日本の南洋統治
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4-1 日本の南洋統治 坂井順行氏による。
見出しは、記事により、記述を引用している。
年表として構成した。
1 太平洋の島々に<黒船>の来襲!
16世紀の半ば カロリン諸島 Caroline、当時のスペインの王名、スペイン・ポルトガルが、船団を組み太平洋を訪れ、布教活動を展開
オランダ、フランスが台頭、太平洋の利権は、それらの国々に移転
19世紀になり、ドイツが進出 ドイツはスペインへ2500万ペセタ(1675万マルク)を支払い、権益を買い取る
1898年に、米西戦争が起こり、敗北したスペインは、太平洋から撤退
サモア諸島
18世紀初頭、オランダの航海者がサモア諸島を発見
フランスの探検家がサモア諸島を訪れて、イール・デ・ナビガトゥール 船乗りの島々 と名付ける
19世紀半ば、ハンブルクのゴーデフフロイ商会が南洋事業の拠点をサモアに設置
イギリス、アメリカ、このサモアに通商の拠点を置く
1878年 アメリカが海軍の石炭供給所確保のため、東サモアのパゴパゴを併合
1880年 ビスマルクは、サモアをドイツの保護領にする案を議会に提出したが、議会はこれを否決
1899年 サモアで内乱が発生、米英は結託して、ドイツが本拠地としていたウポル島のアピア(Apia)を攻撃
ドイツは西経171度以西の島を、アメリカは子午線より東の島を、イギリスはサモア諸島から退く
イギリスはトンガ諸島とソロモン諸島領有
1900年3月朔日 ドイツの本格的な南洋経営が始まる
マーシャル諸島 Marshall Islands は、スペイン人によって発見されたが、ドイツの地道な活動は
1878年 ヤルートの部族と契約を結ぶまでになり、この地域と密接につながり、
1885年10月15日 この地をドイツ保護領として宣言
マーシャルは環礁の島
1521年 マゼランがグアムを発見、島々の存在が知られる
1565年 マリアナ諸島Mariana Islands、スペインが領有を宣言
スペインイエズス会が強圧的な布教、グアムの部族との間で紛争、弾圧でグアムの人口は大激減
1898年 スペインがアメリカとの戦争に敗北すると、最大の島であるグアムはアメリカに、他はドイツに売却される
1899年11月17日、ドイツはサイパンをも支配下に
ここにドイツによるマリアナ諸島の統治が始まる
日本はその時、英国との間に、、日英同盟
日露協約、日仏協約も締結
政治的には日本は、連合国に関与
日本は、8月15日に、青島のドイツ軍に武装解除を要求する最後通諜を送りつけ、8月23日、ドイツに宣戦布告
1914年大正3年8月23日、日本はドイツに宣戦布告
日本の南洋統治の始まり
1914(大正3)年9月2日 海軍陸戦隊が山東半島の龍口に上陸、5日には、2機の海軍航空機が青島を空襲
28日には、加藤定吉中将率いる第二艦隊主力が、英艦隊と連携して、膠州湾への艦砲攻撃を展開した
日本海軍は、1914年9月には、山東半島の攻撃に飛行機が用いられ、9月5日には、和田秀穂大尉指揮のファルマン2機が母艦「若宮」から発進して、チンタオを爆撃。 10月に入ると、山屋他人中将麾下の第一艦隊が、赤道以北のドイツ領のマーシャル、マリアナ、カロリンの各諸島を占領した。
日本海軍は、第一、第二特務艦隊をそれぞれ編成、第一特務艦隊をケープタウンへ、第二特務艦隊を地中海に派遣した。
1917年3月17日 ロシアで、ロマノフ王朝が打倒され、ロシア革命が始まる
10月、社会主義国家ソビエトが成立
同年9月、中国で、孫文が広東政府を樹立
日本国内では富山米騒動が発生。この動きは全国的に広がり、3ヶ月間の間に70万人が暴動に関与する、米騒動。
