NHKの大河ドラマ「篤姫」でお由羅騒動を取り上げていた。高橋英樹が演じる島津斉彬を藩主にしようとする密談を行ったグループが処分されることになる事件である。ドラマでは篤姫の知人であった大久保利通も謹慎させられた。
かなり前、「南島雑話の世界 名越左源太が見た幕末の奄美」(2002年 南日本新聞社)という本を読んだことがあり、遠島になった名越左源太もその事件に関わったのではないかと思い、改めて確かめてみたら矢張りそうだった。左源太が密談のために別邸を貸して、彼も密談に加わっていたのだ。でも、密談の内容には賛成せず、斉彬世継ぎの上申書の連名から名前を削除させていた。彼以外は切腹して果てた。左源太は翌年の1850年に物頭職を免じ、奄美大島に遠島を命じられた。赦免されるまで5年間を大島で暮らすことになる。
しかし、遠島の翌年には、島中絵図調方の職を拝命しているので半ば赦免されたようなものである。左源太は上級武士であり島津藩主の遠縁にあたった。絵の才能があり、本草学や医術についても学んでいた一級の教養人だった。だから島民との深い交流の中で、島の地理、動植物、年中行事、宗教、衣食住、産業などスケッチとともに記録が可能であった。左源太の記録した草稿が「南島雑話」としてまとめられ、幕末の奄美大島を知る貴重な資料となっている。
この南島雑話は東洋文庫と日本庶民生活史料集成第1巻(三一書房)に収録されている。民俗関係で面白いのはノロの樹上葬、高倉、雲隠、血の川の謎など、生き物関係では、ワニを食べる、ケンモン、ネズミの話など、産業では黒砂糖、焼畑など。
島民に薬を与えたり、子どもたちに手習いを教えたり、人間味のある人物で尊敬されていた。赦免後、鹿児島に戻り、地頭や寺社奉行を歴任している。左源太の長男である兵馬が1865年に薩摩藩英国留学生として渡英しているのも興味深い。この留学生の中には有名になる森有礼がいた。「薩摩藩英国留学生」(犬塚孝明、中公新書)に詳しく載っている。
篤姫と左源太は接点があったのかどうか定かではない。お由羅騒動を描いた時代小説として直木三十五の「南国太平記」があるのでこれも読んでみたい。
かなり前、「南島雑話の世界 名越左源太が見た幕末の奄美」(2002年 南日本新聞社)という本を読んだことがあり、遠島になった名越左源太もその事件に関わったのではないかと思い、改めて確かめてみたら矢張りそうだった。左源太が密談のために別邸を貸して、彼も密談に加わっていたのだ。でも、密談の内容には賛成せず、斉彬世継ぎの上申書の連名から名前を削除させていた。彼以外は切腹して果てた。左源太は翌年の1850年に物頭職を免じ、奄美大島に遠島を命じられた。赦免されるまで5年間を大島で暮らすことになる。
しかし、遠島の翌年には、島中絵図調方の職を拝命しているので半ば赦免されたようなものである。左源太は上級武士であり島津藩主の遠縁にあたった。絵の才能があり、本草学や医術についても学んでいた一級の教養人だった。だから島民との深い交流の中で、島の地理、動植物、年中行事、宗教、衣食住、産業などスケッチとともに記録が可能であった。左源太の記録した草稿が「南島雑話」としてまとめられ、幕末の奄美大島を知る貴重な資料となっている。
この南島雑話は東洋文庫と日本庶民生活史料集成第1巻(三一書房)に収録されている。民俗関係で面白いのはノロの樹上葬、高倉、雲隠、血の川の謎など、生き物関係では、ワニを食べる、ケンモン、ネズミの話など、産業では黒砂糖、焼畑など。
島民に薬を与えたり、子どもたちに手習いを教えたり、人間味のある人物で尊敬されていた。赦免後、鹿児島に戻り、地頭や寺社奉行を歴任している。左源太の長男である兵馬が1865年に薩摩藩英国留学生として渡英しているのも興味深い。この留学生の中には有名になる森有礼がいた。「薩摩藩英国留学生」(犬塚孝明、中公新書)に詳しく載っている。
篤姫と左源太は接点があったのかどうか定かではない。お由羅騒動を描いた時代小説として直木三十五の「南国太平記」があるのでこれも読んでみたい。