ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

中国からの越境汚染

2007年05月31日 | Weblog
今月、北九州や北陸で光化学スモッグ注意報が発令された。この時期には珍しいので中国から流れてきた大気汚染物質の影響ではないかと研究者は分析している。黄砂に有害物質が吸着されている恐れがあるといわれていたが、いよいよここまで来てしまったか。
ヨーロッパの国々では陸続きなので越境汚染に関する条約が結ばれている。中国と日本との間にも検討されるべきだろうが、果たして中国は応じるであろうか。
中国の公害状況は情報管理されているのであまり伝わってこないが、河川は工場廃液で七色をしており、奇形魚も多く、魚が多数浮いているということだ。農薬も大量に使用され、使用禁止農薬すらも未だに使用されている。豚や鶏の畸形、人の障害児も多数生まれているという。中国の富裕層は中国産野菜は危ないので食べないという。中国産の塩で死者が多数出たというニュースも最近あった。
日本に輸入される中国産野菜は多い。小生などは白ネギ、ニンニク、梅干、漬物など最近買って食べているではないか。スーパーの安い焼き鳥も中国産ではなかろうか。米国では中国産食品に農薬や抗生物質が検出されて輸入の差し止め措置がとられたこともあった。
(中国の七色の川)
つい最近、日本で中国製土鍋からカドミや鉛が検出されて回収された。海外でも中国製のペットフードから殺鼠剤、せき止めシロップや練り歯磨きからジエチレングリコール、おもちゃから有害なフロル酸化合物が検出されている。中国は白ゴマをタールで着色して黒ゴマとして販売した事例もあるという。中国の緑化政策というと、グリーンの塗料を岩や枯草に吹き付けることだという。高速鉄道の車両からは備品が盗まれ、国が運営する遊園地はディズニーのコピーだし、サファリでは観客が虎やライオンに生きた牛、羊、鶏を与えて喜んでいる。中国はカオスの世界だ。北京オリンピックで中国の恥部がすべて暴露されるような気がする。
今後、中国産食品は避けようと思っている。

読書録「甦る海上の道・日本と琉球」

2007年05月28日 | Weblog
民俗学のオーソリティというと柳田国男と谷川健一しか思い浮かばない。柳田批判はいっぱいされているが谷川批判はあまり聞かない。谷川氏は1921年生まれなので今年86歳である。図書館の新着コーナーで谷川著の「甦る海上の道・日本と琉球」(文春新書、2007年)を見つけて読む気になった。やはり書店と図書館は頻繁に訪れたほうがいい。それにしても学者には定年がないのだな。

この著作、250ページほどだが内容が濃密で難しい読みの固有名詞や古語がいっぱい出てくるので読むほどに疲れ、読了までに5日間程度要した。
まずカバーの袖に「原始・沖縄を千年の眠りから覚めさせたのは九州産の石鍋だった・・・」というフレーズを読む。日本の商人が長崎の西彼杵半島産出の滑石製石鍋を本島や先島にもたらしてから貝塚時代を終わらせグスク時代になったのである。先島では石鍋模倣土器を出現させ、無土器時代は終焉して一気にスク時代へ。琉球では滑石製石鍋は古いグスクでしか発掘されないので、日用雑器としてではなくてシンボル、呪器として使われたのではないかと考える。石鍋は日本本土で石鍋四個が牛一頭の値段に匹敵していたほど高価なものだった。