そうした世情の不安のさなか、日本はシベリア出兵問題で米国と対立していく。
1918年1月18日、ベルサイユで講和会議が開かれた。
日本全権は西園寺公望。この会議で、日本は赤道以北の太平洋諸島の委任統治をまかされたのである。
海軍はこれら占領地を「南洋群島」と呼称し、その名称は、1945年の敗戦時まで継承された。
第一次世界大戦後は、国際連盟から「南洋群島」の統治を委任されたが、一般的な「南洋」という言葉と区別するため、
日本が統治する南洋群島を「内南洋」、
「外南洋」を、フィリピン、ボルネオ、ジャワ、シンガポール、ニューギニア、ソロモン
1922年 大正11年 委任統治施政官庁として、南洋庁、開設
行政区域としてパラオ・ヤップ・サイパン・トラック・ポナペ・ヤルートの6地区
支庁が置かれ、テニアンとロタには支庁出張所
1935年 昭和10年 日本は国際連盟を脱退
南洋群島は日本の構成部分であるとして、敗戦まで引き続き統治
南洋群島の人口は昭和15年で日本人が約8万と島民約5万で、昭和19年には約60社の日本企業が本社を設置
上記に続き、日本語教委育についての言及を、次に引用する。
>
日本海軍は、ドイツが領有していた南洋諸島を占領し、軍政をひいた。日本は、第一大戦終了後の領有を前提として、この南洋群島に軍政をひいて、東南アジアへの経済進出と軍事上の拠点作りに邁進したのである。
南洋諸島とは、赤道以北にある、マリアナ・カロリン・マーシャルの三群島を指す。そこには、二千を超える島嶼が散在し、その面積は、東京都とほぼ同じとなる。
軍政下(1914~1917)において、日本海軍は、ドイツ占領時に作られ、警察事務を行うなどしていた「防備隊」組織を活用し、占領地域の治安の維持に活用した。
また、教育機関として「島民学校」を作り、「これから人となろうとする未開無知のものを教化」する為に日本化教育(日本語教育)を施した。
トラック、サイパン、ヤップ、パラオ、ポナペ、ヤルートの各島に小学校を設置、さらに、パラオ島マルキヨクにも小学校を設置した。教科書も『南洋群島国語読本』を編纂し、占領政策としての日本語教育に力をいれたのである。
1914年から、始まった日本語教育を主として担当していたのは、海軍軍人であったが、1917年になると、専門知識をもった「教師」が派遣されて、担当することになった。民政(1918~1921)の始まりである。
1918年には、<南洋群島島民学校規則><南洋群島尋常小学校規則>が作られ、トラック島に南洋群島第一尋常小学校、サイパン島に第二尋常小学校が開校された。
民政下において、優秀な子供や首長の子弟を選抜して「内地観光団」を派遣し、日本のあり方を認識させるなど努力がなされた。また、神社を建設し、植民してきた日本人の他、島民にも拝礼を強要した。神社は、最初の頃は、鳥居も丸太で作り、質素なものであったが、次第に立派なものを作るようになった。しかし、強引な政策は、現地の習慣、キリスト教の影響を無視し、島民から批判を受ける原因を作ってしまった。更に、教会は、反日思想を喧伝するものとして警戒したので、欧米との軋轢を起こしたので、欧米諸国からも反発が起こる一因となった。
>南洋興発は北の満鉄、南の南興と呼ばれ、経済的な南方進出に寄与した。水産・鉱業にも進出、事業を拡大した。32年には出航税で南洋庁財政を独立させた。
しかし、植民地支配故に、良くないこともあった。一つは差別である。14,000人の日本人のみを島民と呼び、一等市民と格付けし、沖縄・朝鮮からきた労働者を二等市民、そして、現地のチャモロとカロリナ人は三等市民と差別した。
もう一つは、開発がテニアンの森林を撲滅し、古代遺跡(ラッテ遺跡)を破壊してしまった。さらに、サトウキビにつく虫を駆除するために持ち込んだ蝿なども伝染病を引き起こす原因となってしまった。