日本語教師資格試験をどうするかという、文化庁の意見公募が始まったそうである。試験に合格することを要件とすることと、実践力を身に付ける大学や日本語教師養成研修実施機関での教育実習の履修を必須とすという。教育実習の必要度は高いものであるが、その実習指導はプログラムするにも、カリキュラムでするにも大変なことなので、インターンシップ制度をもって実際の現場を知ることがよい、という考え方がある。その売位でも、2週か、3週かの、教員免許制度に倣うものでは不足である。科目の学校教員はすでに学習体験があって、その実際を生徒の立場で経験があるから、まあ、分かりよいとして、日本語教育の現場はそうはいかない。ボランティアの体験を通しても、教員のためには役立つこと、いまだ不十分なのである。 . . . 本文を読む
魂の話を聞いた。ユタの口寄せによるという死者への思いである。信じることを問うことになるので、それは心の自由であるから、信仰とはちがって、占いもそうであるが、あたることあたらないことで、傾聴していた。魂は霊魂、魂魄、御霊とあがめるものである。仰ぐ、敬する、畏敬、崇拝、敬愛、慕うと、その対象である。信じる人には見える、信じない人には魂はよらない、とすると、それはなぜかと考えて、死後の魂になるには、その準備でもしておかなければならない。終活の方向を、少し、考え直すか・・・ . . . 本文を読む
リマインダーを見て、1年前の記事に並ぶ。同じことをしている。なぜなのか。しかし、それをここで繰り返すということは、繰り返し脳に求めるところ、か。それぞれに、意味、意義の語を、文字からみようとしている。意味と意義の違いについて、このブログにも書いてきているところ、これに、語意、語義とすると、*語味 とする用法はないと、つけ加えてみて、句意、文意とはどういうことを言うか、くぎ、ぶんぎ、くみ ぶんみ、とその用法を考えることになると、基本は、意、義、味の組み合わせによる日本語の使い方である。意味、意義 語義、語意として、その用例の範囲で、熟語となる漢字の言葉と、文字を語として見る用法があることがわかる。それは一文字を言葉とするか、漢語を入れて多くは熟語に日本語を与えてきている、その使い分けを、もう一度見直してみることになる。 . . . 本文を読む
老人が過去の話や愚痴を何度も繰り返すこと。辞書義である。繰り言は繰り返し言い続ける言葉なので、また言っている、もう聞いたよ、何度も同じことを言うなよ、となる。その内容は、過去のこと、愚痴と、聞きたくなくなった、聞きたくないというような、捉え方の説明である。この説明があると、繰り言は、老人であるがゆえの、脳の疲れをあらわしていると説明しているものもある。さて、それが始まって、老いの本人は気づかない、周囲は気づいて聞くことにまゆを顰めるわけであるから、繰り言はよろしくないコミュニケーションである。また同じ話と切り返された時点で、それが繰り言のたぐいであることに気づかなければならないから、なぜそれをしゃべりだしてしまうかの解明を、そうしている老いの本人も、聞かされている周囲もまた、行うべきであるか。ぼけたり、ボケたる、惚けである、とこれは、ぼけている、ボケである、そして呆けなのである。 . . . 本文を読む