ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

読書録「思い出の昭南博物館」

2009年10月31日 | Weblog
5年前に読んだこの本は忘れがたい。読書日記から転載しておきたい。
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■2004/05/19 (水) シンガポール
「思い出の昭南博物館」:E・J・H・コーナー、中公新書

昭和17年2月、日本軍は英国の植民地シンガポールを攻略し、英国軍は降伏した。
山下将軍がパーシバル将軍に無条件降伏をイエスかノーかで迫ったのは有名な話。
日本軍がシンガポールを日本名で昭南島と変えたので、ラッフルズ博物館も昭南博物館と呼ばれた。

コーナー氏は、戦前から英国の植物学者としてシンガポールの博物館や植物園に関係して仕事をしていた。日本軍の占領で、それまで蓄積してきた文化財の破壊を危惧していた。
そういう状態の時、日本から地質学者の田中館教授がやってきて、文化財の保護に積極的な行動をする。英国の学者もコーナー氏を含めて協力して占領時代に文化財を守ったのである。この著作はそのような話のドキュメントである。

読み進めていくと時系列的に書かれていなくて、しばしば前後するので、時間の長さが掴めないところがある。でも、占領当時の記録としてとても興味深い。彼らの働きがなければ文化財は略奪されたり、破壊されたであろう。

田中館教授は経歴詐称していたり、はったりを効かしたりする憎めないユニークな人物。荒俣宏の「奇っ怪な人物」のなかでも紹介されている。インドネシアからオランダ人を駆逐するためにブラジルの日本人移民と入れ替えるというアイデアを考えた人。
田中館教授も役目を果たし、彼のあとは、徳川義親侯爵に引き継がれたのであるが。
コーナー氏はずっと親日的であり、昭和41年に来日し、当時の関係者と旧交を温めている。

この著作に触発されて戸川幸夫が「昭南島物語」という小説を書いている。ぜひ、読んでみたいと思っている。
小生、20年前にシンガポールに行ったことがある。博物館にも植物園にも訪れた。でも、ほとんど忘却してしまった。

この「思い出の昭南博物館」は昭和57年に発行され、絶版になり、なかなか手に入りにくい。
小生は、今年2月、那覇の古書店で偶然出会った。ずっと探していた本だった。
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一昨日の図書館本
○「薩摩藩士朝鮮漂流日記」(池内敏、講談社選書メチエ、2009年)
離島(沖永良部島)勤務から本国への帰途、薩摩藩士安田義方ら一行は遭難し、朝鮮に漂着する。安田は、朝鮮王朝の地方官僚らと漢文の筆談によって、現地での待遇と送還について折衝しながら、一方で、酒を酌み交わし、詩文を贈りあい、交流を深めていく。安田が遺した詳細な記録と巧みな挿図から、朝鮮通信使の儀礼的な通交とはまったく違った近世日朝交流のすがたが見えてくる。

小生、漂流関連本をコレクションしているが、これもぜひ、そのひとつにしたい。

○「海岸線の歴史」(松本健一、ミシマ社、2009年)
日本のアイデンティティは、「海岸線」にあり。「海やまのあひだ」はどのような変化をしてきたのか?「日本人の生きるかたち」を根底から問い直す。

海岸線は歴史とともに変わってきた。著者はいいところに目をつけた。

○「沖縄 琉球王国ぶらぶらぁ散歩」(おおきゆうこう・田名真之、新潮社、2009年)
珊瑚礁の海辺を舞台に語り継がれた不思議な伝説、世界遺産の壮大な遺跡、祈りの文化が今も宿る風景―史実と神話が織り交ざる島の歴史の跡を訪ねる旅へ。創世神話から琉球王朝の崩壊まで知られざる歴史の跡を写真で辿る。

おおきゆうこう氏の名所旧跡写真がすばらしい。こんな写真を撮ってみたい。

平成の毒婦か

2009年10月30日 | Weblog
日本の毒婦といえば、「夜嵐お絹」「高橋お伝」「八百屋お七」「阿部定」が有名だが、今回の連続結婚詐欺・殺人事件の罪深き女は、これらに名を連ねるどころかスーパー毒婦として歴史に残ることであろう。

