ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

吉備路風土記の丘へ

2006年05月25日 | Weblog
昨日の昼前、久しぶりに総社の吉備路風土記の丘を訪れる。
総社は岡山市の隣にある。目的地まで距離20㎞ぐらい、時間にして車で30分程度だろうか。ここには国分寺跡、国分尼寺跡、こうもり塚古墳、吉備路郷土館などがある。かなり整備されて、遊歩道あるいは散歩道として散策するにはすばらしい。

(備中国分寺の五重塔、前景はレンゲの花)
まず、国分寺跡の五重塔へ行く。吉備路の代表的な文化財である。画家の平山郁夫がここを訪れ五重塔を描いたそうだ。描いたその場所に記念碑のようなものが造られている。今、建っているのは江戸時代末期に再建されたものだ。小生が高校生の時、社会研究部にくっついて訪れたことがある。小生は部員ではなかったが、友人に誘われたのだ。引率の先生が歴史を教えていた佐藤米夫先生だった。そのとき、五重塔を上まで昇った。心柱が真ん中に上まで伸びていて、階段を上がった記憶がある。今は、五重塔の中へ入ることはできない。ちょうど近辺の小学生たちが来ていて、少し騒がしかった。初夏が近いので、生徒たちも気だるい感じだ。休憩しているのか、写生しているのか分からない。小生も五重塔の下の岩に座ってコンビニおにぎりを食べて休んだ。

おもむろに散策を始める。緑も多く、小さな田圃にレンゲの花が咲いている。こうもり塚古墳は、長さ100㍍もある前方後円墳だ。黒姫塚とも呼ばれていて、石室が明日香村の石舞台程度の規模があるという。石室に入って進めば、ひんやりして気持ちよい。そこを出て国分尼寺跡へ行く。途中、シトラスの香りがしていた。もう大きな松の木の上で蝉が鳴いている。後で人に聞いたら「はぶせみ」(聞き間違いのようである。「ハルセミ」)と言っていた。国分尼寺跡には大きな礎石しか残っていない。

最後に吉備路郷土館で展示物を見学する。ここでは、いかに吉備地方が古代において文化が発展していたかがわかる。稲作も縄文時代から始まっていたようだ。羽柴秀吉による備中高松城の水攻めの様子を説明したコーナーもある。今ちょうど大河ドラマで「功名が辻」をやっている時なので関心がある。水攻めの戦術は、黒田勘兵の策だそうだ。文献では「高さ7.2m、幅14.4m、長さ3㎞の堤防を一週間で築いた」となっているが誇張されているようだ。客は誰もいなかった。
吉備路風土記の丘。また、訪れたい所である。

大神島

2006年05月11日 | Weblog
寺山修司の著作に「花嫁化鳥~日本呪術紀行」(中公文庫、1990年)というのがある。先日、古書店で物色していて見つけた。1973年に雑誌「旅」に連載されたものをまとめたものである。最初の章が「風葬大神島」となっているので買って読むことにした。
大神島は宮古島とは目と鼻の先にある。冒頭が「大神島は老婆の島である」で始まる。舟が島の突端に着いたとき、岩窟の上の一軒家の雨戸が少しだけ開き、誰かがじっと見ているとか、老婆と子どもたちが手鞠をしているとか、片目の漁師に島まで運んでもらったとか、夕暮れに子どもたちがかくれんぼをして遊ぶとか書いているので、まるで寺山ワールドである。子どもに島の頂上まで案内してもらったが、辿り着けず元の場所に戻ってしまうという。もう一度、登っても同じ繰り返しになるそうだ。このあたりは、創作かもしれない。でも、島で民俗学者の鎌田久子女史に会って話をしたというのだから、島に渡ったのは事実かもしれない。子どもにキャラメルを四つやったら、一つ返してきたという理由が分からなくて分教所の先生にきくと島では偶数がとても嫌われていると言われたという。本当だろうか。
その他、海賊伝説や兄妹結婚、海賊キッド騒動、河村只雄の訪島のことにも触れている。

