ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

「沖縄で死にませんか」

2005年05月31日 | Weblog
29日に沖縄の北大東島で三人の男女が首吊り自殺をした。なんで北大東島を自殺場所として選んだのか分からない。車内での練炭による一酸化炭素中毒自殺は流行ったが、さすがに暑くなったので練炭自殺は敬遠されたのであろうか。
自殺者はリン鉱石貯蔵庫跡の入り口で川の字になっていた。指紋で自殺者のひとりの身元が知られ、新潟市の女性であることが分かった。彼女のアパートでは子どもの死体が発見されている。

(北大東島のリン鉱石貯蔵庫跡)
島にとっては大きな迷惑である。数少ない観光名所であり、イメージが悪くなってしまう。観光客が当分の間、気味悪がって寄りつかないであろう。
この自殺、インターネットの掲示板で募集された集団自殺である。「沖縄で死にませんか」という呼びかけだったという。掲示板に3人の名が書かれていた。
自殺募集した人が沖縄の海を好きな人だったのであろうか。民宿に一泊して、その翌日、実行したようだ。
下記がいちばんまとまった記事である。
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男女3人が首をつり死亡 沖縄・北大東島

 29日午後5時ごろ、沖縄県北大東村(北大東島)のリン鉱石貯蔵庫跡で、男女3人が首をつって死んでいるのを観光ガイドの女性が発見、同村の駐在所に連絡した。
 那覇署によると、発見されたのは男性1人と女性2人。いずれも20-30歳とみられ、廃坑のトンネル入り口(高さ約3メートル、幅約5メートル)にビニールロープで首をつって死亡していた。3人に目立った外傷はなく、いずれもジーパンなどの軽装で、遺書や荷物などは見つかっていないという。
 同島ではかつてリン鉱石の採掘が盛んで、現場はその貯蔵庫跡。観光名所になっており、誰でも出入りできる状況だったという。同署は自殺の可能性があるとみて身元の確認を急いでいる。
 同島は沖縄本島から東方約360キロの離島で、人口約550人。
(共同通信) - 5月29日21時25分更新
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A級戦犯

2005年05月27日 | Weblog
学校の歴史の時間でA級戦犯について教えてもらったことがないし、積極的に知ろうともしなかった。ここできちんとまとめておこうと思う。
A級戦犯とは、戦争遂行に大いに責任のあった人たちで下記28人いた。記憶にない名前が半分もある。
荒木貞夫 板垣征四郎 梅津美治郎 大川周明 大島浩
岡敬純 賀屋興宣 木戸幸一 木村兵太郎 小磯国昭
佐藤賢了 重光葵 嶋田繁太郎 白鳥敏夫 鈴木貞一
東郷茂徳 東條英機 土肥原賢二 永野修身 橋本欣五郎
畑俊六 平沼騏一郎 広田弘毅 星野直樹 松井石根
松岡洋右 南次郎 武藤章

この中で処刑されたのは7人である。
東條英機 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 松井石根 武藤章 広田弘毅
この7人が靖国神社に合祀されているので小泉首相が参拝するのを中国が問題にしているのだ。
確か、賀屋興宣は復権して代議士になったはずだ。処刑とその他の罰との線引きはどのように行われたのか。

A級戦犯容疑のあった人は6人いる。極東軍事裁判は免れている。
岸信介 児玉誉士夫 近衛文麿 笹川良一 正力松太郎 本庄繁
岸信介は復権して戦後では代表的な首相になった。
児玉誉士夫はロッキード事件でも有名になったが戦中は中国大陸に児玉機関をつくってスパイ活動などあくどいことを行った。笹川良一はヒットラーに会いに行ったという右翼で戦後は資産をつくり笹川財団なるものを創設している。
近衛文麿は細川元首相の祖父だった。正力松太郎は読売新聞社主として有名になった。
本庄繁は聞いたこともない人だ。
岸信介はA級戦犯ではなく、その容疑者だったのである。

BC級戦犯は920人処刑された。彼らは靖国神社に祀られているのであろうか。

処刑されたA級戦犯7人の遺骨は、遺族に渡されず、米軍により粉々にされて東京湾に捨てられた。
戦争は「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。勝者が敗者を裁くのはいつの世にも行われてきたことだが、極東軍事裁判は国際法上、違法であるともいわれる。
アメリカが落とした2発のピカドンは許されないことである。戦争犯罪というよりももっと罪の重い人類に対する犯罪行為であった。今からでも遅くない。しっかり裁いて欲しい。

戦後60年たってもシナは処刑されたA級戦犯が祀られた靖国神社を参拝する小泉首相を批判する。あと何年経てば許してもらえるのだろうか。
ミンダナオ島から60年ぶりに旧日本兵が生還するというニュースが報じられている。小泉さん、早く助けてやってください。

