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告白る

2013-06-29 | 日記
こく・る【告る】
[動ラ五]《若者言葉》(愛を)告白する。「彼女に―・ってふられた」
[補説]「告白る」とも書く。
提供元:「デジタル大辞泉」という語を連想して、告知する、この語の意味を思う。

コクる小学生の話があって5人もの相手がいるそうで、こくりまくっているような、いそがしい話だった。
そうか、告白るというのは、一生に一回のことかと思っていた、それほどそういうこともないだろうかと思いはしたが、考えてみれば、それほど罪なく行われるものかもしれない。

それが告知となると、そうはいかない。ネットを検索していると医師の思いをつづるものがあって胸が打たれる。告知をする方も、それを受ける方も、なみのことではないような、たたかいがある。
おもえば、あれはやはり、この文章にある研修医のようなことであったかと思い合せる。若き医師の勇気に感謝する日がやってくる・・・


シッコーユウヨチューの思いは、健康診断にある。さかのぼる2年前に。
ちょうどいまのことだった、これから1か月後にそのときの結果通知が来る、ということがあった。

2011年7月30日それはひとつのことにつき、要再検査であった。
呼吸器外科を受診するようにとあって、その診療科名のところがないので、総合病院に行った。

8月1日にでかけて問診票に書きこむ欄を記入して、ふと、告知を望むかとの答えに、それこそ何のことだろうかとおもいながら、書きこんだ。
告知するとはこういうことだと思うほど担当医は話し続けた。
たしか聞いていて、それとなくそのことを言ったようにも思ったが、盛んにゲージを出して図って届かない位置にある、難しい、わかりにくいところだということを説明した。

それがどういうことであるのか理解するまで意志の話を聞き続ける。ひととおりの病歴などを聞かれて答えていた。
その危険な検査を受けることを進めているようで、そうではなくて、そうすると確定しないままに、疑いをもつままに、ステージが変わることを言う。

やっと意味するところがわかってきて、医師が伝えようとする話も理解し始めたが、全く信じられないことであった。
疑いが解けないままに、いまにいたるようなことであったけれど、家族に見せる書類を書いて、そこにある、疑いという語をみた。

やり取りをしているときに、時間が急にゆっくりとすぎるように感じ始めて、そのときの逐一を記憶することになる。
医師はかなり確信をしていて、3か月後にはどうなっているか、6か月後にはいまともう同じことをすすめませんよ、とも言っていた。

決めろというわけだ。再診の日を予約して、どうなるんだろうかとばかりを思い始めていた。
それからは、そうなんだろうと、ゆっくりした時間のなかを帰宅して、家人に告げることをした。

それから2年、すべきことを受けた後は何もないといっていいほど、傍目にも変わらない日々だ。

すべきことというのは、2011年9月に入院をして肺の18分の3、切除をしてそれは無事におわったことだ。




こく‐ち【告知】
[名](スル)
1 告げ知らせること。通知すること。「癌(がん)を―する」「―広告」
2 当事者の一方の意思表示によって、賃貸借・雇用・委任などの継続的契約を終了させ、将来に向かって効力を消滅させること。解約の申し入れ。→解除
告示(こくじ) 公示(こうじ) 公告(こうこく) 宣告(せんこく) 発布(はっぷ) 公布(こうふ) 布告(ふこく)  ⇒類語辞書で詳しい使い方を調べる
宣布(せんぷ) 触れ(ふれ)
こくちぎむ【告知義務】
保険契約者または被保険者が保険契約の締結の際、保険者に重要な事実を告げなければならない義務。また、不実の事を告げてはいけない義務。
提供元:「デジタル大辞泉」






告知、その意味
www2.plala.or.jp/Donna/pronounce.htm‎

>「次は会えないかもしれないから・・・」そう言ってTさんは私に握手を求めた。もしかしたら、知ってるかもしれないという疑いは、このとき確信に変わった。何度も入退院を繰り返し、そのたびに「治って良かったね」と嘘をつき、なにかと医者から見ると細かい訴えの多いTさんは、決して好きな患者ではなかった。

 Tさんは肝硬変で、肝癌の末期であった。本人がきっと耐えられないから告知はしないでくれ、との家族からの強い希望があり、薬の内容や症状の説明も嘘で固めたものであった。本人はその説明で安心するため、ベッドサイドに行くたびにいろいろと聞いてくるので、医師側としては毎日の訪床が苦痛であった。私自身、矛盾だらけの説明に腹が立っていた。
 しかし担当の交代一週間前から、いよいよ体の調子が狂ってくると、彼はぴたっと質問をしなくなった。質問はたいていの場合、「良くなる」ことを想定して出てくるものなので、「もしかしたら」と思っていた。

