ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

今年の国体はどこだろう

2007年08月21日 | Weblog
国体(国民体育大会)の影が薄くなってしまった。マスコミの報道もないほど関心がなくされてしまっている。確か、昨年は岡山県で開催された記憶がある。
小生は40数年前の岡山国体に参加したことがある。参加といっても開会式のときの鼓笛隊の笛吹きである。小学校の6年生だったのかな。あのときは、よく縦笛の練習をさせられた。小生、目的を理解してなかったと思う。ただ、強制的にやらされていた。課題曲が3曲あって、1曲合格する毎に笛の下端にカラーの布帯を巻いてもらっていた。不器用だったので人よりも余計にかかった気がする。あの時の岡山市内の小学6年生か5年生は総動員だったのだ。
国体の目的は考えたことはなかったが、スポーツの振興とナショナリズムの高揚だろうな。日本国籍がない人は参加できなかった。高校野球で静岡の高校に新浦(にうら)という投手がいた。甲子園に出場したが国体には参加できなかったことで少し問題になった記憶がある。彼は、その後、ジャイアンツに入団し、韓国プロ野球でも活躍した。今はどうしているのだろうか。もう国体は一定の役割を終えたのだろうな。

つい最近、「国民体育大会の研究--ナショナリズムとスポーツ・イベント」(権学俊、青木書店、2006年)という著書を読んだ。国体のあらゆる側面を総合的に研究した力作である。
国体の歴史をつぎの四つに分けている。
第一期「民族再建・戦後復興と国体」
1946年第1回京都国体から1954年第9回北海道国体までの期間で、「天皇」「日の丸」「君が代」を通して国民国家の再建に国体を利用した時期であるという。
第二期「国体の形成と確立期」
1955年第10回神奈川国体から1965年第20回岐阜国体までの期間で、国体は高度経済成長の地域開発政策に編入され盛大になった。開催県は「勝つための国体選手強化策」を強力に展開。開催県が天皇杯を獲得するパターンができあがる。また、自衛隊の協力、県民総動員体制、学生動員による教育破壊など諸弊害があった。
第三期「国体に対する反発と抵抗期」
1966年第21回大分国体から1977年第32回青森国体までの期間で、公害が社会的に深刻な問題になり、民主的スポーツ運動が展開し、成長した国体に対する反対運動も高揚した時期であった。
第四期「国体の衰弱期・虚構期」
1978年第33回長野国体から現在までの期間で、国体はマスメディアの発展と他のスポーツの人気によって国民から遠くなり、国体廃止論まであらわれるようになった。

最後の章の「沖縄海邦国体の政治性と仕組み」が興味深い。
1987年沖縄県の海邦国体は全国一巡の締めくくりの大会で沖縄復帰15周年を記念する大会でもあった。沖縄は日本国内では他と違った歴史をもち、国体につきものの「天皇」「日の丸」「君が代」「自衛隊」に対して強い拒否感があった。元来は非政治的なスポーツ・イベントがスポーツ祭典以上の意味合いをもった。
当時の西銘沖縄県知事は県議会で「天皇来沖を希望する」と発言し、昭和天皇の沖縄国体出席の計画は立てられたが病気のため断念された。その名代に皇太子を訪沖させたが糸満の姫百合で火炎瓶を投げられるという事件も起こった。「日の丸」「君が代」も押し付けられ、読谷村では知花昌一氏による「日の丸」焼き捨て事件も起こった。この「日の丸」焼き捨て事件はテレビ映像でみて記憶に残っている。皇族来沖で警備体制は過剰で、警察と一体の「地区協力会」が組織され、県民11万人が動員され問題になった。
海邦国体で沖縄は総合優勝した。沖縄のジャーナリズムも国体の成功を宣言し、多くの人々が成功だったと評価した。著者は「沖縄国体は、県民全体への日の丸、君が代の押し付け、相互監視・警備体制のもとでの協力体制への強要、地方財政の悪化などをもたらした、まさに巨大な虚構のショーだった」と述べている。著者は韓国の学者である。