彼女は6年前にネットオークション詐欺で捕まったことがあるが、2年前ぐらいから、結婚サイトを利用して犯罪に身を染めて行ったようだ。彼女を知る人々は、太目の女だと印象を述べているだけで、美人というのを一度も聞かれなかった。スポーツ新聞に曝された学生時代の写真をみると、とても可愛いとかきれいだとかお世辞にも言えない。この毒婦が何人もの結婚願望の男を手玉に取るとは信じられないだろう。容姿に関係ないところで、何か魅力を持っていたのだろうか。返って、ブスだから男たちは何の疑いもなく、お金を毟り取られたのかもしれない。

最後の被害者のプラモデルの得意だった大出さんの死は哀れだ。ブログに女と2泊3日の婚前旅行に行くことが楽しそうに書かれているのだ。その夜、女は、自宅のマンションで手作りのビーフシチューで大出さんをもてなし、酒と睡眠導入剤を飲ませて、レンタカーで大出さんの死出の旅立ちに出た。大出さんは車に乗るときは相当、眠くなっていたので後部座席に乗せられたことだろう。大出さんにとって最後の晩餐だったとは露程も思わなかっただろう。幸せの甘い結婚生活を夢見ていたのかもしれない。
女は犯行に都合よい場所をみつけ、持ってきた七輪の練炭に火をつけて去るだけでよかった。どんな顔をして立ち去ったのだろう。おそらく次の鴨の料理方法でも想像して、ニヤリとしていたのかな。9月になってからでも病院で睡眠導入剤を処方してもらっていたのだから。まさに平成の毒婦である。

分かっているだけで女は1億円ほどの金を手にしながら、預金はほとんどなかったという。悪銭身につかずとはよくいったものである。

ミステリー

2009年10月27日 | Weblog
浅見光彦シリーズの「鞆の浦殺人事件」を読んだが、内田康夫の作品の中では、駄作といおうか、手抜き作品だった。鞆町の古い街並みの描写を期待したが、これもない。陸から目と鼻の先にある仙酔島についてはけっこうあったが。鞆の浦の歴史の触りとして「足利義昭が織田信長に追われ、毛利を頼ってきて、この地に鞆幕府と呼ばれる足利最後の拠点を樹てたといわれる」という記述があった。
事件の原因は、N鉄鋼株式会社(日本鋼管がモデル)の福山製鉄所の建設当時のできごとと現在の社内の常務と専務の出世争いによるものというのだが殺人の動機としては弱い。

つい先日、松戸市で美人女子大生殺人事件が起きたところである。いまのところ容疑者は上がっておらず、不可解だらけである。ぜひ浅見光彦探偵に登場してもらいたいものだ。
新聞の初期の記事としては
「千葉県松戸市のマンション一室で今月22日、この部屋に住む千葉大園芸学部4年、荻野友花里さん(21)の遺体が見つかった火災で、荻野さんの首と胸に刃物によるものとみられる傷があったことが24日、県警捜査1課の調べで分かった。県警は荻野さんが何者かに殺害され、その後部屋を放火されたとみて同日、松戸署に捜査本部を設置した。26日にも司法解剖して詳しい死因を調べる」とある。

事件発生前後の経緯は次のようになっている。

○10月20日 千葉市内にある友人の女子学生宅を訪問。「明日は授業がある」と話す。午後11時ごろ この女子学生宅で女子学生と就寝。

○21日昼ごろ 女子学生が起きると荻野さんの姿がなく、以後は電話やメールで連絡が取れなくなる

○22日 心配した女子学生が、荻野さんの様子を見に行くよう交際相手の会社員に依頼。
午後8時20分ごろ マンションに着いた会社員が荻野さんの部屋が燃えているのを発見し110番。
同9時ごろ 消防が鎮火し、焼け跡から荻野さんの遺体発見

これだけ読んだだけで不可解な点が複数気づく。
○荻野さんはなぜ黙って友人宅を去ったのか。(何か感情のもつれでも生じたのか)
○友人は半日も熟睡してしまっている。(睡眠薬でも飲んでいたのか)
○友人の交際相手が荻野さんのマンションに着いたときにタイミングよく部屋が燃えていた。
○友人の交際相手は119番でなく110番になぜ電話したのか。

被害者の解剖結果で明らかになったことは、胸の刺し傷は深さ11センチにも達するものがあり、死因は出血性ショックによるもの。煙は吸っていないので殺害後、火をつけたこと。手足に防御創がないこと。全裸で首にストッキングが巻かれていたこと。胃の内容物から食後3時間程度経っていたこと。

