ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

マンモス

2005年02月27日 | Weblog
来月から愛知県で万博「愛・地球博」が開催されるので,昨日、NHKテレビで長時間PRされていた。万博というのは調べてみれば1851年のロンドン開催が最初で、二回目がパリだとわかった。万博にはオリンピックのような組織があるのか、開催地が競争して選ばれるのか、今のところ知識もない。ただ1970年の大阪万博に行ったことを思い出される。

今回の万国博テーマは「環境」である。注目すべきはシベリア凍土から発見されたマンモスの冷凍頭部が展示されることだ。名前は発見された村名にちなみ、ユカギルと名付けられている。
マンモスの特集が昨夜のNHKスペシャルで放映されていた。いい番組だった。頭部はほぼ完全に残っていて日本でCTスキャンされていろいろ分かったことも多い。
マンモスとは氷河期をヨーロッパからアメリカまで北極圏近くまで北部で繁栄した巨象であり、突然、絶滅したと聞いていた。事実はそうではないようだ。マンモスというのは、アフリカ象やアジア象よりも一等大きいと思っていたが、実際はアジア象程度で2.8㍍高だ。脳の大きさも6000立方メーター程度。外見の特徴は、二種類の毛で被われ、耳が30㎝程度で小さかった。寒冷地に適した体になっていたのだ。
ユカギルの腸内の未消化物を分析することで、当時の環境が分かってきた。腸内からは、柳の枝、イネ科やヨモギの花粉、イネ科の茎などが発見された。氷河期のシベリアは乾燥した草原地帯で冬も雪が積もらなかったようだ。だから餌も豊富なので最盛期で数百万頭も棲息したと推測している。1万年前に氷河期が終わって温暖化してから湿度が高くなり、冬の積雪で餌がなくなり突然絶滅されたと説明されていた。ところが、シベリア東部のウランゲリ島でマンモスの骨や牙が大量に発見され、大きさを分析すると、平均的マンモスの大きさの三分の二程度で7000年~4000年前のものだった。小型化することで生きながらえた種もあるのだ。アメリカで発見されたマンモスの骨化石からは、鋭利な石器が打ち込まれたものもあった。マンモスハンターがいたのだ。これらのハンターがマンモス絶滅にも影響を与えたようだ。

中身の濃い興味深い番組だった。NHKの自然をテーマにした番組はレベルが高い。
温暖化でマンモス絶滅とは人類絶滅への警鐘かな。
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地名論

2005年02月25日 | Weblog
各地で平成の市町村合併が進んでいる。そこで問題になっているのが新地名。
特に愛知県の知多半島の二つの自治体合併での新地名「南セントレア市」。隣市の新空港愛称がセントレア空港なので、その南に位置しているのにあやかって合併協議会が決定した。ところが住民ばかりではなく、全国から抗議があった。恥ずかしいとか言いにくいとかというもの。それで、新地名を白紙に戻し、いくつかの案の中から住民投票で決めることになった。これは、まだ合併の住民投票が済んでいないので合併そのものが否決されることを懸念したからのようだ。

もうひとつ、千葉県の「太平洋市」。3町1村の合併だが、九十九里浜で太平洋に8キロメートル面することになるのが理由のようだ。これも抗議がたくさんあったという。突飛な地名だからだ。協議会としては大きな地名になって発展をイメージしたものだろう。
また、沖縄の平良市を中心とする合併新地名「宮古市」に対しては、岩手県の同名の宮古市から思いとどまるよう反対があるという。

吸収合併のように合併対象の自治体に規模の差があるなら、地名は問題にならないようだ。対等合併の場合は難しい。どちらも自分の地名を残したいと思うから。それぞれの地名の一部をとって合成するのもよく行われてきた。郡内の市町村のみで合併が行われる場合は郡名を使うのが一般的か。

地名というものは、その土地の特徴をあらわしたもので昔から引き継いできた。特徴とは、歴史文化、役割、地形、生態などである。それらに決別して新たに出発することを選ぶ考えがあるのも当然だろう。今まで通りの地名であって欲しいのも人情である。旧地名が消滅されることなく新地名の下に残こせば、それほど悪くはないかもしれない。
小生としては地名はやはり、その土地の固有の特徴を顕わすものであって欲しい。無味乾燥な地名は軽い。安易に地名を決めるべきではない。

稲むらの火

2005年02月12日 | Weblog
この前、ネットの記事で「稲むらの火」が道徳の授業の副読本に載せられるというのがあった。この「稲むらの火」は、戦前、教師の中井常成が小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の創作「A Living God(生き神様)」を分かりやすく要約して教材化し、小学国語読本に載せられたもの。

「A Living God(生き神様)」は、小泉八雲が、毎日、夫人のセツさんから新聞の記事を読んでもらっていて、偶然、1854年の安政南海地震津波が和歌山の広村を襲ったことを知ってから作られたのである。
広村の高台に住む豪農浜口五兵衛が異常な引き潮に気付き、村民を助けるには刈り取ったばかりの稲むらに火を付けて高台に呼ぶしかないと思い、それを実行し、村民全員約400人の命を助けたというもの。自分の稲むらに火を付けて財産を失ったことになっている。
しかし、海洋学者の三好寿さんの現地調査によると、モデルとなった人物は浜口儀兵衛であり、稲むらは脱穀を終えたわら束であり、津波が数回押し寄せて来た後、夜だったので村民の逃げ道が分かるようにと火をつけたものとなっている。浜口儀兵衛が偉かったのは、津波の被害の後、私財で防潮堤を造らせたことであった。

副読本に載せられることで、道徳と津波教育ができるが、事実も教えておくべきである。津波教育なら、この前のインド洋大津波の映像と被害情報で充分だと思うが。

論理よりも情緒

2005年02月03日 | Weblog
NHKの深夜番組で「視点論点」という5分程度の番組がある。めったにみないのだが、1月31日の月曜日に偶然みた。
藤原正彦という数学者が日本の行政や経済を過激に批判しているのである。NHKとしては珍しい。変わった視点をもった人だなと思い、番組に引き付けられた。カメラ目線ではなく、うつむき加減に饒舌にしゃべっていた。
地方分権、ゆとり教育、グローバリズム、成果主義、競争原理というキーワードをあげて、これらを恐ろしいと言う。小学校での英語教育やパソコン教育などは教育の衰退をもたらすといって斬る。経済界で大学生が卒業してすぐ戦力になるよう教育してくれというのに対しても批判する。
これらのキーワードの論理はすべて正しいのだが、間違った選択であったと言う。日本の衰退はこれらの間違った改革という名の改悪でもたらされたのである。選択するときは「情緒」で行うべきだと言う。豊かな情緒は、書物によってしか得られない。そこには充分な国語教育が要るのであると言う。今の政財界の権力者は情緒不足なのである。

番組が終わってネット検索して藤原正彦氏の情報を収集した。あの作家の新田次郎の次男であり、藤原ていを母に持つことがわかった。そういえば、新田次郎に面影が似ている。著作もエッセイが多い。
なるほど、それで、国語教育と読書の大切さを訴える理由もわかるような気がする。
戦前の日韓併合についても、「新しい教科書をつくる会」などは、あの世界情勢では正しいと分析しているが、藤原正彦氏は論理は正しかろうと情緒に欠けると斬っているようだ。
久しぶりに影響を受けた。