「三味線放浪記」を読む

2007年08月14日 | Weblog
「三味線放浪記」(山入端つる、校閲:東恩納寛惇 ニライ社 1996年)。
ずっと前から探していたが、やっと手に入れることができた。おそらく地方の出版社の初版のみの発行なので、部数が少ないのであろう。
三味線弾きと歴史学者のコラボといおうか、取り合わせに少し違和感のようなものがあったが、これを読めば納得できる。この著作、東恩納寛惇がツルから聞き書きしてツルの半生を描いたものである。したがって東恩納寛惇の著作である。

ツルは1906年(明治39年)に沖縄県の名護屋部の貧農の家庭に生まれる。三人兄弟三人姉妹の末っ子である。父親が早く亡くなったので貧乏に拍車をかける。兄の出稼ぎ費用を工面するのにツルは13歳で辻遊郭に売られる。そこからツルの放浪記が始まる。
6年で年季が明け、宮古島→和歌山→大阪→奄美大島→沖縄→東京→千葉→東京→沖縄(1974年)と生活の場を変えて行く。
パナマ帽や石炭工場などでも働くが、芸が身を助け琉球舞踊の地方(じかた)として生計を得ることができた。東京の空襲で焼き出され、千葉に疎開して農業も行っている。兄弟の子どもたちも育てている。
戦後、日本舞踊の西川緑への協力、関東での沖縄芸能の普及に貢献した。新橋に琉球料理の店も出した。その店が沖縄出身者のオアシスにもなった。そこに東恩納寛惇も足繁く通い、恋仲になった。70歳代の東恩納寛惇にとっては老いらくの恋。ふたりで沖縄に引き揚げて一緒に住むことになっていたが、寛惇の死によって実現できなかった。

近代沖縄女性史の一側面を描いているが、沖縄ではツルのような半生をおくった女性はけっして珍しくない。ナツコナミイもそうである。
上野英信の「眉屋私記」は、この本を横糸にして書かれたものである。

KYの人々

2007年08月09日 | Weblog
先月のNHKテレビ番組「視点論点」で「KY」について論じていた。KYとは「空気の読めない人」の略である。「空気の読めない人」は去年あたりからネットでよく目にしていたが、いつのまにかKYになっていた。若者ことばである。集団の中で場違いな言動を行う人のことである。その言動によって周囲の人が違和感を持ってしまうことになる。番組ではKYを受け容れなくなった社会に問題があると学者らしき人が述べていた。その場や言動の内容によると思うが。「空気感」という語も最近よく使われている。テレビ局の女子アナが「空気感をつくる」とか、若い学者でも「空気感がある」とか。なんとなく無機質な語で嫌いである。これは雰囲気という情緒的な語があるではないか。

今の政界でKYというと、やはり参院選で大敗北した安倍首相になるかな。バンソウコウ農水相もそうだったが。安倍首相は人心一新で改革に努める意向を示しているが、自民党内部から退陣を求められている。安倍首相こそ一新されるべきだろう。首相の器ではないと思っていたが、地位が人をつくるということもなかった。
スポーツ界では、急性ストレス障害を患った朝青龍がKYである。巡業の休場届を出して、母国モンゴルに帰国して中田ヒデらとサッカーに興じていたのである。その休場の理由が腰の疲労骨折と肘のじん帯負傷だった。まるで仮病のようであった。横綱にはあるまじき前代未聞の行動であった。制裁は二場所休場、4ヶ月減給、4ヶ月謹慎となった。ほぼ引退勧告に等しいものだという。横綱は心技体が優れていないと務まらない。モンゴルに帰って治療に専念すればいい。もちろん相撲界を引退してから。
赤と白の縞模様の家を新築中の楳図かずおもKYかな。まだらの家を見てストレスを受ける住民もいるのである。周囲の住民が建築差し止めで裁判所に調停を求めている。
KYの企業も多いが、今の世の中、KYで溢れている。小生も時々、KYになる。