近くになる感じ。



脇にこんな表示板、ここは二種類が半々に咲くらしい。
これを見て今までの爺イの知識不足を痛感。



気楽にポピー畑などと言っていたが、正確にはポピーとは広く
ケシ類全体を意味していてヒナゲシもハナビシソウもその中の
一種類に過ぎないのだから麻薬のケシではない一般の畑のものは
この看板の様にヒナゲシとか花菱草と云うべきだった。
別名は虞美人草。

蛇足
ヒナゲシの別名が虞美人草と云う事でこの言葉の原点を
爺イの好きな司馬遼太郎がその著・項羽と劉邦の中で
熱の籠もった語り口で項羽とその愛人・虞姫の最後の場面を
仔細に再現していたのを思い出した。
これは紀元前91年頃に成立した司馬遷の「史記」の一部分を
独自の目線で掘り下げて小説に再構築したもの。『

不思議なことに項羽には虞と言う愛人がいたとは云うものの
両者の馴れ初めに関しては『史記』にも『漢書』にも
一切記載されておらず、両者が決別する垓下の戦いで初めて
(劉邦率いる漢軍に敗れた傷心の項羽の傍にはいつも虞美人
がおり、項羽は片時も彼女を放すことがなかった)と紹介され
ているだけだそうだ。

至極大雑把な場面は
「項羽には虞と言う愛人がいたが紀元前202年、項羽が劉邦に
敗れて垓下に追い詰められた時に、死を覚悟した項羽が詠った
「垓下の歌」に合わせて舞った。
この舞の後に項羽は一刀の元に彼女の命を絶った。後日
彼女を葬った墓に翌年の夏、赤いこの花が咲いたという伝説から
ひなげしを虞美人草というーーーーというもの。
「美人」は後宮での階級名で正夫人の次に位する。若くして
戦乱に明け暮れた項羽は妻帯の暇はなく正夫人は居なかったから
虞姫は実質的な正夫人だったと云える。
おゃ! この話の展開は平の将門と愛人・桔梗の伝説とそっくりだな。
まさか将門記が史記からパクったなんてこと無いだろうね。

約5年続いた楚漢戦争が終結に向かっている時期、項羽は垓下に
追い詰められ絶体絶命の状況。かつて項羽の軍に居た楚軍兵士が
多く劉邦の漢軍に寝返り垓下を包囲する劉邦・韓信軍は30万人。
ある夜、項羽は不思議な騒めきで目を覚ました。それは懐かしい
項羽の故郷・楚の歌であったが、何と歌っていたのは漢軍の
筈の包囲軍。敵軍に同胞が多いと判り楚の大王たる項羽は
この「四面楚歌」で己の命運が尽きたことを悟ったが、同時に
脱出して再起を図る覚悟を決める。しかし、脱出行には虞姫は
帯同出来ないことも双方が理解した。
そこで最後の酒宴を催し「垓下の歌」を詠じ虞姫も踊った。

力拔山兮氣蓋世 (力は山を抜き、気は世を覆う)
時不利兮騅不逝 (時利あらずして 騅逝かず)
騅不逝兮可奈何 (騅の逝かざる 如何すべき)
虞兮虞兮奈若何 (虞や虞や 汝を如何せん)

虞姫の返し歌

漢兵已略地, (漢兵、已に地を略し、)
四方楚歌聲。 (四方は楚の歌聲。)
大王意氣盡, (大王の意気は盡き、)
賤妾何聊生。 (賤妾、いずくんぞ生を聊んぜん。)

そして項羽は自らの太刀で虞姫の命を絶ち、猛然と愛馬・推を
駆って漢軍の陣を突き抜ける。
然し戦死・落伍・逃亡などで従うものが28騎、ついに現在の
安徽省定遠の辺で泥濘に嵌り追軍と激戦の後に落命する。

項羽の死によって約5年続いた主導権争いは終結し、
劉邦は天下を統一して前後約400年続く漢王朝の基を
開くのである。

それから70年の後、20歳の司馬遷が史家としての生涯の基礎
となる大旅行の終盤にこの地を訪れ里の長老たちに当時の
事を克明に聞き取り大作・史記に「第7 項羽本紀」として
纏めた。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されて
いる が現代の日本人が何気なく使っている言葉にも史記から
発しているものが多い。
幾つかの例は

「先んずれば人を制す」 「断じて行えば鬼神もこれを避く」 
「良薬口に苦し」 
「鶏口となるとも牛後となるなかれ」 「臥薪嘗胆」 
「完璧」 「国士無双」 「屍を鞭打つ」 「四面楚歌」
「酒池肉林」 「背水の陣」 「刎頸の交わり」 
「右に出ずる者なし」 「流言蜚語」 「怨み骨髄に入る」
「曲学阿世」「士は己を知る者のために死す」 
「雌雄を決す」 「傍若無人」 「満を持す」 「立錐の地なし」 
「百発百中」 「鳴かず飛ばず」ーーなどなど。

この舞台は紀元前202年頃だから日本では未だ弥生時代で農耕と
金属器の伝来した時。卑弥呼の記録でさえ紀元188年だし
確実に実在した天皇を第十五代応神天皇とすれば
紀元400年の話だ。
勿論、1940年の昭和15年に皇紀2600年のお祝いをした
小学一年生の成れの果ての爺イとすれば今の建国の日の
元になった神武天皇の即位は紀元前660年だから日本の成立は
この戦いの460年前の事だな。

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