言語の主体と用いればそれについての客体とするが、それはわたしの知るところ言語の議論ではなくなって主客合一とまでとんでもない論義を引用する。それは宗教と哲学の話であるから、併せて主観客観にも、中には、かっかん といった読みかたまで云々して、何やら違うことを言い出す。認知にかかわればそういうことなのかもしれないが、言語の作用はそこまでをとらえるかどうか、もっとシンプルなのが分かりよい。
言語の主体と用いればそれについての客体とするが、それはわたしの知るところ言語の議論ではなくなって主客合一とまでとんでもない論義を引用する。それは宗教と哲学の話であるから、併せて主観客観にも、中には、かっかん といった読みかたまで云々して、何やら違うことを言い出す。認知にかかわればそういうことなのかもしれないが、言語の作用はそこまでをとらえるかどうか、もっとシンプルなのが分かりよい。