ある旅人の〇〇な日々

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歴史認識

2005年08月17日 | Weblog
韓国と日本の間の歴史認識の違いがどこにあるのか明らかにして欲しいものだ。古代史においてその違いがあるのを聞いたことがある。小生は日本史で任那に日本府をつくったと習ったが、韓国ではこれを認めないということを。端から歩み寄る気がなければ、自分たちの認識に都合のいい資料しか使わないだろう。仮説の検証というのをよく行うが、仮説に不都合な情報は無視するのでインチキ臭いことは小生でも知っている。

古代において日本は朝鮮半島の影響を強く受けたことは誰も否定しないだろう。渡来人、仏教伝来、白村江の戦い・・・。歴史考古学者の故江上波夫は、騎馬民族制服王朝説をとなえて関心をもたれたが、定説にはならなかった。彼の言うミッシング・リンクはそのままだ。奈良という地名は韓国語からきているときいた。韓国語のナラは「国」という意味なのだ。「ウリナラ」は「我が国」であろう。古代においては文化交流が盛んであったことは確かだ。小生、奈良の明日香村に何度か通って、古代史に関心をもった時期もある。韓国にも、下関から釜山へフェリーで渡り、新羅や百済の古代遺跡を見て歩いたこともある。特に新羅の都だった慶州がすばらしかった。古墳公園、寺院の跡、田園風景、甍の家屋など明日香村に似ていた。博物館には黄金の冠など展示していたが、この黄金文化は日本の古代とは違うなと思った。

その後、日本は韓国から中国に関係をシフトして遣隋使だの遣唐使など派遣することになった。だんだん、韓国とは疎遠になった。元寇のときは高麗が元に協力したが、日本が倭寇という海賊で韓国沿岸を襲って迷惑かけた。秀吉が呆けて朝鮮出兵して加藤清正らが家を焼き払い、殺しまくり、かなりの人を拉致して帰った。本当は中国の明を領土にするのが目的だったのだが夢だった。京都の耳塚というのがあるが、あれは朝鮮出兵のときの戦利品の耳の墓だと聞いた。

江戸時代になって関係修復し、朝鮮通信使が慶賀に江戸まで来て友好的交流もあった。岡山の瀬戸内沿岸の牛窓では唐子踊りが伝えられている。朝鮮通信使が立ち寄った港だったのだ。牛窓以外の土地では、このような痕跡は残っていないのだろうか。
明治の時代になって、西郷隆盛の征韓論がおこった。東アジアも西欧列強の国々の植民地争奪を迎えてしまった。日清・日露の戦争、三国干渉、日英同盟、ポーツマス条約・・・。
ロシアは南に出たかった。朝鮮半島に進出したかった。日本が列強の仲間入りして、朝鮮半島を支配することを列強はロシアを除いて反対しなかった。むしろ、ロシアの勢力を畏れて賛成したのではないか。パワーバランスのため日本が半島を領地とすることを認めたのではないか。そして日韓併合。「新しい歴史教科書をつくる会」は、この半島植民地化を当時はやむを得なかった行為だと主張しているのである。放っておけば朝鮮に進出したロシアが日本への脅威になったと。世界情勢として、植民地化は許されたかもしれないが、朝鮮人の日本人化はやりすぎだ。それを根拠に日本が徴用と言っているが強制連行と言われても仕方ない。このあたりに反日思想の根がある。長い間、日本の文化に拒絶反応を持たせたし現在につながっている。竹島、独島、竹島、独島、・・・・。
アメリカは、日露戦争が終わったときから日本をとっちめる戦略的長期計画を立てて軍縮条約などで日本に圧力をかけていた。太平洋戦争にへ向けて。

なぜ中国侵略に行ったのか。秀吉の呆けと同じかな。半島を取ったのだからもっとたくさん欲しくなるのは国家の常か。

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