ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

韓国について

2005年08月24日 | Weblog
小生の母親は子供の時代を戦前の15年間くらい、朝鮮で育った。母親の父が朝鮮で巡査の職を見つけたので大邱(テグ)というところで暮らしたらしい。地図を見ると釜山の北にある。
小生が子供の頃、夜に寝付けないときに、よく母に朝鮮の話をせがんでしてもらった記憶がある。学校の教師のこと、巡査の父が朝鮮人をよく殴っていたこと、朝鮮語を喋っていたので日本語が不得手になったこと、大蛇のことなど。
戦前、朝鮮から引き揚げて母の一家は大阪に落ち着いた。母の父、すなわち小生の祖父は工場へ勤めて労務の仕事をしていたようだ。時々、朝鮮半島に渡り、労働者を連れてきていたという。強制連行に近かったのかもしれない。

小生の亡父は、戦前、満州に仕事を探しに行って、そこで数年暮らし、酒好きになったようだ。だから、朝鮮半島を縦断したはずである。亡父は、在日朝鮮人に対して嫌悪感を持っていた。「あいつは朝鮮人だ」と言うのをよく聞いた。
両親の世代は、けっこう朝鮮人に対して差別意識を持っていたが、小生は、差別を知っていたが、意識は持たなかった。

奈良の明日香村へ行くようになって、古代日朝関係史などの本を読むにつれて、韓国に行ってみたくなった。古代朝鮮の遺跡巡りの旅をしたくなったのだ。20数年前のことだ。
古代人のように海から渡ることにした。ルートは下関→釜山→慶州→扶余→公州→ソウル→木浦→光州→普州→釜山→下関で、日数は1週間。
一人旅だから、ハングルを覚えて、文字を発音できる程度にしていた。おかげでバスの行き先など直ぐ分かった。夜、下関からフェリーで渡り、未明に釜山港へ着いた。時間調整で港に長く留め置かれた。船室の人と話などしていたが、いざ上陸となり彼らのパスポートをみると日本のものではなかった。在日の人も多い。仕事で渡る日本人もいた。メッキ技術を教えに行くのだと優越感丸出しであった。いろいろ韓国情報を教えてくれた。ブランド物のコートやバッグを持っているおばちゃんの集団がいる。彼女らは運び屋なのである。小生が釜山に上陸するとおばちゃんが寄ってきて「アレ持ってませんか」なんて話しかけてくる。

(慶州 左:古墳公園の円墳群 右:郊外の寺の礎石跡)
釜山からバスで慶州へ。韓国は高速道路網が発達しているのでバスでの移動が便利だ。低い丘の連なりが多いが緑は少な目。慶州に着いて韓式ホテルをみつけてチェックイン。すぐ名所旧跡を見て歩く。古墳公園の円墳、天文台跡、寺跡、氷室跡、博物館・・・。高層ビルもなく落ち着いた地方都市であった。有名な仏国寺にも行った。金庚信陵や武烈王陵へも。慶州の歴史的復元をしたのは、朴正熙大統領ということを最近、「日本植民地探訪」(大江志乃夫、新潮選書)を読んで知った。彼は慶尚道出身で、慶州の歴史的復元と古代新羅の花郎道精神復活に力を注いだのだという。そのおかげで慶州は世界文化遺産に指定されている。慶州では二泊してかなり歩いたので今も印象に残っている。

百済の都だった扶余では白村江で舟に乗って川下り。扶余も観光の街。ソウルへ行く途中公州で古墳群を見学する。公州は格調高い街並み。
ソウルは雑然として、人が多くてうんざりした。朝鮮総督府の建物を利用した国立博物館を見学した。今はこの建物は日帝の遺物として取り壊された。青磁や白磁がたくさん展示されていたのを覚えている。
ソウルでは1泊しただけで、ソウル駅からセマウル号で半島南端の木浦まで。ソウル駅で赤帽が日本語で話しかけてくるので利用した。車両まで手早く案内してくれた。チップを渡したが、もっとくれと催促された。
木浦はラジオの気象通報で「モッポでは・・・」というあの木浦。丘にハイキングコースがあり風光明媚なところだった。
木浦から光州へ。光州は全斗煥の軍隊による虐殺事件があった街だがそのころはすでに落ち着いていた。なぜか郊外の公園や遊園地を散策した。しゃれた若者の通りもあったように記憶している。

あとは、釜山まで行く途中、遊覧船で海岸沿いを観光した。竹島行きもあったのかな。
釜山では丘の釜山タワー展望台でゆっくりした。李舜臣の銅像は記憶にない。この地は江戸時代に倭館があったそうだ。

