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文章と文節

2017-06-27 | 文法文章論
文章の単位を設定して、文の上位単位であるとする。文をとらえ、その文が複数で構成するものとしての文章である。文を単位とするのは、主語述語の文を基本にしている。ところが、文章には、述語だけで成立する文にあたるもの、述語部分が名詞による体言止めであったり、また述語に感嘆感動により表そうとするなど、いわゆる言い切りをみることで、文とその下位単位である句が、文相当になって文章に含まれるとすると、文章には、文になる要素成分があることになる。さらに、日本語の接辞による語相当の文節にも、その接辞の働きによって文意相当するものが、文章を単位とした中で、表現内容をもったものとして、ことばとしている場合がある。すると、文章単位における文節が文の単位として機能すると同時に、一方で、文章の単位ともなりうる。


2016-06-27 06:40:51 | 日本語文章
日本語は文法論を唱えるよりも文章論をとらえるべきである。国語が文法を明らかにしてきた、いや、文法は国語を説明した。明治開化期のこと、その時代に国語と外国語とを対照して、国語にあった句法というべきものを、外国語にある文法というもので、国語を見ようとした。国語における議論は文法をもって文単位を解明しようとした。その国語を100年以上にわたって、その議論を保持してきた。学校教育の国語文法がそれを行ってきたから、長く続いた。いま国語を日本語として議論することが行われている。現代日本語というが、現代国語とは言えない。科目名に長く現代国語があった。昭和53年、1978年告示、昭和57年、1982年施行の学習指導要領から、科目はなくなり、現代文とかわったのであり、ちょうどそのころに、日本語学が研究分野として言われた。国語教育は、一方で、日本語教育と区別されて、日本語教育の需要とともに、言語学習としての日本語教育が浮き彫りにされるようになった。

以上は、次のリマインダーにある。

国語文法論、日本語文章論
日本語は文法論を唱えるよりも文章論をとらえるべきである。国語が文法を明らかにしてきた、いや、文法は国語を説明した。明治開化期のこと、その時代に国語と外国語とを対照して、国語にあった......



次は文節についての過去記事である。
いま、ここに採録して、実感することがある。
国文法の文節の概念が通用しなくなってきて、国語教育の影響が根本から揺らいでいる、と言うことである。


2015-10-03 17:35:36 | 日本語文章
文節は日本語の自立語付属語という語をよくとらえた分析である。その分析による応用は言語の機械処理に応じている。文節により得られる文の構成は、文節を単位に短くも長くもその単位にして、その語を決定することが可能である。


2015-10-01
16:48:25
文の構成要素に文節を析出する。
日本語を読み上げて、あるいは、声に出して言うときに、自然に区切れるところとは、ほぼ同じである。

文節であっても違いを見せるのは、際立つのは、補助動詞である形式用言が、接続助詞 て を介して語相当を構成するときである。
また連体助詞 の が付いて名詞を結びつける語相当を構成するときである。
文節を文の直接要素として意識する場合に、このような語相当には、連続した読み上げになるか、発音でひとまとまりになる。


2015-09-30
18:22:23
自立語に語がつながった発音上の単位、と定義する解説がある。
また、翻訳語で見ると、文法用語 a clause 、a phrase 《in a Japanese sentence》.と見える。

それをさらに、英語における文節用法とすると、日本語の発想を捨てることとあって、その違いを強調する。
文節の単位は国語教育で日本語の分析に広く通用した。

国語辞書などに、文の構成要素で、文を実際の言葉として不自然にならない程度に区切ったとき得られる最小のひとまとまりのもの、と説明がある。きわめて有効、有用、効率的な日本語のとらえ方であるが、それを節という用語の解釈から、また、日本語の係り受けの文構造から、英語研究者、日本語研究者から批判されている。

文節は連文節となって、その文節相互を単位とすると、文節のかかり方が、次の文節にある、そのなかの語と関係するとする説明である。
合理的な批判のようにも見えるが、音声による区切りを重視している橋本学説の分節を理解しないしようとしない批判であろう。



ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
文節
ぶんせつ

日本語の文を自然な発音によって区切った際の最小の言語単位。橋本進吉の命名によるもので,「文を実際の言語として,できるだけ多く句切った最も短い一句切」「内容を伴ったものとして,外形からみた文の直接の構成要素として独立しうべき最小の単位」と定義


世界大百科事典 第2版の解説
ぶんせつ【文節】

日本語文法の用語。〈文を,言語として不自然にならない限りで,最も細かく区切った場合の各部分〉などと定義される。たとえば〈太郎は/荷物を/しっかり/抱えた〉という文の,/で区切られた各部分をいう。この文を四つに区切れと言われれば,まず誰でも上のように区切るに相違なく,直観的にもごく自然な言語単位である。文節の切れめには音の休止を置きうるが,一般に,文節内部には音の休止を置くことなく,一つの文節はひと続きに,一定のアクセントをもって発音される。


デジタル大辞泉の解説
ぶん‐せつ【文節】
日本語の言語単位の一。文の構成要素で、文を実際の言葉として不自然にならない程度に区切ったとき得られる最小のひとまとまりのもの。文節は、音声上の単位としても特徴をもち、一つの自立語またはそれに付属語が一つないし二つ以上ついたものからなる。橋本進吉の用語から。