その商人たちは谷川氏によると、西九州を根拠地にする家船の人たちではないかと推測する。商人たちは主に琉球のヤコウガイ、ホラガイが欲しかった。それらは日宋貿易での螺鈿工芸特産品の材料として珍重された。琉球へは石鍋だけではなく、カムィヤキ土器、鉄塊、鍛冶職人などももたらした。琉球には鉄鉱石も砂鉄もなかったので、以後、生産力も画期的に上がった。
近年、徳之島の伊仙町でカムィヤキ土器の大規模な窯跡が発見されており、喜界島の城久遺跡からは石鍋、カムィヤキ土器、中国製の白磁などが大量に出土されているので喜界島がひとつの交易拠点になっていたと見なしている。
家船商人にまじって武装集団も加わっていた。武士団の残党や食い詰めた落伍者などであるが、家船自体が海賊といおうか倭寇みたいな存在のようである。武装集団のなかで有力だったのが、肥後八代の名和氏の系統の連中で、肥後海賊くずれで伊平屋島、沖縄島の東南部、知念半島に上陸して佐敷に根拠地を設けた。これが第一尚氏を開いたというのを折口信夫が説いている。肥後にも佐敷という地名がある。谷川氏にはこの折口説に異論はないようだ。谷川氏は肥後の水俣出身であるが、水俣に為朝伝説があり、為朝神社がある。

サバニについての記述が興味深い。サバニの語源は小舟(さぶね)だという。元来はクリブネだったが、大木を濫伐することは唐船や楷船の帆柱材の不足を招くので琉球王府が1737年にハギブネ(板造り)を奨励した。でも、なかなかハギブネは普及しなかった。ハギブネは船税が高くて構造も複雑だったからだ。明治になってもクリブネの数が優勢だったという。

この著作を要約することは難しい。谷川氏は自説をあまり主張していない。既存の様々な説、新しい知見を多数提示してくれる。これらを使って読者にいろいろ考えたり、調査したりすることを勧めてくれているような気がする。
著者の「父が歴史。母が文化。同母異父の日本と沖縄」の枠組みはずっと変わらない。

かくれんぼしようね

2007年05月19日 | Weblog
物議を醸した熊本県の医療機関が設置した”赤ちゃんポスト”の開設日に3歳の男児が預けられた(捨てられた)。その男児、駆けつけた担当者をニコニコした笑顔で迎えたという。新品の服を着ていて、父親の名前も話して「フクオカ」から来たと言ったという。親にどんな事情があったか知る由もないが、虐待されもせず、普通に育てられたみたいだ。ポストに入れられるときに「かくれんぼしようね」と言われたという。利発そうな男児だ。子どもが消えれば、隣近所も不思議に思うだろうし、親戚も騒ぐだろう。捨てた父親を捜索しない方針だという。違法性はないということだ。少子化の時代、男児にはすくすくと育って欲しい。
20歳そこそこの夫婦が赤ん坊をバイクのヘルメットスペースに置いていたら死んでいたという。それを山野に捨てて捕まっている。犬猫だってそんな所に入れないだろう。それは虐待死だ。それこそ、”赤ちゃんポスト”に預ければよかったのに。
母親の首を切断して、持ち歩く高校生もいる。親が子を、子が親を殺す狂気の時代だ。

読書録「昭和十六年 早川元・沖縄県知事日記」

2007年05月14日 | Weblog
野里洋著の「昭和十六年 早川元・沖縄県知事日記」(ひるぎ社おきなわ文庫)を読む。
早川元は第25代沖縄県知事であり、昭和16年1月に熊本県総務部長から沖縄県知事に転任し、昭和18年7月まで約2年半にわたってその任にあった。昭和16年というと、ちょうど太平洋戦争に突入する時期であった。その時期の沖縄に関する資料はほとんど焼失しており、早川元の日記は貴重なものである。この著作は著者が早川元の子息が保管していた昭和16年の1年分だけの日記コピーを提供してもらい、当時の朝日新聞鹿児島・沖縄版の知事関連記事とともにまとめたものである。
早川知事は「大政翼賛会知事」、第26代泉守紀知事は「戦場化するのを恐れて逃げた知事」、第27代島田叡知事は「悲劇の知事」と一般によばれている。早川知事は国策に忠実に県政を行ったのである。当時の新聞では、人情知事とか行動知事として好意的に書かれている。宮古島や大東島を視察したり、いろんな行事に参加している。日記は、たいへん素っ気なく備忘録ふうに書かれ、天候、公私にわたる出来事しか書いていない。早川知事の意見、主張、想いなど一切ない。でも面会や同行した人名が数多く記載されている。
例えば次のようなものである。
 二月十七日(月)
 曇後小雨、夜雷鳴を聞く。
 庶務課長より主管事務の報告を聴く。
 午後海洋会館に於て谷寿夫中将を囲みて座談会を開く。
 全購販連中央本部より吉田資材部長以下一行三名来覇、祝宴会あり。
 
