ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

ポーク・ランチョンミートは懐かしい味

2006年07月31日 | Weblog
一昨日、近所のコープ(生協スーパー)の店内に入ったら、喜納昌吉の「ハイサイおじさん」の曲が流れていた。何事かと思ったら、沖縄産品の小さなコーナーが設けられていた。車麩、コーレーグース、ランチョンミート、ラフティとソーキ煮のレトルト、沖縄そばカップ麺、ソーメンチャンプル、サーターアンダギーの粉、ぜんざいの素、スッパイマン、タコライスの素、ゴーヤー茶とさんぴん茶のペットボトルなど10数品目のミニ沖縄物産展をやっているのである。値段は倍ぐらいで、とても高いように思った。
ランチョンミートは沖縄産の豚肉を使用した180㌘入り、販売元が「おきなわコープ」となっている。ランチョンミートといえば、デンマークのTULIPやアメリカのSPAMなど輸入物が100%だと思っていたのだが、沖縄産も少しだがあることを知った。輸入物は340㌘入りだが、沖縄産は半分程度しかなく、かわいらしい大きさだ。
このランチョンミートは、西欧で戦時中、保存食として軍隊に普及したそうだが、「まずい」と言われていたようだ。ランチョンは英語のランチからきているという。豚の挽肉、ラード、香料、塩、でんぷんなどを混合して缶詰に充填してから加熱処理している。ソーセージのようなものだ。ソーは牡豚、セージはハーブのセージのことだという。ソーセージはドイツ人がよく食う。ゆでたり、網の上で焼いたりしてね。西欧では豚料理はあまりポピュラーではないようだ。スペインに子豚の丸焼き料理というのがあるが。アメリカのSPAMは、スパムメールの語源になったりして、散々なことだ。
沖縄でランチョンミートを食べるようになったのは、米軍の占領後である。配給物資として米軍が放出したのだ。戦争で沖縄の豚はほとんどいなくなっていた。それが定着して、ポーク卵やゴーヤーチャンプルなどの料理に使われているのだ。最近は、ハワイあたりから「ポークおにぎり」なるメニューが入ってきて、沖縄のコンビニなどで人気商品になっているようだ。ポークおにぎりは、小生、好きである。
小生がランチョンミートを初めて食ったのは石垣島の民宿であり、もう30年前のことである。塩辛くて、脂ぽくてまずかった。でも、あの味が懐かしいのである。
昨日、あのランチョンミートを求めに行ったが、見あたらなかった。売れないから、バックヤードへでも仕舞ったのかもしれない。今日でも店員に聞いてみよう。このローカル都市では、沖縄物産展でもなければ手に入らないのである。

もっと沖縄産ランチョンミートを増産して欲しい。地産池消で行こう。アグゥーを使えば質のいい商品になるだろう。沖縄ブランドとして輸出してもいい。
これは、さんぴん茶にも当てはまる。シナや台湾からの輸入が100%だろう。沖縄でも茶の栽培が行われているのだから。

読書録「琉球王国と倭寇」

2006年07月27日 | Weblog
ほぼ一週間かけて「琉球王国と倭寇~おもろの語る歴史」(吉成直樹・福寛美著 森話社 2006年)を読む。
琉球王国は倭寇との関係が深かったのではないかという説がある。その根拠は、進貢船が倭寇に襲われた記録がないこと、琉球王尚家の家紋が倭寇の信仰する八幡神の神紋である「左三つ巴」と同じであること、琉球列島各地に倭寇の史跡があることなどであろう。

この著作は、琉球王国を造ったのは倭寇勢力であることを王国の官選古歌謡集「おもろさうし」の分析から裏付けようとしているものである。
「おもろさうし」の第一巻は1531年に編纂され、第二巻以降の編纂は1623年に終了し、全22巻である。12~17世紀に謡われた古歌謡が1554点おさめられ、地方祭祀のおもろと王府祭祀のおもろからなる。第二巻以降の編纂の時期は、1609年の薩摩侵攻の後、王国のアイデンティティ危機のころで王権の充実した始源の姿と王権の正統性を急いで確立しなければならなかった。過去の「伝承された歴史」を一旦解体して「あらまほしき歴史」を再構成した政治的な産物であった。しかしながら、政治的意図があろうとも彼らが自ら信じていることを謡ったのではあるまいか。
その「おもろさうし」に対して歴史復元へのアプローチを試みようとするもの。関連するおもろの「おもろ群」と関連語彙への注目というふたつからアプローチしている。「おもろさうし」のなかには倭寇らしきもののことを謡った「倭寇おもろ」もあるようだ。

