ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

アルハンブラ宮殿

2005年04月22日 | Weblog
昨夜の世界遺産のNHK番組をビデオに録画しておいた。レポーターは女優の水沢蛍だった。レポート内容そのものよりも、表現が感性に基づいているようで好感がもてる。
小生、アルハンブラ宮殿には二度行っている。二度目はグラナダに数日滞在したので正確にはもっと訪れている。レポーターがバスで宮殿への狭い坂道を上っていた。懐かしい。あの通りに面した安宿に泊まったことがあるからだ。20年くらい前だけどあまり変わっていない。

グラナダの語源は「柘榴(ざくろ)」、アルハンブラは「赤い城」というのは覚えていた。
イスラムの宮殿は14世紀に完成したが、15世紀には、カトリック勢力によって奪われている。レポーターが見所をインタビューで聞き出して分かりやすく教えてくれる。天井の星、中庭の池に映った建物の見方、細い大理石柱の意味、壁のアラベスク模様など。

興味深かったのは、宮殿の噴水などに使われた水の源と宮殿修復の技術者の登場である。
水源を研究者と訪ねていたが、シエラ・ネバダ山脈の雪山から流れるダロ川の水を引き込み貯水池を造っていた。そこから6㎞離れた高度差20㍍のアルハンブラの丘に水道橋も造って流していたのである。元は砂漠の民だったので灌漑技術は高かったのであろう。今は使われていない。

修復のほうは、天井の鍾乳石飾りをつくる職人さんとタイル技術者さんを訪ねていた。
鍾乳石飾りは7種類のパーツを型に石膏を流し込んでつくっていた。これらを組み合わせて鍾乳石飾りをつくる様子が面白かった。タイルのほうは、オリジナルのタイルをなるべく残して修復することを強調していた。オリジナルのほうが繊細で質がいいとか。

25年くらい前に読んだアービング著の「アルハンブラ物語」(講談社文庫)を書棚から出してみた。1829年にアメリカ人アービングが宮殿に数ヶ月泊まり込み、図書館で資料を調べたり、土地の人々から話を聞いたことを書き綴ったものである。ムーア人たちの王国の言い伝えがメインである。
アービングは最後に「地上で最も美しいアルハンブラ。その想い出を抱いて私は去って行くのだ」と書いている。
「アルハンブラ宮殿の想い出」の曲が流れていたが名曲だ。

バーミアン大仏の破壊

2005年04月20日 | Weblog
最近、テレビや新聞でアフガンの情勢がほとんど報道されることがなくなった。
この前、大宅壮一ノンフィクション賞を「大仏破壊」(高木徹、文藝春秋)が受賞したことを知り、読んでみた。その著作の副題は「バーミアン遺跡はなぜ破壊されたのか」である。著者はNHKのディレクターであり、テレビ番組のNHKスペシャルで同じテーマを担当していた。

読み進んでいくと、とても面白い。タリバンの台頭、タリバンとアルカイダの関係、大仏破壊までの経緯が様々の登場人物のインタビューなどから明らかにされる。
備忘録として、特に記憶に残したいところを書いておきたい。

(バーミアン大仏切手1985年)
タリバンとは「神学生」のことである。アフガンの古都カンダハル郊外のイスラム神学校の管理人だったオマルを中心としたグループである。
ソ連勢力を追い出した後、アフガンは国際社会から見捨てられ、軍閥の戦いで秩序は乱れていた。そういうときに、タリバンが山賊退治で台頭してきたのである。本来は世が治まれば神学校に戻るつもりだったが、イスラム法学者たちに認知され、政権をとることになった。

そこに、行き場を失ったビンラディンがアフガンにやってきて匿われた。ところが、ビンラディンが資金と軍事力をタリバンに提供することで関係は逆転してしまい、タリバン政権はビンラディンの傀儡政権に成り下がった。
タリバンは勧善懲悪省を設け、イスラムの教えに基づき風紀を締め付けていた。カブール博物館が再開されることで仏像の展示がきっかけになり、勧善懲悪省による仏像破壊につながっていく。イスラムでは偶像崇拝は禁じられていた。
大仏破壊を防ぐために国連、各国大使、NPOなどが動いて交渉する様子も詳しく書かれている。

