漢字の読みが許せないとショート動画でみせるのをそうだなと思って見てしまって元気なその振りに引き付けられた。
読みは、たしかにsoである、
日々ならぬ日日の読み方を、日曜日、休日とあげて、この日の文字が複雑に読み分けられることになぜ、どうなっていると突っ込みを入れていたから。ひび にちにち にち び じつ ここに加えて、ホンジツは ふつか と。この読みわけは芸術的!ですらある。 . . . 本文を読む
水無月、みずなしつきとは、いかに。陰暦の異名だから陽暦に合わせて考えると、気候がずれる。水泉が滴り尽きるという語源は大変な状況でもある。暑さで水が涸れるのか、田植えで水を使いまわすからか、陰暦5月に考えてみると、植えた早苗がみな根づいた意で、みなし終えた月のような解説もあるので、この文字遣いにある、漢字の無しにことばが引っ張られているような、そんな気がする。水の月でよいのだろう、その水とは、大事な用水のことか。 . . . 本文を読む
民衆知のようにこの語をもじると、ネットサイトの、口コミ という言葉が思い浮かぶ。口頭でのコミュニケーションの略かとするが、くちばなしコミュニケと造語して、それを投稿サイトに集めることのように見えるし、あるいは噂のように思える。しかしそれではプログラムがオープンソ-スによって作られるわけでない。 . . . 本文を読む
入門書とタイトルにする三上学説の紹介本がある。紹介というにはかなり込み入った内容を持つが、「象は鼻が長い」入門、副題に、日本語学の父 三上章 と見える。2003年4月1日、くろしお出版刊行。著者は庵功雄氏、その言によれば、三上を知らない子供たちにあたるそうである。したがって、この書は三上を知らない世代の三上文法の理解の試みだそうである。 . . . 本文を読む
肯定と否定、肯定論があるところに否定論がある。
ところが否定論があって、肯定がある訳ではない。もともとの状態には肯定も否定もない。
肯定論とするのも否定論が出たから、あえて否定論側からすれば肯定論側になると言うだけで、それについてはもとより肯定も否定もない。
主語を決めてきている取り決めに、つまり、否定論というのは新しい議論を作るものでもない。 . . . 本文を読む
日本語文法から主語の用語を廃止する、国語文法の主語は有害無益であるから抹殺する、そして主語否定するのは主語肯定論の議論がないから鞍がえすることなく唱え続けていると、三上学説はその主張を主格補語にすることと主格の優位説は認める、そして日本語でも統辞論上の主格は認められることを述べていると、一貫している説明のように見えて、どうにもそうでないところもある。主語の用語には主格を用いて読み替えてもよい、二重主語がよくないと言ってきて二重主格を認める記述もする、さらにもともとは「象は鼻が長い」例文を軸にしているので日本語構文を説明できたのかどうか . . . 本文を読む
日本語の主語否定論に肯定論が出れば、それを納得する、主格優位に日本語の現象が説明できれば、否定論を肯定論に鞍がえする、みずからは変説するそうであるが、それはどういうことか。
>主格の著しい統括的優位が見つかりそうにない 5.Subject ive 81ページ 文法小論集 . . . 本文を読む
日本語文法の主語を否定してつらぬくところ、中学校の学校文法で扱われているかとなると、そうでもないらしい。:必須要素とそうではない文の成分とでは、どういうことであったのか。
文はかなっらず主語と述語からなる、とは、言うところの、西洋文法の「文は主語と述語からなる」という規定であるなら、それを日本語で分析すると、たちまちに当てはまらなくなる例が続出するから、直ちにそうだとは言えないことが自明となる。 . . . 本文を読む
主語の否定は議論の拡大とその受け止めにはどういう時間の流れとなったか、その広まりにはどういうことがあったか、始まりは文法教育にあり感心するのはやはり文法の実践のことだったのだろう、1970年のこの著書に触れるところで、
>私の主語否定論もずいぶん長い。その間、自分自身では変説の可能性を留保していたつもりである。納得できる反論に出会ったら、いつでも肯定論へくらがえするという用意である。 . . . 本文を読む
そ れはさて、二重主格のことを二重主語と呼んで、主語という用語の抹殺、廃止、否定の論拠からすると、二重主格になる説明があって、この章ではないが、引用しておく。
格の概念がヨーロッパ語と日本語で少し違うことについて一言する、と言って、declension のカテゴリーにあるヨーロッパ語に比する。 . . . 本文を読む