日本語というのを考えるときに、この、にっぽんご の ご 、語はなにかを調べると、、いまふうに言えば、言うことやしゃべることのうちでも、はなすことであることだとわかる。平安時代には物語文学を生み出した祖先たちであるから、ものがたり と言えば、この かたる と、それでわたしたちは了解をしている。語 を、言葉のことだとすると、この ことば にも、ことのは という意味内容があって、にっぽんのことば というのと、日本語 は、同じだと言える。日本については、次のあとで述べることにする。
語、ご というのは、かたること、言 げん というのは、言うこと、言語 げんご というのは言語行為をさす言葉である。語と言ならば語のほうにすじみちをもとめ、言のほうに口からの物言いを聞くことになる。言にはまた一方に、曰 えつ というのがあった。
し いわく と素読をした曰くである。いう というのを、言 げん と、曰 えつ の二通りで言い分けていたのである。いわく を、曰く と書いて、のたまはく とも読んだ。この文字による読みわけを国語学者の中田祝夫氏が議論している。
日本語の語言とすれば中国語にある使い方であるが、いまの日本語には用いない。そして日本語の言語としてlanguageにとらえて近代の翻訳語を概念にして言語分析をおこなってきている。博言学は文献を用いるものとしてphilologyの訳語であったのを、言語学に代えたようであるから、それはそのまま文献に徴する言語であった。その一方で、文献学の訳語もあって、国語学での手法となっていた分野である。
ここで、にっぽん と、にほん と、いずれも言えるので、にっぽんご と、にほんご と、いずれの語をよしとするかの議論も生まれる。これはすでにわたしに言ってきたことであるが、結論を言えば、日本 と書くことだけが正しいという、わたしたちの言語意識によるものであるということである。
どうしても読みを決めたいならば、その読みはこの漢字についていえば、漢字は文字で、文字は言葉で、これを使えば、これを読むときには、ともに正しいとすることになる。それは文字を言葉だとしている意識が作られたからである。ただ、むかしから、にほん と読んでいたかどうかはわからない。にっぽん のような読みしていたかもしれないが、はるかかかなたの漢音はそのときに発音を変えたので、それが伝わったとしても、そうならなかった。つまり、日本 と書けば、やまと と読むようにした。
この文字は漢字のことであるが、それを読む平仮名、カタカナも文字であるし、どの文字がただしいかとなれば、どれも使うので正しいのである。たとえば音読み訓読みのどちらも日本語発音であり、正しい。この文字を言葉と考えることは、音声を言葉の形式だとする、そう考えるようになった、そうなったずっと以前から、漢字を取り入れたときにはじまった。
日本語には固有の文字がなかったので漢字を、この文字が言葉であると、文化に受け入れたから表記法には漢字を正しい語としてとらえていると言えるのである。もう少し言えば、日本と漢字で書くことだけが正しいのであるが、それを音声にして使うときにふたつの言い方があるので、どちらも正しい、日本と漢字を書く限り、この文字づかいそのものが言葉なのであるから、これをやめない限り、日本 と書くことが正しいということである。
これをローマ字で書こうとすると、にっぽん となる、NIPPON と、NIHON とを書き比べて、NI HON としないのは、に ほん と読みにくいということだけでなく、にち という読みを持っている 日 が、にっ と、するのはよいけれど、日 が、に となる読み方は、日本語にはほかにしないので、この表記を選びにくいわけである。熟字訓などの例をみても、に となる、この日本だけは読み方にあてはまらないものを例外に持つのは不思議である。
しかし、平仮名で書いて、にほん とすることは、促音の表記をしない伝統にあって、それが正しいと意識してきた経緯がある。にほん と書いて、にっ ほん と発音したとすればわかりよいが、それは、にっぽん という表記法で書きあらわされたかのようだ。行政府のあった地域の方言的要素が考えられる。
ちなみに、にっぽん よりも、大和 とするとらえかたで、日本 と書き表したものをも、やまと と読むとした、この言語意識は漢字の文字づかいを日本語にした祖先の表記法をわたしたちに読みとしても伝えてきている。古来、日本国 は、やまとのくに であったのである。それはまた、表記では大和王と書くことができてもそうはならなかった日本国王につながる、対外交渉の歴史のことがらがあったからであるが、ここにはふれない。
国名で日本の名称を列挙しうるのを並べているのをみると国号はおのずと決めてきたようである。そのなかでも近代にある名前の、欽定憲法にある、大日本帝国 と見えるのは、この読みはさすがに、だいにほん とは言いにくいから、だいにっぽん であろうし、そのあとの、民主憲法である、日本国憲法、は、にほんこく とも、にっぽんこく とも読めるのは、この国号表記に統一された呼称のためである。
国の名称が、 あしはら、あきつしま やまと しきしま おおやしま 大和 日本 などを伝えるが、どれも政府とか、国とか、法とかで定めたようなものではない。ここに実は日本語の本質がある。それはおのずと決めたことが正式名称であるゆえんに、日本という文字づかいがあったとだけすればわかりよいのである。
