夏目漱石、夢十夜、1908年の7月から8月にかけて朝日新聞紙上で10回連載されたそうだ。それを、現代によみがえらせる、小説本文は現代仮名遣いの岩波文庫版に準拠ということである。 . . . 本文を読む
パソコン用語、インターネット用語を見てきて、中国語の用語を表記で見るとどのように翻訳されているかを検索した。英語からの対応なので見やすい。台湾と大陸式があるのは中国でのパソコン事情をうつすところである。連想とIBMの関連を知る人の少なくなった最近である。スマフォの生産工場の一部も、iPhoeと中国でのイミテーションさわぎのことなど、その意味絵は中国の製造は平準化されている。 . . . 本文を読む
まさこと 人名に見ると、正言、正辞、正説、雅言、匡言である。匡字は、きょう と発音しているが、匡言 kuāng yán と、拼音に見えるので、きょう ではなくて、こう となるべきであったか。匡正 と言う語義があり、正しいことに通じる。きむら‐まさこと 木村正辞、1827~1913、幕末から明治の国文学者に、まさこと の名がある。 . . . 本文を読む
日本語の歴史は文字とともにある。漢字をもって日本語を表記する工夫をしたが、その漢字を書記に崩して用い、漢字の発音を簡略にして文字とし、日本語発音にした。一方でまた漢字の省文を見ると、それを日本語発音にあうように、極端な片端をもって、これも日本語発音の表記に用いた。日本語の歴史が言語の記録に始まるなら、この文字の工夫こそが日本語史の淵源となる。言語の記録は平仮名と片仮名とそのいずれにおいて表記の用途が異なったので、文献による歴史探索はその二途を得る。大筋の流れにおいて歌句の書記と漢文の補助符号である。その流れに、発音のために漢字をそのままに、発音の仮名にしようとした表記法があった。万葉仮名とよばれる。歌謡にとくに見られたので、上代記紀歌謡の表記と合わせて、上代仮名とするものがある。日本語文字の日本語史には、漢字、上代仮名また万葉仮名、草のこと、片仮名、平仮名、カタカナそして現代のひらがな、くわえてラテン文字がある。 . . . 本文を読む
漱石の表記を文字遣いとしてきた。漱石にも表記行動があったとするのは良いとして、それを用字法として議論するとなると、それなりの書き方の実例を収集することになる。どのような用字法が作家の文体としてとらえられるか、それとも、いまのような規範意識を求めて漱石は、どう書くべきであったかなど、校本といった形で示すことになる。それは幾度かにわたる出版があって漱石全集を編集するときの、原稿との間のことがらとなる。夏目漱石全集を1993年に刊行を開始した新しい全集という宣伝があるので、それはどの本だろうかと思う。漱石全集(1993年 - 1999年、岩波書店、全28巻別巻1巻) わたしのもとにあるのは、いわゆる菊版である。漱石全集 岩波書店 18冊 1976/4/12 菊判 第2刷 . . . 本文を読む
あらためて取りざたされるところを、夏目漱石の文字遣いについて、サイトのいくつかで知る。文献を書誌からの視点で厳しく扱うことは大切なことであるから、それはそうであるとして、興味深い。その一方で電子情報化された簡便さに弊が及ぶかの主張を見てしまった。まさに、憤懣をもってする意見には、むべなるかなと思い津、一方で、書誌から情報というところまで、現代的な様相を思ってしまう。通行本は活字における原本との原稿の隔たりは編集者によってきめられるところ、それを了解をしてのいわば流布本の形態である。文庫化されるときのその著作の運命みたいなものだろう。かたや電子情報の定本扱いは、かなり困難である。底本となるものが著作権による、そのかかわりで時代による文字の有無に始まって、それにルビを振るようなことがあれば、まさしく、校本であるかどうかの根本がとらえられる。たまたま、漱石の小説の愛好によってその意見を知ることになり、いちいち、ごもっともである。情報によってしからしめる、この電子媒体というものは、そこに書誌でいうところの本文批判は成立しない。 . . . 本文を読む