荻野さんはマットレスの上で見つかり、あおむけの状態で、遺体には布団がかけられていた。部屋のドアに4箇所のロックがあるが、2箇所ロックされていた。出窓やベランダの窓は開いていた。部屋で食事した形跡があった。凶器とみられる刃物は残されていなかった。遺体の近くにはライターが落ちていた。財布も残されていた。

これらの状況からして、犯人像は、強い殺意を持ったごく親しい男性が浮かぶであろう。荻野さんのアルバイト先は上野のキャバクラだそうだから、容疑者はその店の親しい客や関係者であることも予想される。
荻野さんが友人宅から消えて、その後の足取りは今のところ発表されていない。21日の大学の授業にも出席していなし、キャバクラにも出勤していないという。
いまのところ、ミステリーである。

琉球侵略400周年イベントが盛んだが

2009年10月25日 | Weblog
今年が1609年の薩摩藩による琉球王国侵略から400年ということで、沖縄、鹿児島を中心にイベントが数多く催されている。それらの開催記事をちらっと読むと、特に新しい知見が発表されるというものではなく、開催することに意義があるというようなお祭りか交流の類のようだ。けっしてそれが良くないと言っているのではなく、改めてあの侵略が何であったかを考える機会にもなり、それなりに意味があると思う。

ここで小生も、沖縄の高校の教科書「琉球・沖縄史」(沖縄県歴史教育研究会 新城俊昭)から侵略に至った経緯といおうか要因を時系列的にまとめてみたい。

もともと、大交易時代を築いていた琉球王国と島津氏は善隣友好関係にあった。しかしながら、堺や博多の商人が頻繁に琉球と交易するようになり、島津氏が琉球側に印判のない商船の貿易を認めないという要求をしてきた。島津氏の領海を通過するのにお金を寄こせというわけだ。琉球側はこの要求を受け入れず、両者の間に摩擦が生じてきていた。
島津氏は1441年室町幕府の将軍継承問題で足利義昭を日向に討ち、恩賞として将軍義教から琉球を与えられた。これは実体のない恩賞であったが、これを理由に島津氏は、琉球に対して強圧的な態度をとるようになった。

戦国時代になり、島津氏の九州制覇の野望は、1587年に豊臣秀吉の武力の前に敗れ去った。九州を支配下に置いた秀吉は、琉球にも入貢を強要した。日本国内と同様の扱いをするようになったのだ。1591年の朝鮮侵略の決定に際し、島津氏を介して琉球に軍役や夫役を命じてきた。
この朝鮮出兵要求に対し、島津氏が派兵に関して肩代わりして負担し、かわりに琉球に7千人の10カ月分の兵糧米の供出を命じた。しかし、琉球は明からの冊封使を迎える準備のため、この要求に応える財力はなかった。島津氏は、再三催促し、それにかわる条件として奄美大島の割譲を求めてきた。窮地に追い込まれた琉球は、兵糧米の供出の過半を調達して送る決定をしたが、それ以外の要求には応じなかったので島津氏の琉球侵攻の口実にもなった。

時代は江戸時代になった。徳川家康は、1602年に奥州に漂着した琉球船を島津氏を介して送還し、琉球国王に幕府への来聘を促した。家康は琉球を幕藩体制に入れて、明との貿易復活交渉に利用しようと考えていたのだ。琉球側はその意図を知り、応じなかった。1605年に平戸に漂着した琉球船を送還した際も同様な態度をとった。
一方、琉球来聘問題を任されていた島津氏は、相次ぐ戦乱で破綻した財政の再建という課題を抱えていた。この問題を解決するために企図されたのが大島出兵だった。幕府は、明との硬直した交渉を打開するため、1606年島津家久の琉球出兵の要求を受け入れたのだった。これが1609年の琉球侵攻となったのである。

島津氏は琉球王国に対して、最初は琉球船の通行税、次に軍役・夫役、兵糧米、奄美大島割譲、国王来聘と要求してきた。琉球がそれらに応じたとしても、同じ結果になったのではなかろうか。

