ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

時代遅れの・・・

2006年02月24日 | Weblog
企業の目的は「需要の創造」だと習ったことがある。不必要なモデルチェンジやバージョンアップも需要を喚起するので間違った方向ではない。でも、このような企業の戦術に乗りたくない。だが、必要最小限、対応しておかないと痛い目に遭う。

小生、8年前にNECのノートパソコンLavie/Nr13(pc-9821)を購入し、いまだに愛用している。OSもWindows95で98にアップグレードすることもなかった。エクスプローラは最初はIE3だったが、最近ではIE5を使うようになっていた。
ところが、今月10日ごろ、よくアクセスしているサイトでインストールのデマンドのウインドウが開いた。IE5では、よくあることである。それをデリートしようとしたが、タイミングが悪かったのか、IE5が機能しなくなった。修復も試みたができなかった。仕方なく、元の設定に戻したら、いきなりIE3になってしまった。壊れたのがIE5.01だったから、その前のIE5.0になると思っていたのだが。
IE3でアクセスするとエラーや文字の重なりがあり、ほとんど機能しない。やっとこさ、マイクロソフトのエクスプローラのダウンロードのページに達した。だが、すでにIE5の供給サービスはなくなっていた。ほんの数ヶ月前はあったのに、もうIE6以上しかないのである。焦った。Windows95ではIE6をダウンロードできないのだ。
もうWindows98にアップグレードするしかない。一般のパソコンショップにはWindows98のOSなんて販売してない。だったら中古ソフトを探すしかない。市内の中古パソコンショップ2軒に当たってみたが、9800シリーズ対応のCD-ROMは置いていない。店員から、そんなものは、もう見つからないだろうとも言われた。途方に暮れた。
なんとか検索したみたら、ヤフーオークションで出品されていることがわかった。IE3では登録も入札もできない。それで図書館のパソコンを利用することにした。なんとか、登録と入札ができた。最初1000円程度で出品されていたが、どうしても手に入れなければならないので、最高入札額2万円を入れて、入札終了時間を待った。運良く4100円で落札できた。
商品が数日して送られてきた。主記憶メモリやハードディスク空容量が心配だったが、クリアできた。やっと、IE6をダウンロードできた。ハードディスク空容量がほぼゼロ近くになったのでドライバ圧縮しなければならなかった。この圧縮に4時間半も要した。あとは、少しの設定にまごついたが、なんとか、成功できた。目出度いが約10日間のロスをした。次は、ISDNからADSLへの乗り換えをしたいと思ったが、何か問題が起こりそうなので保留した。

Windows95のままでは、新しいアプリケーションも使えないので不便を感じていたが、やむを得ない理由がなければアップグレードもしなかった。時代に遅れてしまっていた。加藤登喜子の歌に「時代遅れの酒場」というのがあるが、思い出した。♪時代おくーれの この酒場に・・・

「白磁の人」を読んで

2006年02月10日 | Weblog
近所の古本店の棚に気になる単行本があった。江宮隆之著の「白磁の人」(河出書房新社)である。主人公が薄幸の美女の小説であろうと想像したが、手にとってページを繰ると柳宗悦の名が読めた。あの民藝の柳宗悦である。どうやら伝記小説といおうかドキュメント小説のようだった。読む気になり、購入した。

主人公は、朝鮮を愛し、朝鮮人に愛された山梨県出身の浅川巧であった。時代は1910年に日韓併合されて間もない頃のことだった。巧は日本の営林署に勤めていたが、朝鮮で教師をしていた兄の伯教を頼って半島に渡る。しばらくして、巧は朝鮮総督府の林業試験場にスカウトされ、勤めることになった。兄から朝鮮の陶磁器の美しさを教えられ、李朝白磁に興味を持つようになる。高麗青磁は骨董として高値だったので、キムジャンの壷として用いられるほど安かった李朝白磁のほうへ向かったのであった。
巧は、朝鮮人からハングルを学んで、朝鮮語の会話に困らないほどになった。日常的に朝鮮服を着ていた。その当時の日本人としては珍しかった。郷に入れば郷に従えという考えを持っていたのだ。朝鮮の山は禿げ山だった。もともと緑は少なかったのだが、総督府が軍用材木が必要だったので入会地を国有化して払い下げたので禿げ山がひどくなっていた。そういえば、琉球処分の頃、同じようなことを日本政府はやっている。種子採取で半島を巡ったり、露天埋蔵法を開発したり、精力的に緑化の仕事を行った。その合間に、昔の窯跡を探して陶磁器の破片を発掘した。その他、木工品などの生活用品も調査した。
20代の柳宗悦に朝鮮の美に眼を開かせたのは浅川兄弟であった。見せられた李朝白磁に心を奪われたようだ。余談だが、柳宗悦が琉球の美に関心を持つのは、もっと後になる。巧は柳宗悦と一緒に朝鮮民族美術館建設に奔走した。巧は外地勤務手当を使って何人もの朝鮮の子どもに奨学金を出して学校にも行かせている。朝鮮人の物売りや娼婦達にも優しかった。朝鮮で17年間、山の緑化と美術啓蒙に貢献し、過労による肺炎で40歳の生涯を閉じた。葬儀には、大勢の朝鮮人が棺桶を担がせてくれと参列した。戦後、朝鮮人の有志で立派な墓につくりなおされたという。このように植民地時代に朝鮮人から愛された日本人がいたのである。白磁の白には温かさがあるそうだ。だから、「白磁の人」は浅川巧なのである。
現在、朝鮮人に愛される日本人はいるだろうか?
韓国とは芸能の世界のみで関係は良さそうだ。北朝鮮とは、つい先日、日朝協議が終わったが平行線のままである。
日本が朝鮮に進出したのは、1876年の日朝修好条規が締結されてからである。開港と治外法権、くわえて関税無し、日本貨幣通用という不平等条約。これは、幕末日本に西欧列強国が押しつけたことよりも不平等であった。釜山を根拠地にして半島全体に進出していくことになる。もう少し、このあたりの歴史を知っておこうと思う。

浅川巧関連の書籍として下記のものがある。
「朝鮮民芸論集」:浅川巧、岩波文庫
「朝鮮の土となった日本人」:高崎宗司、草風館
「植民地朝鮮の日本人」:高崎宗司、岩波新書