社会学的な目的で大神島を初めて訪れたのは河村只雄である。昭和11年と13年に訪れている。それについては、「南方文化の探究」(講談社学術文庫、1999年)に載っている。当時、戸数23、人口153、小学校児童23人であった。そういえば、今年、小学校児童がゼロとなり、休校となったそうだが。隆起珊瑚礁の島ではなく第三紀層の島と書いている。宮古諸島では珍しい。
小生、10年ほど前に、宮古島をバイクで走ったことがある。池間島のほうへ走っているとき、大神島がみえた。不思議な感覚にとらわれた。すり鉢を伏せたといおうか、円錐に近い形をした高い島だったから。狩俣というところから定期に渡船が出ているようだったが、渡ってみようとは思わなかったことを覚えている。その時は、大神島のことはまったく知っていなかった。
河村は神山(拝所や籠屋がある神聖なところ)を隈無く探検して写真を撮っている。帰京後、島に疫病が流行り、神司も倒れたと知り、神罰だという噂が流れた。その2年後、島を再訪している。上陸を許可してくれないかと予想して行ったそうだ。だが、その前年、海賊キッドの3.5億円財宝騒動で、宮古の旅館の女主人が神山の洞窟を掘り返していた。そのことに河村が同情を寄せたので名誉回復となったというのである。しかし、神事については聴き取ることはできなかった。

民俗学者の谷川健一が「女の風土記」(読売新聞社、1975年)のなかで「大神島の老女」というエッセイを書いている。1972年に中日新聞に連載したものだ。大神島に渡るのに二度失敗し、三度目に成功したそうだ。サバニが使われていたので天候に左右された。数年前に訪れたと書かれているから1960年代だろうか。外来者が神事について聞くこと、御嶽に足を踏み入れることは厳重なタブーであると言っている。島の老女の家に泊まり、島を歩いている。彼も島の人から警戒された。島がススキにおおわれていること、十六夜の月のこと、サバニで宮古に渡るとき航海安全の歌を老女がずっと歌っていたことなど。彼は、3年間隔をおいて2度訪れている。
谷川健一は、宮古とつながりが深くなっていくから、その後も訪れていると想像できる。

「琉球の文化~特集・琉球の焼物」という雑誌を持っている。1972年に琉球文化社から発行された創刊号である。そのなかで星雅彦という作家が「大神島探訪記」を載せている。1971年の12月に訪れている。名を検索してみれば詩人でもあるようだ。詩集を出している。
宮古の平良市の歯科医に便宜をはかってもらったので警戒されながらも島に渡れた。ここでもサバニで猫背の老婆といっしょになり、波を被ってびしょぬれになった。
当時の島は23軒、人口165人。昭和11年と比べると、戸数は同じで人口は微増というところ。の略図まで載っていてわかりやすい。23軒の民家は、船着き場から中央の神山の麓までのなだらかな一本の坂道に、ほとんど寄り添うように集まっていると表現している。セメントを流し込んだだけの簡易舗装道路、民家はそろって二間か三間の平屋、その外壁はブロック、屋根は粗雑なセメント瓦、美的なデザインや優雅さを無視した間に合わせの現代的なもののを貧しさをずばり示しているとも。
小学校の女教師に民宿できる家を世話してもらい、老婆一人の家に泊まっている。部屋にはなにもなく、台所の土間には黒ずんだ石が3個あるだけのカマドがあるというような質素さ。着替えをすませて、1時間もして老婆がお茶を運んできてくれた。茶菓子は、黒砂糖と南京豆。さすが老婆の島で、老婆ばかり登場する。寺山修司のいうとおりである。
星雅彦は、かつて旅行者から大神島についてある話を聞かされていたそうだ。島の頂上に登るつもりでどんどん歩いていったが、また元へ戻ってしまい、カフカの「城」を思わせるように辿り着けなかったと。寺山修司は、この話をパクったのかもしれない。星雅彦は、神山の頂上遠見原に辿り着いた。同宿することになった大学院で動物学を専攻している学生と一緒に登ったという。遠見原には巨大な隕石のような岩が突き刺さったようにポツンとあるというのも神秘的だ。
島での生活のこと、海賊伝説のこともよく書かれており、興味深い紀行文である。
最後は「(未完)」で終わっている。続編があるのか。

琉球王府の支配の時代、大神島は米を栽培できないので人頭税を免除されていた。そのかわり、褐色の着物を着けさせられて差別されていたという。
今も、近づきがたい島なのだろうか。

