二重主語は問題となったのだろう。検索すると、ヒットした。しかし、二重判断というのは、ふたえ瞼のことで検索語となってしまうか、この語を知るには文法という検索語を付け足す。二重否定が出る、また検索するとさきの主語のものがヒットした。二重主語は構文の一つであるかのように議論している。日本語教育で、wa...ga構文とする文型があった。この教育用基本文型とする主題主語での議論は二重主語となるものではないが、それを形式の便宜に取り扱うように巷間での議論ともなる。 . . . 本文を読む
論理のことになる。どんな論理かというと、絶対とは一つしかないという。主語の絶対とは、一つの主語を持つというだけのことであって、絶対的存在ということではない。
相対はまた違って、絶対に対する相対となるが、相対しあうということ、向き合うだけのこと、あちこちが相対同士となると、そうなると本当に、唯一絶対とか何とかを考える論理には、許せない、ありえないことになってくる。
大主語と小主語と、複文構 . . . 本文を読む
主体が二つあると説明に困る、ということだったのだろう。総主となる主語に対して主語を構造に持つのは大天守と小天守のようにいかなかったかと想像をしてしまう、三上章氏の授業での思いか、女学生を相手に国語の授業でどうにもならないと思ったと、注書きに記していたように思う。そこから主体者は一つだというのだから、これは私が類推してのこと、日本語での主語廃止、主語抹殺論を文法の考え方として展開して、用語に . . . 本文を読む
一語文を文であるとする議論はそれを見て、つまり一語を見てかあるいは聞いてか、それだけで文だというには、文とは何かという視点からするといわば出発が異なる。これから文についてのとらえ方を、語と語と連続する表現のものとすると、まったくあわない。それまで句とするところを文としてしまった取違いであると考えれば何が文法になり、何が文章になるかと、発話を単位とする談話でも然り、それまで言われている文章 . . . 本文を読む
言語の現象では主語と客語とすれば漢語文法から取り入れた国語文法で済むところ、英語文法と一口に言っておくけれど、それは目的語の類であって、客体とは言いながら、ここに時枝学説のあいまいさがうかがえるし、また、賓語という、そこには繫辞をも介在させる論理世界が山田学説からあって、日本語にはその解釈で成り立つ言語現象である。自動詞、他動詞の区別を述語という用語で区別できる日本語文法は、やはり、見ることがない。 . . . 本文を読む
言語の主体と用いればそれについての客体とするが、それはわたしの知るところ言語の議論ではなくなって主客合一とまでとんでもない論義を引用する。それは宗教と哲学の話であるから、併せて主観客観にも、中には、かっかん といった読みかたまで云々して、何やら違うことを言い出す。認知にかかわればそういうことなのかもしれないが、言語の作用はそこまでをとらえるかどうか、もっとシンプルなのが分かりよい。 . . . 本文を読む
日本語は主体主語である。英語は主格主語である。表現者主語と動作主語にあらわされる。
どうしても主体と客体とか、主観と客観とか、哲学議論、認知論を展開しているので、難しいが、もう少しわかりよく言えないものか。類型論に及んでわかりよい児玉論文はそれでも概説のようである。 . . . 本文を読む
歌と句であるから、和歌の句に初句、第一句、上三句とあれば、それぞれが歌句であるし、連歌俳諧にも発句となる用語があり、俳句というのは人口に膾炙した詩句のうちでもわたしたちになじむ文学となった。
一佳句は作品になるからそれだけで文章の単位になると言う時枝学説である。歌句の一つはその文章単位のうちにある文相当の一つになる、こういうふうに考えても、一語文というよりは、一歌句をそのままに、文そのものとするのはとらえにくい。 . . . 本文を読む
一語文は言語主体の表現であり時枝学説を介して文法学研究によって近代から現代を貫く大問題にしたのは山田学説継承という名実ともに1970年代の国語学の議論であったようでその行方は認知論からも言語の主体化というアプローチとなっていた。一語文は一語句に文としての機能があるという一文句とでも言いたくなる句なのであるからその発想に戻れば一歌句のままにとらえておくべきであった。文とは文法の単位である、その文規定を陳述から統覚作用に統叙の職能として解決できるところを、文の規定を打ち消す主語廃止論に乗じた文単位の規定に誤謬を起こしたことから文法論議でなくなって文章法議論に位置してきたのである。 . . . 本文を読む
言語主体は表現主体でもある。書き手、話し手となる表現者と読み手、聞き手となる受容者がいると、表現主体はその関係でとらえられることになる。表現主体が制作するとなると広く言語だけではない捉え方ができる。いまここに言語主体という用語で言語客体と見ると、言語客体は用法がまずないが、その用語には言語の主体化、客体化という議論となるようである。言語における主体と客体との現れを見るようである。 . . . 本文を読む