大辞林 第三版の解説
ぶんせつ【文節】

日本語の言語単位の一。文を,実際の言語として不自然でない程度に区切ったときに得られる最小の単位。たとえば,「赤い花が咲いた」という文は,「赤い」「花が」「咲いた」の三つの文節から成る。文節は,一つの自立語,またはそれに付属語の付いたものから成り,それ自身一まとまりの音声上の特徴をもつ。 〔橋本進吉の用語に始まる〕


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
文節
ぶんせつ
>-前略ー「文節」は一つまたは二つ以上の単語からなるが、文を直接に構成する成分は単語でなく、この「文節」であり、単語が文節を構成し、文節が文を構成するという関係になる。したがって、文の構成は、文節相互の関係として説明され、すべて二つの文節の結合関係に還元されると考えられるが、意味の側からみると、文節の結合したものを一つのものとみて、それが他と結合するとみるべき場合がある。たとえば、「この兄と弟は」は、「兄と」と「弟は」の二文節がまず結合し、これと「この」という文節が結合するとみられる。このように、二つ以上の文節が結合して意味的なまとまりを有するものを、橋本は「連文節」とよび、この「連文節」の概念で文の構造を説明しようとした。
 なお、「赤い花が咲く」において、「文節」の考え方では、「赤い」が「花が」を修飾すると説明されるが、「赤い」は「花」だけを修飾しているとみられることなどから、「文節」を構文論の基礎に置くことを疑問視する見方もある。[山口佳紀]



ウイキペディアの項目より。
>文節(ぶんせつ)とは、日本語において、自立語(名詞、動詞など)に接語がつながった発音上の単位である。
>文節は橋本進吉による橋本文法で重視され、国語教育にも学校文法の中で大きく取り入れられた。
情報処理技術と文節
日本語の自然言語処理では、多くの場合、形態素解析に続くチャンキングが文節の解析である。
かな漢字変換における文節は、学校文法における文節の概念とは異なり、「自立語とそれに後続する0個以上の付属語」を文節とするのが一般的である。この場合、特に「IME 文節」と呼んで区別することもある。

http://english-only.club/speaking/phrase/
英語を話す時の「文節」とは? 文節の 区切り方を解説
>英語における「文節」を区切る3つのポイントとは?
1つの文節はそれぞれ、1つの情報を表現している。
(つまり、文節は英語の思考における最小単位である)
文節は、すべての文に必ず1つ以上含まれ、文法構造上において
まとまった単語のグループである。
日本語の文節とは異なるため、日本語の発想は捨てること。
(日本語訳をした英語では、正しい文節を理解できない)



次はリマインダー、2013-05-01、文節についての記事である。

品詞、文節、形態  日本語の文法について  その14
2013-05-01 06:41:43 | 日本語文法
>  

文法は言語現象を切り取る。そこに法則を見出す。分析と総合のあいだをいわばいきつもどりつして観察が行われる。文法単位体は文法分析に視点を与える。文法論はそのスタートにどの単位体を視点にするかでその分析の立場が決まってくる。日本語は文法のいくつかを文法論として作り上げてきた。古典語で古漢語、現代語で近英語を学んできた。

橋本進吉学説は音声を観察し、国語音韻による文法論を視点に詞辞の大別を立場に作り上げた。学校文法の品詞は橋本文法論の考え方を多く取り入れ文節を国語の単位に与えた。その品詞は一方で話部であったのだが、それを分節としてみたときに、文節の単位で見て取れる国語に適した分析であった。品詞は文節相当に捉えるとよいとしたのである。

いま品詞は自立語と付属語に同じ詞の名称を持つ。国語の助詞、助動詞という名前が学校教育で普及している。自立語の名詞と付属語の助詞を同じ品詞レベルでとらえるのは考え方の基本を取り違えると、が、を、に といった文法的に機能する付属語を単語として扱って、自立語と付属語の語としての混同が起こって考え方の説明ができなくなる。

自立語と言い、付属語と言う、わかりやすい分類はそれはそれで新たに説明のための言葉であったのであるが、詞と辞としての分類をほどこすところを考え方から変えてしまうのである。自立詞とか、付属辞とか名前を付けていれば詞辞の2大別を学んできた伝統を継承したであろう。品詞分類における考え方を名称によってしわけるのがよい。

品詞は話を音声でとらえて息継ぎ、休止、強弱などで切ったときの話の部分である。つまり日本語でいえば、自立詞と付属辞が分析されてそれを品詞にするかどうかはそれぞれの意味情報や文法機能によって厳密を期せばその文また文章における構成要素としては同一視すべきではなかったのである。テニヲハとした分類はそれなりに継承すべきであった。

それを文節として文を構成する最小単位としたのは炯眼である。つまり品詞と言うのは文節である。なかなか分かりにくいが、わたしが わたしに わたしの と言うのは、わたし と言う名詞であると抽象しているのであるから、この文節の単位のままに、わたしガ わたしニ わたしヲ と名詞 わたし における変容を見るとわかりよかったのである。

このとらえ方は文法を形態論の視点で進めると、自立形式と付属形式の結合態による形態の分析で説明できることになる。国語文法の文節が言語研究の品詞で日本語教育用の文法で形態の分析となる。それぞれの立場を混同してはならないが、漢語文法を取り入れ漢文訓読として日本語をとらえてきたその背景には脈々と詞と辞としての見方がある。

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