ある旅人の〇〇な日々

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判官贔屓

2005年08月16日 | Weblog
判官贔屓というのは、弱者に味方することをいうが条件付きであると思う。
判官は源義経のことである。判官贔屓の語源は、興津要の「語源なるほどそうだったのか!」(エスカルゴブックス、昭和61年発行)に歌舞伎十八番の「勧進帳」によると書かれている。頼朝に追われた義経一行が山伏姿に身をやつして石川県小松の安宅の関にさしかかったところ、見破られそうになったので弁慶が機転をきかして義経を杖でめった打ちにした。義経に対してなら打つこともあるまいと思わせるためだ。しかし関守の富樫は見破っていた。これに感動した関守は黙って関所を通らしてやった。この「勧進帳」をみて見物客は同情し、以来、弱者や不幸な者に同情して味方することを判官贔屓というようになった。

小松市に安宅住吉神社というのがあり、難関突破のお守りを売っている。この神社の建立はいつごろだろう。NHK大河ドラマが「義経」を放映しているので、参詣客が多いそうだ。難関突破のお守り、人気があるだろう。

今ちょうど行われている高校野球などは、負けているほうに応援したくなるのは判官贔屓といえる。でも、地元の高校が勝っておれば判官贔屓はしない。スポーツの国際試合で自国を応援するのもそうである。これはナショナリズムのひとつの形である。プロ野球の好きなチームを応援するのもあてはまらない。ゴルフでスーパースターのタイガー・ウッズを応援するのにもあてはまらない。どういう心理からくるのだろうか。判官贔屓はどうでもいい対象の無責任な応援といえるかもしれない。万国共通、人類普遍の心理によるものなのか。

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