そうだ、鞆の浦へ行こう

2009年10月20日 | Weblog
福山の鞆の浦へ行きたくなった。思えば、もう5年以上も物見遊山の旅に出ていない。岡山駅から山陽本線に乗れば約1時間で福山駅に着く。福山駅から鞆の浦までバスで約30分。朝遅く出発して、ゆっくりして夕方には帰ってこられる。片道運賃1500円程度で行ける。まだ一度も行ったことがないのである。
最近、鞆の浦は埋め立て・架橋計画の実施が裁判で差し止められて、現在、自治体側が控訴している。鞆の浦は歴史ある風光明媚な土地らしい。江戸時代の瀬戸内航路では舟の潮待ちの港として栄えたそうだ。朝鮮通信使も立ち寄ったところであり、資料館もあるそうだ。鞆の浦の海をしっかりみて、街を歩いてみたい。ポニョがいるかな。
内田康夫の浅見光彦シリーズの「鞆の浦殺人事件」をブックオフで買ってきているので、これで少し鞆の浦の情報を得ておこう。





鞆の浦の埋め立て・架橋計画図

「沈まぬ太陽」をみたい

2009年10月18日 | Weblog
今月の下旬から山崎豊子原作の映画「沈まぬ太陽」が一般公開される。ずっと前に図書館で借りて全巻読んでいる作品である。モデル企業は話題になっている日本航空であるから、ヒットする映画となろう。組合活動で経営陣と対立して懲罰人事を繰り返される主人公の恩地を渡辺謙が演じる。この小説は週刊誌に連載されているときから日本航空から抗議されていたというから映像化は難しいとされてきた。
山崎豊子はテレビに出ることもないので顔を知らない。検索したらやっと画像1枚がみつかった。1924年生まれで今年85歳という高齢。たしか今年も長編の外務省密約事件を描いた「運命の人」を出している。もう国民的作家といってよかろう。
久しぶりに映画館でみようか。




「沈まぬ太陽」相関図

ハブ空港やらアニソンやら

2009年10月18日 | Weblog
昨日は南から生暖かい風が吹いていて、自転車で走っていると汗ばんできた。それに金木犀の薫りが最盛期のようで頭痛がしていた。金木犀は苦手である。

税収が40兆円しかないのに、来年の予算の概算が95兆円とは大きな問題である。こんなときには、子ども手当てや高校授業料無料化などのバラマキ行政は抑えた方がよいだろう。民主政権は、税収が増えるよう、長期的な国家戦略的な計画を立てなければならないだろう。韓国の仁川に負けないようなハブ空港の整備を急げよ。大根役者だったモリケン知事など相手にするのは時間の無駄である。

先日の深夜、NHKがアニソンを放映していた。最初、アニソンとは何か知らなかった。アニメソングの略だったとは。この分野、フェアやのど自慢まであって熱狂的なファンがいるんだな。HIMEKAというカナダの美人歌手が上手な日本語で唄って活躍していることにも驚いた。アニソンは日本の固有な文化かもしれない。