宿はほとんど韓式を利用した。5月だったがオンドル(床暖房)が効いて気持ちよかった。あれは痔主にいいかもしれない。焼き肉は美味しかった。燃料もガス、練炭、炭といろいろ。甘い焼酎のチンロも良かった。木浦の居酒屋で鍋物を食べたのだが5千円も請求された。あれはぼられたのかもしれない。コッピー(喫茶店)に一度だけ入った。店に若い女の子がいてテーブル席に座ってくれるのだ。好きな飲み物をおごるだけで会話を楽しめるようになっている。朝鮮ニンジン茶でも飲んでいたのかな。今もこのようなコッピーあるのかな?

20数年前の記憶を辿って書いてみた。もう韓国もすっかり変わってしまっただろうな。

歴史認識

2005年08月17日 | Weblog
韓国と日本の間の歴史認識の違いがどこにあるのか明らかにして欲しいものだ。古代史においてその違いがあるのを聞いたことがある。小生は日本史で任那に日本府をつくったと習ったが、韓国ではこれを認めないということを。端から歩み寄る気がなければ、自分たちの認識に都合のいい資料しか使わないだろう。仮説の検証というのをよく行うが、仮説に不都合な情報は無視するのでインチキ臭いことは小生でも知っている。

古代において日本は朝鮮半島の影響を強く受けたことは誰も否定しないだろう。渡来人、仏教伝来、白村江の戦い・・・。歴史考古学者の故江上波夫は、騎馬民族制服王朝説をとなえて関心をもたれたが、定説にはならなかった。彼の言うミッシング・リンクはそのままだ。奈良という地名は韓国語からきているときいた。韓国語のナラは「国」という意味なのだ。「ウリナラ」は「我が国」であろう。古代においては文化交流が盛んであったことは確かだ。小生、奈良の明日香村に何度か通って、古代史に関心をもった時期もある。韓国にも、下関から釜山へフェリーで渡り、新羅や百済の古代遺跡を見て歩いたこともある。特に新羅の都だった慶州がすばらしかった。古墳公園、寺院の跡、田園風景、甍の家屋など明日香村に似ていた。博物館には黄金の冠など展示していたが、この黄金文化は日本の古代とは違うなと思った。

その後、日本は韓国から中国に関係をシフトして遣隋使だの遣唐使など派遣することになった。だんだん、韓国とは疎遠になった。元寇のときは高麗が元に協力したが、日本が倭寇という海賊で韓国沿岸を襲って迷惑かけた。秀吉が呆けて朝鮮出兵して加藤清正らが家を焼き払い、殺しまくり、かなりの人を拉致して帰った。本当は中国の明を領土にするのが目的だったのだが夢だった。京都の耳塚というのがあるが、あれは朝鮮出兵のときの戦利品の耳の墓だと聞いた。

江戸時代になって関係修復し、朝鮮通信使が慶賀に江戸まで来て友好的交流もあった。岡山の瀬戸内沿岸の牛窓では唐子踊りが伝えられている。朝鮮通信使が立ち寄った港だったのだ。牛窓以外の土地では、このような痕跡は残っていないのだろうか。
明治の時代になって、西郷隆盛の征韓論がおこった。東アジアも西欧列強の国々の植民地争奪を迎えてしまった。日清・日露の戦争、三国干渉、日英同盟、ポーツマス条約・・・。
ロシアは南に出たかった。朝鮮半島に進出したかった。日本が列強の仲間入りして、朝鮮半島を支配することを列強はロシアを除いて反対しなかった。むしろ、ロシアの勢力を畏れて賛成したのではないか。パワーバランスのため日本が半島を領地とすることを認めたのではないか。そして日韓併合。「新しい歴史教科書をつくる会」は、この半島植民地化を当時はやむを得なかった行為だと主張しているのである。放っておけば朝鮮に進出したロシアが日本への脅威になったと。世界情勢として、植民地化は許されたかもしれないが、朝鮮人の日本人化はやりすぎだ。それを根拠に日本が徴用と言っているが強制連行と言われても仕方ない。このあたりに反日思想の根がある。長い間、日本の文化に拒絶反応を持たせたし現在につながっている。竹島、独島、竹島、独島、・・・・。
アメリカは、日露戦争が終わったときから日本をとっちめる戦略的長期計画を立てて軍縮条約などで日本に圧力をかけていた。太平洋戦争にへ向けて。