 彼は自分の死期を感じ取ったのである。

 私には病名や余命を聞いてくることはなかった。ただ「これが最後になるだろうから・・・ありがとうございました」と手を握った。お互いに涙をこらえ、無言のうちに気持ちのやり取りがあった。交代をしてきっかり一週間後、彼は静かに逝った。

 それから半年経ち、Sさんという患者の受け持ちになった。
原病は食道癌で(このことは本人も既に知っていた)、転移があちこちにあり、それがもとで四肢の麻痺も起こり始めていた。検査ではどうして生きているのかと思うほど、全身にわたりひどい転移が確認された。
 医学的にはもうできることはほとんどなく、苦痛を取るためだけの治療が主であった。しかし本人に言うのはかなりの精神的負担になると考え、直接的な言い方は避けて通っていた。その間も目に見えるほどのスピードで、初めに両足、次いで両手の麻痺が進行していった。

 その進行の仕方はSさんにも、ひどい状態なのだと嫌でもわかるであろう。ある日突然、彼はベッドサイドをあとにしようとした私を呼び止めた。
「先生、オレ、あとどれくらいなの?」
 予想だにしなかった突然の質問だった。ゆっくりと、かみ締めるように、彼は聞いた。
 Sさんのまっすぐな視線は、とてもそらすことが出来なかった。
「半年?2、3ヶ月?・・・・・それとももっと早い?」 そう言って彼は指を一本立てた。
「その可能性が、強いと思います」
胸がつぶれるような気持ちで、搾り出すように、この言葉を口にした。これが医者になって初めて、余命を患者本人に告げた場面である。実際はもって2週間というところだった。
「そうかぁ・・・」
 Sさんはある種のツキモノがおちたような表情になった。目が涙でうるんでいた。
 私は必死で涙を我慢していた。Sさんの前で医者である私が涙をこぼすのは、卑怯だと思ったからである。
 しかし部屋から出て数十メートル廊下を歩く間に、涙は止められず頬をつたった。
 それからの彼は日ごとに生気を失っていくのがわかった。3週間ほどして、眠るように逝った。

 いつも思うことだが、医療とはサービス業である。病気を治すという単純明快な目的のためだけではなく、患者とその家族の、納得いく「生き方」が出来るように、専門的知識を持ってサポートするのが本来あるべき姿だと思う。
 サービス業とは客の満足度を高めてなんぼである。医療も同じである。きちんとインフォームド・コンセントをした上で患者が治療を拒否したならば、治療をしないこともひとつの方法だと思う。
 医療は大きな矛盾を抱えている。高度医療が進むにつれ、薬から一生逃れられない患者が増えてくる。 今まで助からなかった患者が助かるようになったが、後遺症という大きな問題を抱えながら、薬漬けになりながら、機械の助けを借りながら、生きていかなくてはならないことがある。病気を治療しても、病人は全然減っていない。増える一方である。現在の医療の矛盾点である。
 過去には「人間50年」という言葉があった。哺乳動物の心臓が一生涯に打つ回数は、ほぼ同じで一致しており、人間でいうとちょうど50歳くらいになるそうだ。今の寿命が80歳というのは、肉体的矛盾を背負っての、30年のおまけがついたようなものである。

 前述の二人の患者さんは、片方はギリギリまで癌と知らずに、片方は癌と宣告されてから何年もを闘病している。
 問題は、「余命」という言葉の中には、ベッドに縛り付けられ自分の世話もできないほどに体力が落ちている時間も、全て含まれているということである。実際の医療の現場では、治療を受けることで逆に体力を落とし、QOL(Quality Of Life)を悪化させて余命を短くしてしまう例も、多々あるのである。
 治療をすれば治るものは告知をすることが多い。辛い治療が必要な場合にも、本当のことを言わないと患者が治療を乗り越えられないため、告知する。
 しかし治らない場合、告知を受け止められる精神が備わっていない場合はきびしい。

 Tさんの場合、ギリギリまで「自分は治る病気だ」と疑いなかったと思う。食欲が落ち、腹が腫れて、足がむくんでも、自宅で食事をとって自分で歩け、いわゆるQOLは高かった。嘘の説明は苦痛であったが、今思うと結果的には告げなかったことで、ギリギリまで彼の精神的苦痛は軽減され、自宅での家族との時間を確保できたと思う。
 Sさんの場合、どんどん悪くなっていく状況の中で、現状を知らせることは残酷であった。少なくとも、よくなる見こみがある、と患者に信じさせることは、ターミナルをより良い形で迎えさせるためには、必要な治療方法なのかもしれない。
 私は基本的には告知賛成派であるが、この2人の経験は「告知しないことの利益」を改めて痛感させられたものであった。

 するかしないかは個々の条件により変わってくる。ひとりひとりの状況に応じて柔軟に対応する、医師側の姿勢が大切であろう。「告知をする、しない」は法律で定められる類のものでもなければ、皆の意見がどちらかに統一出来るものでもない。


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