ビンラディンは大仏破壊に直接かかわった。バーミヤンへやってきて爆破準備の指導をしているのだ。彼は、欧米の異教徒たちが守ろうとする遺跡を破壊することで彼らに挑戦したのだ。また、大仏破壊の映像を海外のイスラム教徒をアルカイダに参加させるPR戦略にも利用した。彼は事業者としても成功してきており、企画力、組織力、実行力、統率力など優れていた。

大仏破壊は、半年後の「9.11の同時テロ」につながっていく。
大仏破壊のキーワードは、タリバン、勧善懲悪省、カブール博物館、ビンラディンである。

南島について

2005年04月12日 | Weblog
図書館の新着コーナーで「明治の冒険科学者たち~新天地・台湾にかけた夢」という新潮新書をみつけた。手にとって見れば、沖縄研究に貢献した田代安定についても書かれているので借りてしまった。

明治の南島研究黎明期に沖縄に関心をもって訪れた人に北国の人が多かった。「南島探験」の笹森儀助と「琉球の研究」の加藤三吾は青森県出身、人頭税廃止の運動をした中村十作と「おもろさうし」研究の田島利三郎は新潟県出身、石垣島で気象観測に一生をささげた岩崎卓爾は宮城県出身であった。

(右端が岩崎卓爾、その隣が田代安定 1906年石垣島)
彼らに先駆けて沖縄を訪れ踏査したのが鹿児島出身の田代安定であった。
鹿児島市加治屋町に偉人館があり、加治屋町出身の西郷隆盛、東郷平八郎、大久保利通と錚々たる16人の英雄たちが展示されており、田代安定もそのなかに含まれている。しかし、田代安定についてはあまり知られておらず、伝記も書かれていない。
田代安定は沖縄に4度訪れている。最初は明治15年にキニーネ栽培研究で、2度目は明治18年に八重山で測量を含む踏査を1年かけて行っている。3度目は明治19年に宮古・八重山で民俗学的調査、4度目は明治39年に植民地台湾から八重山に突然訪れ岩崎卓爾に会っている。

彼は不遇であった。先島調査により、殖産政策を立案したが取り上げられなかった。明治28年に植民地になった台湾に渡り、台湾最南端の恒春で熱帯植物園をつくり台湾で30年も執務することになった。現在も植物園は一般公開され観光スポットになっているそうだ。
田代安定は若い頃、ロシアに植物学研究で留学しており、南洋群島の調査でも貴重な調査報告書を残している。
笹森儀助は南島探験する前に、東京で田代安定に会ってアドバイスを受けたり資料を提供してもらっている。そこで笹森儀助は人頭税問題にも関心を示したようだ。笹森儀助は、その後、大陸の調査も行い、奄美の島司にもなり、最後は青森市長まで上りつめた。
明治19年の調査では、偶然、西表炭坑の視察で八重山を訪れた三井財閥の創設者益田孝を案内もしている。
田代安定の名で出版されている書籍は東京大学の人類学教室の倉庫で眠っていた標本の中からまとめられた「沖縄結縄考」のみである。

「南島」というのは短い語だけど、ノスタルジックで趣がある。琉球列島のことである。

田代安定に関する文献:
「南島研究の歳月」:野口武徳、東海大学出版会、1980年
「伝統と現代第25号」:三木健による論説、昭和49年
「八重山写真帖」:石垣市、2001年

NHKテレビ番組ふたつ

2005年04月08日 | Weblog
4月6日のNHK番組「その時歴史が動いた」のテーマは元寇だった。
二度の元帝国による日本侵略。中国側の文献から新しい視点で元寇を検討してみようとしていた。