漱石の用字に、本文の生態学という一書をなす石川氏のブログに、2014年10月16日 朝日新聞 三四郎 漱石の「当て字」――麗々 か 例々か が、あって、氏のホームページ http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/index.htmlに、漱石の書誌学本文研究があることを知った。さきのサイトのタイトルには、初校ゲラを通してみた小宮豊隆の『夏目漱石』 と、あるものである。それで導かれて、『本文の生態学』については、全ページを私のホームページに pdf 版で掲載 というのを、拝読することにする。さきのブログサイトを読む限りで、漱石の用字法の麗々しさを、否、例々しさを取り上げている。まさに原文表記にその用字法を見出している。漱石の表記を学んだわたしの読書体験からすれば、原文の全集読みは、その表記の醍醐味に圧倒されていただけであったのだが、無理もないのは13歳であったから、そして、いまに多くを得ていることを知る。 . . . 本文を読む
漱石の文字遣いをみて、日本語表記を考える。「門」から、しばらく。前の続きにしようかとも思ったが、リアルタイムにした。すこし思い出すと、このような表記に触れたのは13歳のころである。吾輩は猫である については、ユーモア小説ぐらいの読書であったが、それは中学生にして受け止めたのであったからいたしかたない、それにつづいて、こころ を読んだころ、そのころには、白樺派に影響があったので、武者小路実篤の表現、文字遣いはさまざま、学ぶころであった。ほかにもあったのだが、それはいまでも中学生図書館の隅にあるだろう、君たちはどう生きるか、哲学書であった、そして、きっかけは何であったろう、その冬ころ、漱石全集を読み始めたのである。三部作もエッセイ風にも、漱石畢生の大作にも、それは日記や漢詩をまぜこぜに、お構いなしの読書であった。その時の漱石全集のルビがわたしの学びであった、と、確かにして思う。それから夜半から明け方の読書には漱石全集があった。14歳のころには一通りのことであった。その中に、わたしの個人主義を見なかったのは、のちに江藤淳が編集した文芸春秋社の . . . 本文を読む
日本語文字に形音義がない、とするのは、漢字ではないからである。漢字にある形音義は確かに認められないだろう。しかし一方で仮名文字である限り、それを言語記号としてもちいているわけではない。仮名文字通りの発音であれば音節の区切りに文字意識が働くという仮説である。一字に一音義とする音義説を持ち出すわけではない。それをまとめるウイキペディアの解説で、音義とは次である。ハ(刃、歯、葉、羽)、ヒ(日、火、氷、樋)に、意味があるとする。さきの仮説と異なるのは、音義であることで、わたしのは字義である。と言ってみても大差がないようなことだ。科学的価値がないというので、国語学、言語学では退けられた音義説である。文字に意義があるのは、もじ だからである。文字となれば、もんじ であるが、それは漢字音になることばであるから、漢字に意義がある。 . . . 本文を読む
漢字には文字として意味がある。それは語である。表語文字である。ラテン文字には記号として音がある。それは発音である。表音文字である。それでは仮名は文字として、意味があるか、発音があるか。そのどちらでもない。仮名文字に意味はないが、仮名を用いることで意味をとらえようとする。いま書く文字は、仮名であるが、それは漢字変換して文字となる。かな、仮名、哉など、金物という、かな でもある。音節文字の仮名には発音の一つ一つとしての認識にいわば意味が加わっている。仮名の発音はさらに音素、あるいは単音として分析できる。したがって、言語学でいうところの音標文字とはならないが、日本語発音の音韻を示して、その音の連続に意味内容をとらえる日本語である。仮名は真名に対し、仮字と真字の関係を漢字との間で持つ。かな、まな、この二つをいま、日本語で捉えることはしなくなった。漢字を崩し、漢字の片を用いて文字にした祖先は仮名に言葉そのものを、いうなれば意味をとらえていたことであろう。 . . . 本文を読む