追加:
検索したら大神島は観光化されつつあることがわかった。
直近の選挙権者が41人だから人口50人程度か。
船便は、狩俣の南の島尻港から1日4便ほどあるようだ。大神島の海運会社が就航している。島の良い収入になる。
大神港から一本坂道を上っていくと標高75メートルの遠見台に10分程度で到着できるそうだ。急なところに木造の階段ができている。頂上には展望台のようなものも整備されている。
島には売店が一つ。予約しておけば島の料理も食べさせてくれるようだ。
島に船が着けば、ゴルフカートのようなもので島民は家路につくという。写真を見ると新築のきれいな民家が増えている。
島の祭祀は行われているのだろうか。
島は、もうすっかり変わったようだ。

(5月12日)

読書録「ナツコ」

2006年05月06日 | Weblog
今年の大宅壮一ノンフィクション賞受賞作品「ナツコ 沖縄密貿易の女王」(奥野修司、文藝春秋、2005年発行)を読む。ずっと前、どこかで目にしたことがあったが、読むこともなく忘れていた。つい最近、ノンフィクション賞を受賞していることを知り、読む気になった本である。
 作家池上永一氏による書評:http://www.bunshun.co.jp/yonda/onnakaizoku/onnakaizoku.htm

著者の構想・取材が12年間も要しており、400ページ近くの圧巻の力作である。戦後の沖縄において、密貿易で活躍したひとりの女傑を追うことで当時の政治・社会情勢を具体的に明らかにして、ひとつの現代史を面白く提供してくれる。彼女の名は金城夏子、小柄な美女で、密貿易の頭目として、情報の蒐集や仕事の段取りを自ら行い、男たちを顎で使って差配した。1954年に38歳という年齢で亡くなり、人々の記憶にはまだ残っているが、彼女については記録に残されていないので、半世紀も経っており、忘れ去れようとしていた。著者が、ナツコの痕跡のある土地をすべて訪れ、多くの人々から取材することで彼女の記録をまとめ、併せてその時代背景を教えてくれるのだ。

なぜ密貿易かというと、沖縄を支配下に置いた米国が、対外貿易を禁止したからである。海外はおろか、本土、群島間においても禁止したのだ。物資が潤沢なら交易は必要ないのだが、枯渇していたのでせざるを得なかった。だからあまり罪の意識はなかったようだ。当時の船舶は漁船を改造したポンコツなので、台湾や香港に航海に出るのはとても危険で命懸けだった。
密貿易を行うにも資金はほとんどないのだから、米軍のスクラップや薬夾、オイル、布、タイヤ、タバコなどの盗品、いわゆる戦果を運び、食糧や日用雑貨とバーター取引をするのである。ひとつの取引で持っていったものが数十倍の金額にもなるのだ。最初、中継地は与那国島の久部良港だった。ここは台湾に近く、台湾経済圏だった。密貿易で栄え、最盛時には人口2万人になり、料亭が何軒もあったというが、今、島を訪れてもその当時の繁栄の痕跡は見られない。取り締まりが厳しくなり、台湾ルートから香港ルートに移って与那国の夢のような繁栄は終わった。

密貿易の時代は1946年から1951年までだった。民間貿易の規制がなくなり消滅したのだ。ナツコは、なぜその時代に活躍できたのだろうか。別に事業家の家に生まれたわけではない。結婚してフィリピンに渡り、市場で魚を売り、株式売買もやるなかで、起業精神が養われたのだろうか。
ナツコは最後に幸陽商事という会社をつくるのだが、彼女の儲けたお金は、様々な人に投資したり、貸したりしているのでそれほど財産は残していない。ふたりの娘を育てている。政治家の瀬長亀次郎にも多額の政治資金を提供したというから面白い。民主主義の国アメリカが沖縄に対していかに非民主的にやってきたかも教えてくれる。

ナツコの波乱の人生。徳之島で生まれ育ち、糸満、フィリピン、石垣島、台湾、那覇へと生活の根拠地を移す。ナツコを追っていけば、ひとつの現代史が鮮明になってくる。この著作、登場人物も多く、場所もあちこち変わり、時も前後に飛んで書かれているので、少し読んでいて分からなくなってしまうこともあるが、全体的に内容をつかめればいいかと思う。久しぶりの読み応えのするノンフィクションだった。