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著者が2000年に琉球大学へ赴任したとき、ベテラン教授から次のように言われたと序章に書かれている。「あんたはヤマトの人間だから、あんたには沖縄のことはわからんさ。私は沖縄に生まれ育って、沖縄のことずっと知ってわかってるよ。だからあんたは、沖縄のこと研究せん方がいいよ」と。ヤマトの人間に対する敵意か、はたまた思い込みか。ある種のコンプレックスかもしれない。著者は、その3年後、「沖縄イメージの誕生」という論文で博士号を取得している。そのベテラン教授、苦々しい思いをしたのではなかろうか。
小生の経験だが10年ほど前、那覇の居酒屋でひとりカウンター席に座り、泡盛を飲んでいた。隣に初老の男が座っていた。法務省の管理職にある人だった。当たり障りのない雑談をしていたのだが、突然、「沖縄の人は心と心の付き合いができるが、内地の人はモノとモノの付き合いしかできない」と言い出した。これも敵意か思い込みか。小生は聞き流していたが今もはっきり覚えている。
この著書を読書録としてまとめるのは難しい。印象に残ったところを書き留めておきたい。
戦前の沖縄観光として昭和12年の沖縄パックツアーの資料の発掘はすばらしい。異国情緒のある沖縄のどこを観光したか具体的に書かれている。
戦前の南島ブームの火付け役は柳田國男だが、昭和15年に柳宗悦が率いた民藝協会一行が来沖したときの方言論争の経緯が詳しく興味深い。それは観光をテーマにした座談会の席で起こっている。
それから沖縄を訪れた知識人・文化人の旅の案内役を務めた島袋源一郎という教育者に焦点をあてているのも面白い。島袋に対する歴史学者高良倉吉の批判もあげられている。
戦後初の沖縄訪問団は、昭和34年に日本政府が沖縄渡航制限を緩和した翌年だった。沖縄戦没者の慰霊という名目で86名が空路で来沖した。これが以後の沖縄観光に大きな影響を与え、沖縄病患者が増えていく。
1975年の沖縄海洋博がその後の沖縄イメージ創生の原点になった。「戦争」「基地」と「青い海」「観光リゾート」の二重のリアリティ創出。復帰後の沖縄観光には、やはり電通が関わっている。観光の基本テーマを歴史に求めた。戦争イメージはその中に吸収された。加えて演出したいイメージにあわせて新たに沖縄を構築していく。さすがに電通は巧みである。後の県政不況で知事を替えたのも電通だった。電通のノウハウを改めて知りたくなった。
沖縄料理が本土に受け入れられた理由もわかりやすく教えてくれる。
八重山のフィールド調査では、ヒアリング調査に協力した人の名前をあげ、調査の結果を還元している。フィールド調査を行った研究者の鑑である。
このあたりで止めておこう。
けっこう沖縄について知っているつもりでいたが知らない面を気づかせてくれる本でもある。