興味深いのは、5月30日に「久松五勇士」の生存者二人に面会するため宮古島を訪れていることだ。目的は戦意昂揚のための格好の材料として取り上げることだったようだ。久松五勇士とは日露戦争のとき、バルチック艦隊発見を知らせるため宮古島から石垣島へサバニで急行した人たちのこと。ところが朝日新聞記事によると艦隊の第一発見者は「バルチック艦隊に発見され、捕虜になったが、言語、動作、服装の点から支那人と誤認されて釈放された」ということになっている。著者はこの事実は次第に隠蔽されて神話として歪曲されたのではないかと見なしている。 
早川知事は昭和18年7月に大分県知事に転任、翌年蘭領ボルネオへ海軍司政官として赴任、戦後に公職追放された。沖縄10.10空襲前の知事だったので、泉・島田知事に比べ幸運な人だったのかもしれない。

読書録「沖縄の島守」

2007年05月11日 | Weblog
田村洋三著の「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」(中央公論新社、2003年)を読む。つい先日読んだ野里洋の「汚名」にも書かれていた人物である島田叡と荒木退造の事蹟に焦点を当てることで沖縄戦を描いている。
島田叡は泉守紀前知事の後任、荒木退造は泉守紀と同じ時期に県警察部長として赴任してきた。島田叡は牛島司令官に推薦されたために貧乏籤を引いてしまった。荒木退造も転任工作をしなかったために沖縄で殉職してしまう。ふたりとも死を覚悟して戦場行政を誠実に遂行した。戦中の県庁の仕事は、住民の疎開と食糧確保がメインだった。島田は台湾米移入交渉のため、台湾に飛んでいる。米軍が上陸してからは住民の避難をサポートするのみになったが、彼等も避難しなければならなかったのでとても困難な仕事になった。この本を読むと泉守紀前知事が卑怯者呼ばわりされても仕方がないと思う。

第一章が県庁・警察部壕(ガマ、洞窟)の再発見から始まり、官僚や住民が避難した壕の場所や図が多数記載されるのでまるで洞窟調査の本でもある。
10.10の空襲で県庁舎がほぼ破壊されており、職員は複数の壕に分散して職務を遂行していた。4月27日に警察部壕で南部の市町村長・警察署長を集めて最後の合同会議を開催している。南下する避難民の受け入れなどを協議したのだ。各出席者は命がけで来て帰っていく。
島田は軍の首里放棄説に「県民の被害が大きくなる」と反対したが第三十二軍は5月22日にマブニに撤退を決定し、27日に開始した。島田の職務は住民を守ることだったのだ。首里の軍司令部地下壕は総延長千数百メートルもあり、いつも1000人以上いたという。5月25日に島田らも壕から壕へと避難しながら南ちする。途中、荒木はアメーバ赤痢を患っても職務を遂行している。6月16日にマブニの軍司令部壕へ着いた。島田は軍司令官と最期をともにする覚悟だった。多くの県民を死なせた責任を負い自決を決意していた。6月26日に島田と荒井は軍医部壕を出て消息は不明になった。

首里からマブニまで辿った島田らの足跡は同行者の記憶で明らかになっている。途中、彼等は地獄を見た。沖縄戦は、本土決戦準備のための時間稼ぎ、沖縄は捨石だった。未だに沖縄を守るために日本軍は戦ってやったという人が多いがけっしてそうではない。多くの壕で避難住民は軍に邪魔だと言われて追い出され、亡くなった人が多かったことが分かる。戦争の悲惨さと無意味さを知らせてくれる。この著作では卑怯者の泉守紀知事は「I知事」、坂本内政部長は「B」として記号で書かれている。著者は記号で書くことで侮蔑したのか。