続・平敷兼七写真集から

2009年10月17日 | Weblog
「山羊の肺」から人物写真もすばらしいので、3枚だけスキャンさせてもらった。

「鰹のさばき名人」(与那国 一九七〇)
筋肉質の引き締まった上半身と大きな包丁。陰影がすばらしく、芸術性の高い絵画のようでもある。


「の人たちが足のきれいなばあさんだと言っている」(今帰仁上運天 一九七一)
雑貨屋に買い物に来たばあさんが軒下の椅子で一休み。脚はまだ若い。


「町を掃除している老人」(浦添 一九八八)
アンガマの面のような顔のおじいさん。タオルをまるでマフラーのように。

「不毛地帯」始まる

2009年10月16日 | Weblog
昨夜から、フジテレビ系で連続ドラマ「不毛地帯」が始まった。2クールのドラマだから半年近く放映されることになる。山崎豊子原作の大作である。30年ぐらい前になるだろうか、仲代達矢主演で映画化されたのを映画館でみたことを覚えている。そのとき、小説も読んでいた。その後、続巻が出たのであるが、それは読んでいない。
このドラマの主役壹岐正のモデルは伊藤忠商事(ドラマでは近畿商事)の会長にもなった瀬島龍三である。実在の人物がいたからなお更面白い。
ネット検索して、瀬島龍三のウイキペディアをみれば、伊藤忠商事時代のことが次のように書かれている。
「シベリア抑留から帰還後、1958年に大手商社の伊藤忠商事に入社する。入社3年目の1961年には業務部長に抜擢され、翌年に取締役業務本部長、半年後に常務となる。その後も、1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会長に就任した。
帝国陸軍の参謀本部の組織をモデルにした『瀬島機関』と呼ばれる直属の部下を率いて、伊藤忠商事の総合商社化などに辣腕をふるった」
瀬島龍三は2年前に老衰のため95歳で死去している。シベリアで11年間強制労働させられたにしては長寿だった。
出演者も超豪華といえよう。第一話はスペシャルで2時間以上もあった。海外ロケなど金をふんだんに使っていそうである。毎週の楽しみがひとつできた。

壹岐正(唐沢寿明)・川又伊佐雄(柳葉敏郎)・大門一三(原田芳雄)


秋津千里(小雪)・紅子(天海祐希)・壹岐佳子(和久井映見)


里井達也(岸部一徳)・兵頭信一良(竹野内豊)・久松清蔵(伊東四朗)


秋津紀武(中村敦夫)・谷川大佐(橋爪功)・壹岐直子(多部未華子)

景気とプロ野球

2009年10月08日 | Weblog
2009年上期(1月~9月)の広告業者の倒産は前年同期比40.6%増の201件に達しているそうな。電通や博報堂はうまいことやって生き残っていくのだろうな。東京都の五輪招致のプレゼンを企画したのは電通あたりだろうか。バイリンガルの少女を使うような姑息な手を用いるのはそんな所だろう。
景気のいいのはユニクロだけか。「営業利益が前期比24.2%増の1086億3900万円となり、過去最高を更新した」ということだ。この前のパリ・オペラ店がオープンのとき、パリジャンやパリジェンヌが800人も列をなしたというからスゴイ。ジーンズとカシミヤセーター目当ての客が多かったそうだ。あの永田農法野菜で失敗したのは何だったのだろうね。

いよいよプロ野球のペナントレースも終わりに近づいた。まだヤクルトと阪神が3位争いをやっている。今夜はヤクルトが勝ったので、明日も勝てばCS進出が確定する。阪神が勝ってもヤクルトが残り2試合、中日と巨人に連勝すればヤクルトがCS進出できる。中日と巨人にとっては消化試合だから調整で色んな選手を出すだろうから、ヤクルトが有利になるかもしれない。
今年の巨人は強い。おそらく日本シリーズに出て、制覇する確率は高い。パリーグは楽天イーグルスが出れば面白いことになる。パリーグでは今、いちばん調子がいいかもしれない。もし、そうなって楽天が日本シリーズを勝てばスゴイことになるだろう。野村監督の首は切れないだろう。次期監督に東尾説が立ち消えて、広島のブラウン説も出ているが、情報源が怪しい。

平敷兼七氏の写真

2009年10月08日 | Weblog
今月、沖縄出身の伊奈信男賞写真家である平敷兼七氏が死去したという記事を読んだ。61歳ということでかなり惜しまれていた。
どんな作風の写真を撮っていたのか関心があり、図書館で彼の写真集を一冊借りてきた。「山羊の肺 1968―2005年」(影書房、2007年発行)である。すべてモノクロ写真である。
人物と風景、それほどインパクトはないが、顔の表情や失われた風景は興味深い。気に入った3点をスキャンさせてもらった。

ハーリーにて(八重山黒島 一九七二)


映画館(本部 一九七三)


ホテル(辺野古 一九七一)

沖縄の開発と共同体

2009年10月07日 | Weblog
リーマンショックと政権交代で沖縄の開発ブームもひとまず終息したようである。下記の安里英子著の二冊の本は、読書録を読み返しても佳い本だということがわかる。
東京に五輪招致を失敗した石原都知事は、五輪関連施設建設が予定されていた晴海の用地にカジノ関連施設を計画するのではないかという噂もある。さあ、沖縄のカジノ構想はどうなるか。

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■2002/10/23 (水) 沖縄の土地開発の波は今も
「揺れる聖域」:安里英子、沖縄タイムス社

副題は「リゾート開発と島のくらし」。著者が1990年から沖縄の島々を歩き、島がリゾート開発計画や土地改良事業でどのように変容していくのか、変容したのかをタイムスに連載し、それに加筆してまとめたものである。