なぜ中国侵略に行ったのか。秀吉の呆けと同じかな。半島を取ったのだからもっとたくさん欲しくなるのは国家の常か。

判官贔屓

2005年08月16日 | Weblog
判官贔屓というのは、弱者に味方することをいうが条件付きであると思う。
判官は源義経のことである。判官贔屓の語源は、興津要の「語源なるほどそうだったのか!」(エスカルゴブックス、昭和61年発行)に歌舞伎十八番の「勧進帳」によると書かれている。頼朝に追われた義経一行が山伏姿に身をやつして石川県小松の安宅の関にさしかかったところ、見破られそうになったので弁慶が機転をきかして義経を杖でめった打ちにした。義経に対してなら打つこともあるまいと思わせるためだ。しかし関守の富樫は見破っていた。これに感動した関守は黙って関所を通らしてやった。この「勧進帳」をみて見物客は同情し、以来、弱者や不幸な者に同情して味方することを判官贔屓というようになった。

小松市に安宅住吉神社というのがあり、難関突破のお守りを売っている。この神社の建立はいつごろだろう。NHK大河ドラマが「義経」を放映しているので、参詣客が多いそうだ。難関突破のお守り、人気があるだろう。

今ちょうど行われている高校野球などは、負けているほうに応援したくなるのは判官贔屓といえる。でも、地元の高校が勝っておれば判官贔屓はしない。スポーツの国際試合で自国を応援するのもそうである。これはナショナリズムのひとつの形である。プロ野球の好きなチームを応援するのもあてはまらない。ゴルフでスーパースターのタイガー・ウッズを応援するのにもあてはまらない。どういう心理からくるのだろうか。判官贔屓はどうでもいい対象の無責任な応援といえるかもしれない。万国共通、人類普遍の心理によるものなのか。

「ある神話の背景」を読んで

2005年08月11日 | Weblog
朝日新聞の8月5日のページに「沖縄戦・集団自決記述で大江氏らを提訴 元軍人と遺族」
という記事がある。
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太平洋戦争の沖縄戦で起きた住民の「集団自決」を命令した、などとうその事実を書かれて名誉を傷つけられたとして、大阪府在住の元軍人と遺族が5日、「沖縄ノート」の著者で作家の大江健三郎氏と出版元の岩波書店(東京)を相手取り、総額2000万円の慰謝料と出版差し止めなどを求める訴訟を大阪地裁に起こした。
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ノーベル賞作家の大江健三郎の「沖縄ノート」は、相当むかしに書かれたものだが、今ごろになって名誉毀損として提訴するのは、それなりの事情があったのだろうか。

座間味島の守備隊長だった梅沢裕少佐の件については当事者の住民の告白によって集団自決が軍命によるものでなかったことが明らかになっている。虚偽発言には遺族年金の受給資格が絡んでいたというが。
渡嘉敷島の守備隊長の故赤松嘉次大尉についても曽野綾子のルポ「ある神話の背景」によって、神話的悪人にされた経緯が分かっている。

最近、「ある神話の背景」(PHP文庫、1992年発行)を読んだのでそのことについて書いておきたい。

(慶良間諸島の渡嘉敷島と曽野綾子)
曽野綾子は昭和43年に戦中の沖縄女性徒の記録についての執筆取材で沖縄に行ったのであるが、渡嘉敷島の集団自決の資料を目にしてその真実を追うことになった。渡嘉敷島の当時の指揮官である赤松嘉次大尉、海上挺身隊第三戦隊長、当時25歳が告発された文章であった。曽野は当事者への執拗な取材で事件を明らかにしていく。

赤松大尉の部隊は、小型舟艇に爆弾を積み込み、米軍鑑に特攻する人間魚雷であったのだ。島尾敏雄もそのころ奄美の加計呂間島で同じ任務についていたが、米軍上陸もなく、ミホさんと恋仲になっており、悲劇は避けられたのであろう。
渡嘉敷島の集団自決は昭和20年3月28日朝に行われた。島は艦砲射撃や米軍上陸でパニック状態になっていた。赤松大尉は人間魚雷で出撃準備をしていたのであるが事情でできなかった。そこで北(にし)山に転進(退却)して米軍を迎え撃つつもりであった。地下壕など掘る余裕もなく、蛸壺程度の壕をやっとつくったようだ。
軍と村民の間の連絡は駐在巡査が行っていた。赤松大尉は村民のことは考える余裕はなかった。巡査が大尉に村民はどうすればよいかと聞いたので、一カ所に集まったほうがいいとアドバイスした。場所も指定しなかったし、自決命令も出していなかった。
しかし、村民は巡査が集合指示したのを軍命令として受け取った。勝手に集合場所は軍の陣地に近い北山の谷(恩納河原)に決め、豪雨の中をパニックになって集まった。北山の谷には御嶽があったので自然と集合場所に決まったのであろうか。村民の中には防衛隊員もいたので手榴弾を持っていた。赤松大尉が自決用に渡したものではなかったのだ。最初、グループで手榴弾で自決しようとしたが、使い方を知らないので不発が多かった。そこで、棒、鎌、ナイフ、石ころ、縄で成人男子が弱者の女・子どもを殺すという阿鼻叫喚の状況になってしまった。集団パニックの心理状態だろうか。329人の犠牲者が出たのである。