倭寇というのは商行為も行う海賊だった。倭人(日本人)ばかりだったのではなく、朝鮮半島系の人々も多く含まれていた。だから、半島文化の色彩をもっていた。半島、壱岐対馬、西九州、奄美、琉球の海上の道にモノや文化が流れたであろう。
1458年に首里城正殿に掛けられた「万国津梁鐘」の銘文に「三韓の秀を鐘め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす・・・」と書かれているが、朝鮮、シナ、日本の順番からして朝鮮との関係の深さを現しているという指摘もある。オボツ・カグラ(天上の世界)信仰は尚真王時代以降になるが、これも半島系の信仰である。
徳之島で11世紀から300年に渡ってつくられたカムィ焼きという高麗系焼き物があるが、これが鹿児島から波照間まで分布しているという。また、長崎の西彼杵半島産の石鍋も倭寇たちが琉球列島各地に運んだのではないのかという。
琉球の神女名の「あれ」というのは、新羅の始祖王をとりまくシャーマンに「アレ」が付く名が多かったので、それと同じ系統ではないかとも。久高島の神歌に「そうるからくだりたる・・」にあるので朝鮮のソウルのことではないか・・・。琉球王国統一前に、中山、北山、南山という三山鼎立時代があったが、それをユーラシア大陸の三機能体系による見方であり、半島から導入されたものではないかと推測する。12世紀に半島で成立した「三国史記」に三機能体系は生きていた。
第一尚氏の初代王・思紹は伊平屋出身、第二尚氏の初代王・金丸は伊是名出身ということからみても、半島からの海上の道の人たちが王国建設に大いに関わったことがいえるかもしれない。
おもろ分析でも今帰仁グスク、首里城、玉城グスクの一体性が色濃いことを多くのページで取り上げている。
この著作、琉球王国と倭寇との関係を詳細に論じた最初の書籍である。もっと精読して整理してみたい。

稲村賢敷著の「琉球諸島における倭寇史跡の研究」(吉川弘文館、1957年)を読んでみたい。

読書録「日本という国」

2006年07月08日 | Weblog
小熊英二著の「日本という国」(理論社)を読む。最近、よく読まれている本でルビが多くて図書館の児童書コーナーにあった。読了して数日経ったのだが、忘れないうちにポイントだけ書いておこう。

日本の近現代史の主に対外的なところに焦点を合わせて述べている。
最初は、福沢諭吉の「学問のすすめ」が意図するところの解説から始まる。諭吉は義務教育の必要性を説くのであるが、教育によって国民が自由競争で出世が可能になるので愛国心が涵養されることを言いたかったのである。さらに、彼の「脱亜論」に及ぶ。アジア諸国が西欧諸国の植民地になっている現実をみつめ、日本も植民地にされないよう、西欧諸国のようにアジアを植民地にしようと論じたのだ。
太平洋戦争が終結する年の2月に、近衛文麿が天皇に降伏を上奏したが、天皇は、どこか一つの地域の戦闘で勝利してから降伏すべきであろうという回答だったので降伏の時期が遅れてしまったのが真相のようである。
憲法9条の戦争放棄と戦力不所持は米国に押しつけられたものだが、冷戦が始まって、米国は後悔したという。日本の軍事力を利用したかったのだ。講和条約後、反米運動が起こって本土の基地は縮小されることになったが、それが沖縄に基地を押しつける形となってしまった。米国としては、日本から沖縄を切り離したので、講和条約が適用されず、占領状態なので自由に土地など収用できたのである。
冷戦が終わった時期と日本の高度経済成長が終わった時期が一致しているという見解は彼の鋭いところである。朝鮮戦争とベトナム戦争の特需だけでない冷戦全体のおかげで日本の経済発展があったというわけだ。
もう日本は、米国の国際戦略の中継基地だけでいいはずなのだが、多額の思いやり予算で居心地がいいので、あまり縮小してくれないというのが現実である。

追加:
思い出した。戦争で迷惑をかけた国々への賠償についても触れていた。
第一次大戦後のドイツが賠償金を払わされた結果、疲弊してナチスが台頭した歴史を鑑み、米国が避けさせたようだ。中国と朝鮮は米国が端から無視、フィリピンやインドネシアの親米独裁政権には米国は有無を言わせなかった。その他は経済協力という形をとった。後に中国、韓国も国交正常化で経済協力となった。中国は賠償を請求せず、日本の一部の戦犯に罪があるのであって、一般国民は被害者であると言ってくれたのは確かだ。それだから靖国神社の純ちゃん参拝にこだわるとか。でも、いまだにODAを要求しているが。北朝鮮がまだ残っている。