これを読むと、本土復帰前後、本土資本により土地が買い占められ、開発計画がいくつも創られ、多くの計画が没したかもわかる。さらに、土地改良事業で島の地形が変貌してきたことも。

竹富島は島の三分の一を本土企業に買い占められたが、島の有志で買い戻され、本土資本による観光化をストップさせたこと。西表島にも三つの大規模リゾート開発計画、ダム建設計画があったことも知れる。

宮古島は、村の事業として推進されたドイツ村構想、さらに東急リゾート開発、スーパーダイエーによるビーチの買い占めなどについての様子もわかる。

本島玉城村の受水走水あたりも県内大手建設会社の手で開発計画があったという。与那城村の海中道路建設や島の地形の変貌や埋め立てによる自然環境破壊は酷いものがある。

開発企業に買い占められた土地のなかに御嶽が含まれるという。沖縄の聖域も無視してしまう開発の波の凄さ。それに浸食される精神文化はいかに変貌していくのだろうか。
自治体が開発を規制するのではなく、むしろ振興策として積極的に推進してきた。現在も、その方針は変わっていないが。

リゾート開発とは、自然を排除することだ。本島恩納村のムーンビーチに行くと、白砂で溢れ歩きにくいほどだ。自然のビーチではなく、余所からもたらされた白砂で造られたものだ。

島の土地が個人のものではなく島のみんなのものだとする久高島土地憲章、沖縄で初めて創設された国頭村奥集落の共同店についても記述も興味深い。

■2003/03/03 (月) 沖縄の村落共同体
「沖縄・共同体の夢~自治のルーツを訪ねて~」:安里英子、榕樹書林

安里英子さんの著作は二冊目である。「揺れる聖域」(沖縄タイムス社)について、この読書日記にも書いている。
ここでは、久高島土地憲章にもとづく土地総有制、やんばるの「奥」という集落の共同店、女性と祭祀、開発に影響される環境問題などについて論じられている。

久高島は、今日まで土地の私有化が認められていない。沖縄では明治の「土地整理」で土地総有制が廃止されたが、この島では今でも土地全体がの総有制になっている。土地の管理権はにあり、土地を勝手に売買できない。10条からなる久高島土地憲章で今までの慣習を明文化されている。リゾート法が施行されて企業が開発のため土地取得の話を持ちかけたが断念したという。
祭祀と共に伝統的な土地総有制が残されてきたのは興味深い。
小生が久高島を訪れたとき、老人が猫の額のような狭い畑で農作業していた。その老人、出身が九州だといっていたが、どういう事情で島に居住するようになったかは聞かなかった。

沖縄でよく見かける共同店は、1906年に初めて本島北部の奥で設立された。事業内容は、昭和30年代、購買事業だけでなく、製茶工場、精米工場、酒造業、電灯業、運送業、水道事業などと幅広かったのには驚く。相互扶助として療養費や学資への貸付も行われている。
小生、一度奥の店を訪れたことがある。銘茶「おくみどり」を購入するためだ。ガソリンスタンドの隣にあり、田舎の雑貨屋というよりも中小スーパーという感じであった。目指す「おくみどり」は入り口近くの正面に並んでいた。素朴な緑を基調にした包装であった。なかなか美味しかった。
時代は変わり、共同店にも多くの課題があるようだ。

沖縄の伝統的自然観として二つあげられている。一つは沖縄独自の信仰と深く結びつく自然観、もう一つは中国から伝えられた風水思想によるものである。
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古書マニア

2009年10月06日 | Weblog
台風18号が接近しているので明日から天候が崩れそうだ。例年、台風は25個程度発生するのだが、今年は少なくなりそうだ。
この秋、はじめて柿を食った。売れ残りの不揃い大きさのが5個70円だった。渋抜き核無しで甘くて美味しかったので得をしたようだ。またあったら買おう。

古書マニアとして有名な人に紀田順一郎、荒俣宏、鹿島茂がいる。
紀田順一郎は古書をめぐるミステリ小説も書いている。「紀田順一郎のIT書斎」というサイトで古書を紹介していたが、現在休止中である。
荒俣宏と鹿島茂が古書について書いている本の読書録を転載する。
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■2003/03/06 (木) 古書マニア
「それでも古書を買いました」:鹿島茂、白水社

