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日中国交

2016-10-27 | きょうのニューストピック
この講演を聞いた。講師のジャーナリストだった経験からわかりよい話の内容だった。1985年に取材で訪中してから、中国の大学に客員、客座教授での肩書を持ち、現在はここ、星が丘の近隣の大学で講義をしている。話を聞きながら、わたしの経験に似たようなところで、1984年に日語専家で始まった中国とのかかわりを思い出していた。わたしは天津にある二つの大学に客員、客座の名誉をもってしてきたことがあり、マスコミ、ジャーナリズムとは違った視点で、いわば、民間交流に30数回訪中して心を砕いてきた。

話の流れは3つのポイントになった。そのひとつは日中国交である。この4字は日本と中国の国際交流とも見えるし、あるいは日本国と中華人民共和国の国際間の外交とも読めるが、その意味内容においては、日中国交正常化とした時点が歴史である。日中を中日とするか、それを国民と人民との違いをもってすれば、臣民となった経緯からの正常化である。その実現はいまだ、厳しく険しい。臣民が国民となったいま、人民との交流は、民間レベルで行われているとしながら、民衆、大衆のお付き合いはどんなものか。

爆買いがはやり、まずはそのあおりが象徴する。さて平易な語り口調にふたつめ、みっつめと感想をもって、政治家の靖国神社参拝と、それは尖閣諸島の領有という歴史認識の枠組みである、話であった。日中国交正常化を交渉して1972年に声明が発表されたことは画期であった。正常であるとの謂いは、国と国とが普通の付き合いということになるから、どのような異常状態があったのか。近代日本の対中かとなれば、大日本帝国と大清帝国との関係からになる。

清朝、大清国、大清帝国とその名称には歴史の視点で呼称があるもの、1616年に建国され、1644年から1912年まで統一王朝として中国を支配したのである。説明を求めて、大清という国号はモンゴル語、Daicinからの転写であるようだから、中国王朝としての現れには命名からして経緯がありそうである。大日本と大清の国交はどうであったかとすると、この名前の並びに変わらぬことがある。それははたして、ともに大をつけての国号に異常であったは何であったのか。

大日本は、1889年、明治22年の大日本帝国憲法発布時に憲法典の名称にあって、それをもってすれば、大日本帝国は1947年、昭和22年の日本国憲法施行時までの約58年間をさすことになる。大日本は、明治天皇による1868年1月、慶応3年12月、王政復古の宣言にあって、それをその後に、1871年、明治4年に鋳造したという、国璽に、大日本國璽、として刻まれたところから、日本であったのが大日本となったのである。以前にも触れたが、倭が大和、大和が、やまと、その表記に、日本があり、そして大大和が、大日本となるのである。おおやまと、である。

表記について、大和、やまと は、日本の古称はよいとして、雅称となると、わからない解説になる。そして、倭、日本とも表記して、やまと と訓ずることもある、のではなくて、これが対日本の呼称を示してきたのであるから、大和、大倭、大日本 おおやまと とも呼ばれるのは、自らを読んでのことだから、呼ばれたことからではない。この呼称に日中国交の現れがあるとすれば、うがちすぎか。大唐、大宗は日本語になると意味が異なり、国号にはならなかったが、大元、大明と、美称を冠したのは、もって日本に影響してきたのである。

なんとも、正常に付き合う呼称が大の張り合いであるかのごとく、日出国は、日出を、ひ いずる としたのは因縁である。中華帝国からすれば、日本をまともにする、国交の正常を持つ国ではなかったのであるから、正常化とは、こちらの思い込みと、あちらのあつかいが、天地ほど離れていたことであったと、それも真逆になるという、周辺国を属国とみなすのに対して、主権を言い続ける辺境国であったと、中国に行く旅の、そのたびごとに思い知っていたことである。



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