昭和25年に沖縄タイムス社が「鉄の暴風」という戦史を企画出版した。執筆者は大田良博氏であった。時間の余裕もなく、渡嘉敷の集団自決については、事件当時に島にいなかった二人の伝聞で聞き取り、それをそのまま執筆した。村民は軍陣地の地下壕に入ることを拒否され、集団自決を命令されたと書かれたのだ。それによって赤松大尉は「神話的悪人」にされてしまった。「鉄の暴風」の文章がそのまま、遺族会の「渡嘉敷島の戦闘概要」、大江の「沖縄ノート」、家永三郎の「太平洋戦争」、中野好夫らの「沖縄問題20年」に引用され、「神話的悪人」伝説が定着した。
でも、赤松大尉の部隊が数名の島民を処刑などにした事実はある。それは軍隊の常識の範囲内であった。赤松大尉が集団自決命令について積極的に否定しなかったのは、結果的に島民を死に追いやったのも事実であり、遺族年金の受給もおもんぱかる気持もあったようだ。

提訴した関係者は、名誉回復をきちんとした形でやって欲しいのではないだろうか。
なお、渡嘉敷村の公式ページの白玉之塔には「パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決しました」と誰に指示されたのか曖昧になっている。指示はなかったのではあるまいか。

軍隊は民衆のためにあるのではなく、国体維持のためにあるのだ。その維持のためには民衆は犠牲にされることもあることを知っておかねばならない。

若者ことばなど

2005年08月04日 | Weblog
文化庁の日本語に関する世論調査によると、若者が良い悪いの判断をし難いときに「ビミョー(微妙)」とよく言うそうである。例えば、花火大会はどうだったかと聞かれたら「ビミューだな」と答えるのだ。そういえば、そういう傾向にある。あと、素晴らしい、すごい、美味しいという肯定的意味で「ヤバイ」が使われる。本来、ヤバイは悪い状況のときに使われるはずである。医学生まで「ヤバイ」は肯定的にとらえていたというから、患者さんを前にして容態を説明するときまずい気がする。例えば高齢者に精密検査の結果を告げるとき、良好な場合に「チョーヤバイです」などと言ってしまうかもしれない。

また、熟語の「汚名返上」、「青田買い」、「伝家の宝刀」がそれぞれ「汚名挽回」、「青田刈り」、「天下の宝刀」と間違って覚えられているという。これは中高年者のほうに多いというがなぜだろう。おそらく、マスコミが間違って使ってきたので影響を受けたのだろう。

略語も文章を分かり難くしている。よく「CXの女子アナ」というのを目にするのであるがCXが何か分からず悩んだ。どうやらフジテレビの略称らしいことが分かった、それから、「JALのCA」がよく分からなかった。日本航空の何なのだろうかと思った。CAは、Cabin Attendant(客室乗務員)の略称であった。スチュワーデスのことである。スチュワーデスのことを「デス」という人もいる。スッチーはもう風化したかな。田中康夫知事が流行らせたらしいが。略称も程々にしてほしいものだ。

「なおざり」というのはよく使われるが、「おざなり」はあまり使われないので意味がはっきりしなかった。ニュアンスがビミョーに違うようだ。「なおざり」とは、事柄が問題として意識されているが面倒や事情があってそのままにしておくこと。「おざなり」は、事柄を問題として意識せず、そのままにしておくことのようだ。どちらも悪いことばだが、「おざなり」のほうがより消極的。拉致問題や石綿問題は「なおざり」だろうな。「おざなり」は「おざなりのホームページが多い」という使われかたのようだ。更新されないホームページのこと。

ことばは放っておけば、曖昧に、不正に、簡略になってしまうのであろう。