古書マニアであるフランス文学者のエッセイ集。書かれている内容は、フランスの古書と古書店、古書を手に入れた経緯、古書の保存についてである。
とても、まとめにくい本であるが、関心をもった所のポイントだけでも書いておこう。

著者は19世紀の稀覯本である挿絵本にことさら関心あるようで、大金を使って手に入れた経緯、挿絵の解説にかなりのページ数を費やしている。
購入は、フランスの古書店から送られてくる目録、オークション用カタログを利用しているが、直接パリの古書店でも手に入れている。実際にフランスでオークションを経験されている。

フランスでは、巻の揃っていない全集の豪華装丁本がインテリアとして売られているというのは少し驚いた。日本ではあまり見かけない革装丁本というのはフランスでは珍しくないようだ。昔は、普通の装丁本を購入して、読者が個人的に革装丁させていたという。本の外見も重要とされていたのだ。現在も少数派だがインテリはそのようにして読むという。

セーヌの河岸に並ぶブリキの本箱を並べる本屋はブキニストという。彼らも、店舗をパリの街のいいところに構えて、出世していくそうである。

19世紀の新聞のセットを50万円出してオークションで手に入れ、横浜の保税倉庫に取りに行ったところ、それがなんと重量2トンもあって運搬に大変だったというエピソードもある。
古書の目録やカタログも活用できるそうで、それらも保存しているという。
マンションが古書で手狭になり、家を建てたという人だからすごいものだ。

博物学の荒俣宏氏と知り合いで交流があり、彼のことも書かれている。博物学の古書は範囲も広く高価なので大変にお金がかかるという。
とても楽しく読めるエッセイ集である。他に古書についてのエッセイ集として、「子供より古書が大事と思いたい」と「愛書狂」を書いておられるので、また探して読んでみたい。


■2003/03/08 (土) もうひとりの古書マニア
「ブックライフ自由自在」:荒俣宏、集英社

荒俣宏氏も博物学分野の古書マニアとして有名で、1冊数百万円の古書を何冊も購入し、古書のために億単位費やしているという。
家は西洋のオカルト書、科学書、博物学書、旅行書、図譜でふさがれているというからスゴイ。
あの小説「帝都物語」が350万部売れたそうだが、印税すべて古書に換わったかもしれない。

仏文学者の鹿島茂氏とは洋古書店で出会ってから交友が続いているそうだ。
出会いは次にように。
「ヨーロッパ洋古書のメッカ田村書店の二階で、鹿島茂という人に会ってから、また絶望の日々に引き戻されたのである。このお方は十九世紀フランス風俗史に深く魅せられて、拝観に行った自宅書斎は革装本にあふれかえっていた」

十八、九世紀の「名書量産時代」に刊行された書物の多くが、ひらけば半畳もあるそうで、「容器」であるといっている。二十世紀の書物は書物に値しないといってのける。名書は、美的観点だけでなく、容器としての完成度を加味したいという。
彼にとっては、書物は文章よりも、挿し絵や装丁の美しさが大切なようだ。

彼もヨーロッパの古書購入は、古書店目録やオークション・カタログを利用している。ヨーロッパの古書店というのは、信用できる店が多いそうだ。ヨーロッパ内のネットワークもできていて仲介してくれるという。荒俣氏はヨーロッパの老舗でも著名となっているようだ。

著書には、神田や京都の古書巡りもふれている。シーボルトの絵師として有名な川原慶賀の挿し絵についても記述している。

彼は、平凡社の百科事典を執筆したことでも知られているが、数年、平凡社の社屋に寝泊まりした様子も描かれていて面白い。
最近は、どんな古書を購入しているのだろうか。
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豚肉が好きである

2009年10月05日 | Weblog
豚肉が好きで、しかも安いので、たいてい冷蔵庫に入れてある。子供のころは豚肉は嫌いだったはずなのに、今では肉の中ではいちばん好きになっている。煮て良し、焼いて良し、炒めて良し。
生姜焼き、焼肉、肉野菜炒め、お好み焼き、天ぷら、餃子、酢豚、シャブシャブ、中華サラダ、シチュー、カレー、肉じゃが、角煮など作ってきた。ラーメンには豚肉モヤシ炒めをのせて食べている。
沖縄では、豚足のテビチ、ソーキ煮、ソーキそば、ミミガー、中身汁なども食ったことがある。こんなに優れた食材はないだろう。