13世紀後半、元は世界帝国をめざし版図を拡げていたが漢民族の南宋が南部でまだ抵抗していた。南の地は水軍が強くて征服できていなかったのだ。
そこで元のクビライは鎌倉政権に使者を送り、日本と対等同盟を結び、南宋を攻めようとした意図があったのではないかという新説を松平アナが視聴者に訴えていた。北条の相談役が南宋出身の僧侶だったので、それに影響されクビライの国書に応えなかったという。

最初の「文永の役」は、元軍が優勢だったが、急に帰ってしまった。これは、元軍の力を見せつけるための侵略だったからだと理由づけていた。季節風の関係で早く帰らなければならなかったという説もあるので謎である。

二度目が弘安の役。これは明らかに侵略して日本を植民地にしようとしていたらしい。農民や農機具まで運んで来ていたのだ。これは、例の神風で元軍の敗退。

後、元はベトナムやインドネシア方面へも遠征しているが失敗した。やはり海には弱かったようだ。

堺屋太一さんがコメントしていたが、「このとき、グローバリズムをもって鎌倉幕府が世界に出ていっておれば」なんて言っていたが意味不明。島国根性の良さもあるんだが。


NHKが「世界遺産シリーズ」を先週から放映を始めた。初回がナスカ地上絵、二回目がアンコール・ワットだった。このシリーズ、TBSが先駆けて定着させてきたので、TBSが抗議した曰く付きのもの。NHK側は切り口が違うものだからといって始めた。

TBSのは内容よりも映像のきれいさに力を注いでいる。NHKのは女子アナに現地を訪れさせ、現地の学者なども登場させ、遺跡の成り立ちや目的を明らかにさせていく。
ナスカでは、地上絵の描き方を実演したり、つくった目的を学者に述べさせていた。NHKとしては、雨乞い説をとっていた。
アンコール・ワットでは、女子アナに傾斜60度の石段を上らせるシーンをとっていた。この石段でもそうだが、ナスカでも井戸横穴水路をくぐる女子アナのヒップのアップを撮っていて気になった。サービスかな。

アンコール・ワットの石造建築は空積み工法が使われている。石面を砥石で滑らかに削り、中央部に窪みをわざとつくる。石の周辺部に圧力が集中するのでしっかり石が隙間なくくっつくという。
このアンコール・ワットはヒンズー教寺院だった。江戸初期、日本人も訪れ落書きしている。祇園精舎と見なしていたが。
今も日本の学者が指導して修築している。
この番組、あまり録画したいとは思わない。

ブログ流行り

2005年04月05日 | Weblog
ヤフーがブログサービスを始めて約二ヶ月で登録数が10万件を超えたという。他にブログは、このグーグル、はてな、ココログ、ライブドアなどがある。世はブログが流行っているのである。あとブログではないが、「さるさる日記」というサービスは長いが登録数は14万件を超えている程度だ。

ブログも書き手によっていろいろあり、メモ替わり程度のものから、立派な意見を主張しているものまである。
佳いブログとはどんなものかというと、書き手の好奇心が強く、得意分野をもっており、毎日いろんな話題や考えを提供してくれるものである。そのようなブログはなかなか少ない。いつもアクセスしているのは、作家の大石英司氏のブログである。
http://eiji.txt-nifty.com/diary/
けっこう時間をかけてネタを探しておられるようだ。彼の意見に賛成できないものもあるが興味深い情報と考えを提供してくれて有り難い。
他に、中国や韓国が反日ナショナリズムが盛り上がってきているので、それに対する憂国系ないし右系統のブログも面白い。
http://blog.goo.ne.jp/takkie0516/
今ちょうど、「支那」というのは差別用語かそうでないかという話題が書かれている。

両ブログとも、コメントを書く人も多いので、それを読むのも面白い。
ブログというのは、このコメントとトラックバックに特徴がある。
これからブログ全盛の時代を迎えることであろう。
佳いブログを見つけて行きたい。