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日本語の成立

2016-11-13 | 日本語百科
日本語の成立は日本人、日本民族の成立にかかわることである。日本語となる前は、どんな言語であったかを素朴に思うことで、その歴史は言語に記録されたものをもって、中国史書などに記述を求めるが、それを詳しくすることはできない。

日本語の文字言語には仮名文字の記録を見るが、これはまた、音声言語をとらえることである。かな まな 仮字 真名 仮名 真字 というように、日本語の記録を求めて、音表記による万葉仮名または上代仮名の成立とその語の仮名文字を画期とすることになる。その記録は歌謡に、まず用いられた。

日本語にとりいれた漢語はは漢詩漢文による詞歌集、詞華集である韻文の表記であった。
日本語は和歌を表記し記録されて成立した。日本文学の上代歌謡はまず日本語を記録した文献となる。

なかでも、万葉集の編纂は歌集の成立時期にあわせて、漢文表記による題詞と、日本語表記による和歌とを併せ持っている。万葉集は左注をもってさらに言えば、全文が漢字表記であるから、漢文表記に日本語を交えた記録として、日本語を成立させて来たものである。

万葉集は伝承を含めて400年近くの時代を歌の内容とするが、9世紀半ばまでに歌が詠まれた、巻軸歌によるその時代の証明で、それ以後に、その日本語の記録が書き写されたであろうから、万葉集の書写に日本語の成立を見ることができるといっても過言ではない。

一方で、漢籍の渡来により経典の訓読作業は、日本語による漢文訓読を進めて、訓点による語法の日本語読みを成立させていた。



ウイキペディアの説では、日本国の項目に次のように見える。
>『旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている。

^ 井真成墓誌は、中華人民共和国の陝西省西安市内工事現場で発見されたと、2004年10月に発表された。
^ 「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見 - 文化 - 朝日新聞 2011年10月22日
^ 網野善彦『「日本」とは何か』(講談社、2000年)、神野志前掲書など。
^ 神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、故に日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。
^ 東野治之『遣唐使と正倉院』(岩波書店、1992年)や神野志前掲書など。

年表の時代区分
旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前数世紀
弥生時代 前数世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
 -以下略

>通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。

>日本の黎明
日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3万年前に始まったとされる。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで[69]、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。
紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀・2世紀前後に各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。

>建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。しかし、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。


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