2012年3月18日、読了。
朝貢と冊封
次はフリー百科事典参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、
『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、
「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。
第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。
貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)
奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。
遣唐使一行(『延喜式』大蔵省式による)
大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語生・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長 新羅、奄美訳語生・卜部・留学生・学問僧・従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・柂師・人 挟杪・水手長・水手など
回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
12回説:藤家禮之助
20回説:東野治之、王勇
1回 舒明2年(630年)舒明4年(632年)
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日
唐使高表仁来日、僧旻帰国
↓
12回 天平勝宝4年(752年)天平勝宝6年 (754年)
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使)
鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず
↓
19回 承和5年838年)承和6年(839年)
承和3年・承和4年とも渡航失敗。
その後小野篁、病と称し行かず流罪。
帰途、新羅船9隻を雇い帰る。
第2船、南海の地に漂着。
知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
(20) 寛平6年(894年)
菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使)
停止。
天平時代、日本の外交史をまとめてみると、次のサイトに。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gaikou.html
天平外交史年表 724(神亀1)~764(天平宝字8)
朝貢と冊封
次はフリー百科事典参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、
『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、
「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。
第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。
貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)
奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。
遣唐使一行(『延喜式』大蔵省式による)
大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語生・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長 新羅、奄美訳語生・卜部・留学生・学問僧・従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・柂師・人 挟杪・水手長・水手など
回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
12回説:藤家禮之助
20回説:東野治之、王勇
1回 舒明2年(630年)舒明4年(632年)
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日
唐使高表仁来日、僧旻帰国
↓
12回 天平勝宝4年(752年)天平勝宝6年 (754年)
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使)
鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず
↓
19回 承和5年838年)承和6年(839年)
承和3年・承和4年とも渡航失敗。
その後小野篁、病と称し行かず流罪。
帰途、新羅船9隻を雇い帰る。
第2船、南海の地に漂着。
知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
(20) 寛平6年(894年)
菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使)
停止。
天平時代、日本の外交史をまとめてみると、次のサイトに。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gaikou.html
天平外交史年表 724(神亀1)~764(天平宝字8)