わ と呼ばれ、倭と書いたのをきらってかどうかわからないが、和としたとすれば、それが正しくて名称には、大和 と文字を選び、ここで 大 をつけた様子がわからないというか、おなじようなことをくりかえして、日本 と、大日本 との間でも見えるのは、そうすることを認めてきているからであろう。ときの為政者たちが望むことを役人が作り出していたのかもしれない。
語、ご というのは、かたること、言 げん というのは、言うこと、言語 げんご というのは言語行為をさす言葉である。語と言ならば語のほうにすじみちをもとめ、言のほうに口からの物言いを聞くことになる。言にはまた一方に、曰 えつ というのがあった。
し いわく と素読をした曰くである。いう というのを、言 げん と、曰 えつ の二通りで言い分けていたのである。いわく を、曰く と書いて、のたまはく とも読んだ。この文字による読みわけを国語学者の中田祝夫氏が議論している。
日本語の語言とすれば中国語にある使い方であるが、いまの日本語には用いない。そして日本語の言語としてlanguageにとらえて近代の翻訳語を概念にして言語分析をおこなってきている。博言学は文献を用いるものとしてphilologyの訳語であったのを、言語学に代えたようであるから、それはそのまま文献に徴する言語であった。その一方で、文献学の訳語もあって、国語学での手法となっていた分野である。
ここで、にっぽん と、にほん と、いずれも言えるので、にっぽんご と、にほんご と、いずれの語をよしとするかの議論も生まれる。これはすでにわたしに言ってきたことであるが、結論を言えば、日本 と書くことだけが正しいという、わたしたちの言語意識によるものであるということである。
どうしても読みを決めたいならば、その読みはこの漢字についていえば、漢字は文字で、文字は言葉で、これを使えば、これを読むときには、ともに正しいとすることになる。それは文字を言葉だとしている意識が作られたからである。ただ、むかしから、にほん と読んでいたかどうかはわからない。にっぽん のような読みしていたかもしれないが、はるかかかなたの漢音はそのときに発音を変えたので、それが伝わったとしても、そうならなかった。つまり、日本 と書けば、やまと と読むようにした。
この文字は漢字のことであるが、それを読む平仮名、カタカナも文字であるし、どの文字がただしいかとなれば、どれも使うので正しいのである。たとえば音読み訓読みのどちらも日本語発音であり、正しい。この文字を言葉と考えることは、音声を言葉の形式だとする、そう考えるようになった、そうなったずっと以前から、漢字を取り入れたときにはじまった。
日本語には固有の文字がなかったので漢字を、この文字が言葉であると、文化に受け入れたから表記法には漢字を正しい語としてとらえていると言えるのである。もう少し言えば、日本と漢字で書くことだけが正しいのであるが、それを音声にして使うときにふたつの言い方があるので、どちらも正しい、日本と漢字を書く限り、この文字づかいそのものが言葉なのであるから、これをやめない限り、日本 と書くことが正しいということである。
これをローマ字で書こうとすると、にっぽん となる、NIPPON と、NIHON とを書き比べて、NI HON としないのは、に ほん と読みにくいということだけでなく、にち という読みを持っている 日 が、にっ と、するのはよいけれど、日 が、に となる読み方は、日本語にはほかにしないので、この表記を選びにくいわけである。熟字訓などの例をみても、に となる、この日本だけは読み方にあてはまらないものを例外に持つのは不思議である。
しかし、平仮名で書いて、にほん とすることは、促音の表記をしない伝統にあって、それが正しいと意識してきた経緯がある。にほん と書いて、にっ ほん と発音したとすればわかりよいが、それは、にっぽん という表記法で書きあらわされたかのようだ。行政府のあった地域の方言的要素が考えられる。
ちなみに、にっぽん よりも、大和 とするとらえかたで、日本 と書き表したものをも、やまと と読むとした、この言語意識は漢字の文字づかいを日本語にした祖先の表記法をわたしたちに読みとしても伝えてきている。古来、日本国 は、やまとのくに であったのである。それはまた、表記では大和王と書くことができてもそうはならなかった日本国王につながる、対外交渉の歴史のことがらがあったからであるが、ここにはふれない。
国名で日本の名称を列挙しうるのを並べているのをみると国号はおのずと決めてきたようである。そのなかでも近代にある名前の、欽定憲法にある、大日本帝国 と見えるのは、この読みはさすがに、だいにほん とは言いにくいから、だいにっぽん であろうし、そのあとの、民主憲法である、日本国憲法、は、にほんこく とも、にっぽんこく とも読めるのは、この国号表記に統一された呼称のためである。
国の名称が、 あしはら、あきつしま やまと しきしま おおやしま 大和 日本 などを伝えるが、どれも政府とか、国とか、法とかで定めたようなものではない。ここに実は日本語の本質がある。それはおのずと決めたことが正式名称であるゆえんに、日本という文字づかいがあったとだけすればわかりよいのである。
わ と呼ばれ、倭と書いたのをきらってかどうかわからないが、和としたとすれば、それが正しくて名称には、大和 と文字を選び、ここで 大 をつけた様子がわからないというか、おなじようなことをくりかえして、日本 と、大日本 との間でも見えるのは、そうすることを認めてきているからであろう。ときの為政者たちが望むことを役人が作り出していたのかもしれない。