下記は6年以上前に読んだ「豚と沖縄独立」という本の読書録である。

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■2003/03/17 (月) 豚で沖縄を救う
「豚と沖縄独立」:下嶋哲朗、未来社

以前から注目していたノンフィクションであり、やっと読むことができた。琉球新報に戦後50周年特集として連載されたものが元になっている。この作品、豚から見た沖縄であり、戦後の独立か米国従属か本土復帰かについての動きや葛藤についても述べられており、教科書に載っていない沖縄の歴史についても教えてくれる。

沖縄の人々は、戦後直ぐ、学芸と海と豚で独立することを夢見ていた。学芸は教育、海は交易、豚は養豚と農業であろう。それが、冷戦状況、日米講和条約などがあって米国の思惑で翻弄され、本土復帰へと向かって行く。

主役は、布哇(ハワイ)連合沖縄救済会のメンバーたちである。
冒頭は、真珠湾攻撃直前のハワイから始まる。1900年に沖縄からのハワイ移民が始まった。米国がハワイに海軍基地を設置したので、豚肉への需要が高まり、沖縄県人は養豚業で成功している者も多かった。

戦争が始まると日系人はヨーロッパ戦線に送り出された。日系二世の比嘉太郎もそのひとりだった。負傷して九死に一生を得て帰国し、しばらくして沖縄戦に志願した。彼の沖縄レポートの「フールに豚がいない」が、沖縄へ豚を送って救済しようとする発端になった。戦争が始まる前は沖縄に10万頭余りいた豚が、戦争が終わると、1千頭台に減っていたのだ。

豚を買う資金は、ハワイの沖縄県人の寄付によるものだった。550頭の豚を米国西海岸のポートランドの業者から購入し、運搬は米国陸軍の輸送船が無償で行ってくれた。その付き添いにハワイの沖縄県人7人が選ばれたのであった。ポートランドから沖縄まで台風に何度も襲われ、やっと到着するのであった。

その豚が、繁殖し、頭数は数年で戦前の水準までに達した。戦前は、アグーという黒豚であったが、米国から渡ってきた豚は繁殖力の強い白い豚であった。その結果、沖縄の豚は白豚になってしまった。
沖縄住民は、長い間、輸送されてきた豚は米国の支援によるものだと思っていたそうだ。ハワイの沖縄県人の救済運動であることを知らなかった。

最近、沖縄電力が社内ベンチャー事業で豚肉販売を始めることになった。「がんじゅう」という子会社をつくり、「アグー」の血統を半分持つ豚も普及させるそうである。期待できそうだ。
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株式会社がんじゅうのホームページがあった。http://www.benibuta.co.jp/hpgen/HPB/categories/45702.html

中秋の名月や

2009年10月04日 | Weblog
昨夕、後楽園近くの桜道を自転車で走っていると、河川敷に車がたくさん駐車しているのに気づいた。中秋の名月だったのだ。空に月を探したら東の空に真ん丸のお月様がいた。後楽園では名月鑑賞会が催されるのだ。園内に弁当やお酒を持ち込み、楽しむのであろう。まだまだ風流な人々がいるんだなと思った次第である。

昨日、2016年五輪開催地が決まった。本命のシカゴが1回目の投票で落選したのは意外だった。もしかして東京が当選するのかと期待したが、2回目で落選。そしてリオとマドリの決戦でリオが勝った。ブラジルは南米大陸初開催で発展途上国なので順当なところだろうか。東京のプレゼンのサプライズが15歳の無名の女子だったが、ほとんど効果はなかったようだ。五輪に思想がなけらばならないと環境問題とリンクしたが、これも表面的に感じられた。リオのパッションがどこよりも強かったのだろう。

前原国交相が沖縄の普天間基地を視察した。辺野古とは別の移設先の検討が必要との考えを示した。前原さんは、けっこう動いて方向性を出している。でもね、沖縄県知事と名護市長は、辺野古での建設を急がせている。どうすりゃいいのだろうね。
宇宙人首相は、デンマークから帰国して早速、幸夫人とファッションショー参加だって。ポッポ内閣でまともなのは、前原さんと福島みずほ女史だけだと誰かが言っていたが、そうかもしれない。