読書録「汚名」

2007年05月02日 | Weblog
野里洋著の「汚名 第二十六代沖縄県知事泉守紀」(講談社、1993年)を読む。先日読んだ同著の「癒しの島、沖縄の真実」のなかで触れていた人物「泉守紀(しゅき)」を描くノンフィクションである。
著者は、沖縄戦を前に沖縄を見捨てて逃げ出した卑怯な知事がいたというのを知り、その事実を追求した。昭和18年7月、泉は北海道内政部長の職から沖縄県知事に転任した。ほぼ米軍が沖縄に上陸が予想されていたので、ある程度、死を覚悟しなければならなかったが、赴任前は意欲満万だった。
昭和19年3月、沖縄に第三十二軍が創設された。沖縄本島をはじめ南西諸島の防衛を目的とする大本営直轄の軍である。初代司令官の渡辺中将は沖縄各地で講演し、「軍は沖縄防衛に全力を挙げる。だから住民も軍に協力してもらいたい。そして最後は軍とともに玉砕してほしい」と発言している。軍は国土防衛が目的で、住民を守るのが泉知事らの県当局の仕事であった。
渡辺中将は精神的疲労から病気になり、8月に本土に転任、新司令官は牛島中将となった。参謀長もかわり長勇少将が決定された。夏頃から沖縄に部隊が続々と配備され、風紀の乱れもひどくなった。軍は県当局に「慰安所」をつくるよう申し入れてきた。泉知事はこれを拒否した。「ここは満州や南方ではない。少なくとも皇土の一部である。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない。県はこの件については協力できかねる」と。しかし、軍は各警察署に圧力をかけ、つくらせてしまうのだ。
牛島中将は訓示のなかで「防諜に厳に注意すべし」として各部隊に「軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜として処分す」と命令していた。長勇参謀長は県当局に「我々は作戦に従ひ戦をするも、島民は邪魔なるを以って、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒を見ること能はざるを以って、自活すべし」と広言していた。
軍は、住民に玉砕や退去を求めていたのだ。泉知事は、北部に住居や食糧を確保できるあてはないのでこれにも反対した。泉知事は戦争も軍人も嫌いな合理主義者であった。十月十日の沖縄大空襲で県庁舎も知事官舎も焼け、知事は普天間の中頭地方事務所にしばらく移った。泉はこの年の3月から沖縄からの転任工作を親戚や内務省同僚を通じて行っていた。戦争が怖かったこともあったのだが、軍にも反発していたのもその理由だった。泉は12月23日に出張で沖縄を発って二度と沖縄に帰ることはなかった。中央でいろんな会議や協議に出席していたが、昭和20年1月12日、香川県知事への転任の内示があった。内務省が泉を転任させたのは泉知事が軍に妥協しなかったのが理由であったようだ。香川県知事職も4月21日に任を解かれ、戦後は仕事らしい仕事につかなかった。

本土出身の幹部官僚も数多く無断で本土へ逃亡しているし、那覇市長すらそうしている。泉知事は逃亡ではなく、転任だったと著者はみなしたようだ。
沖縄タイムス社の「鉄の暴風」によると「戦場化する任地に、踏み止まることを恐れるかの如く泉知事は、倉皇として、他に転じ・・・」と書かれた。これが発端になって知事逃亡は定説になった。
後任の沖縄県知事島田叡(あきら)と、泉と一緒に沖縄に赴任した荒井警察部長はマブニで殉職した。彼等は島守として顕彰されている。

著者は、戦後40年近く経ってから埼玉の泉守紀宅を探し当て訪れている。泉夫人から話を聞き、体が不自由になった泉守紀にも面談している。でも、汚名については問い質せなかった。泉守紀の日記帳を後日提供されて、泉守紀の当時の繊細な心理状態をこの著書で伝えてくれている。加えて、従軍慰安婦や集団自決問題を考えるうえで情報を提供してくれているように思う。