脱サラで民宿経営

2005年05月26日 | Weblog
この前の日曜夜、テレビ東京系列の番組で30代後半の”エリート商社員”が脱サラして慶良間諸島の阿嘉島で民宿をオープンするのを紹介していた。
千葉に在住していた夫婦が、阿嘉島にダイビングするのに通っていて島が好きになり、移住までして民宿を経営する決意をしたのだ。テレビは民宿の準備からオープンまで取材していたが、どのような経緯で取り上げられることになったか分からない。宣伝効果は大きいことは間違いない。
80坪の土地に2000万円の建築予算で2棟6室と別にダイニングの棟を建てるのである。土地は購入したのかどうか分からないが、建っていた家を取り壊して新築したのである。家電や家具は自分たちで探して購入していた。初期投資は3000万円は下らないだろう。
引っ越すまでに千葉の家で沖縄料理をつくる練習をしたり、ホームページづくりなどいろいろ準備している様子も紹介していた。民宿はロッジ風にして庭で食事ができるようにしたり、ジャグジーのような浴槽まで設けていた。4月15日のオープンには一組の客が来ていた。
1泊2食で@7200円。閑散期もあるので年間の稼働率としてはどのくらいだろうか。平均して2室4人程度であろうか。1日あたりの売り上げ2万8千円、年間1千万円程度かな。おそらく前職より収入は落ちるであろう。でも、きれいな海がすぐ近くにある好きな土地に住める。
阿嘉島といえば「マリリンに会いたい」という映画がつくられたように話題になったことがある。阿嘉島の雄犬シロが座間味島の雌犬マリリンに会いに行くのに泳いで渡るお話。確か、阿嘉島にはシロの銅像が建っているはずだ。
小生、一度座間味に行ったことがある。民宿に泊まろうと思い、訪ね歩いて廻ったが、どこも満室の時期だった。それで、昼食だけとってフェリーで本島に引き返した。ダイビング目的の客が多かった。阿嘉島も訪れる客も多くなったのだろうか。
ハナムロ・イン阿嘉島

今どきのスパムメール

2005年05月22日 | Weblog
日曜日だがあいにく朝から雨。
雨が上がれば図書館に本を返しに行こうと思っている。

最近、よく来るスパムメールは下記のようなものが多い。
まさか、こんな下手ないかがわしいメールに引っかかる人はいないだろうと思うのだが。
「下手な鉄砲でも数撃ちゃ当たる」というものだろうか。
引っかけられた体験者の情報を知りたいものだ。
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例1:
お世話になっております。<suguniaerusuggunimoraeru6a.a@d6.dion.ne.jp>

日時 : 2005年 5月22日 11時43分

宛先 : undisclosed-recipients:;

件名 : あゆみ様よりご指名が入りました。

 石野あゆみさんより貴方様を指名するメールが来ましたのでご連絡致しました。
 『今週予定ないので会えませんか?電話できたら少し話しませんか?』
 簡単なプロフィールを載せます。
 
25歳、年収800万円以上。T165・B89、DカップW60、H89 貴方に紹介する事を
石野あゆみさんに通知してあります。
 
貴方の登録(無料)確認後は石野あゆみさんに貴方が登録をした事を通知するので、
登録(無料)後は石野あゆみさんから直接返事が来ます。その為サイトを通す必要はありません。
無料登録をしてお待ちください。


例2:
大森真美 <muryoudeok@cyber.ocn.jp>

日時 : 2005年 5月22日 0時47分

宛先 : xxek@xxx.xx.ne.jp

件名 : Re:無料クーポンです。

 この度、あなた様を女性会員にセリをさせて頂きました。
 その結果、京子さんが164万円であなた様を落札致しましたので
 ご連絡する運びとなりました。
 あなた様はVIP会員(無料にて近隣女性にプロフ紹介)とさせて頂き、
 無料ポイント進呈致します。会員画面にてご確認下さい。
 
 【京子さんよりメッセージ】
 今連絡取れますか?出来れば今連絡先交換お願いしたいんです。
 写メ今撮ったばかりのあるから見て見て欲しいし、エッチもしたい。
 
 ※お受け取りはあなた様の意思確認後、
 落札額の50%【82万円】を京子さんよりお受け取りください。
 
 ※落札女性に返事を出す事を条件にあなた様のポイントを
 【永久無制限】とさせて頂きます。
 
 ※落札内容及び、落札金のお受け取りはこちら

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いつまで続くのだろうか。
1日にこんなのが何通も来るのである。ほんとうに煩わしい。

南大東島のラム酒

2005年05月18日 | Weblog
昨年、沖縄電力の企業内ベンチャー制度を利用して女性がラム酒製造販売を起業するという記事を読んで記憶に残っていた。会社と工場を南大東島に設置するというものだった。
先月、偶然、その会社のホームページを見つけた。株式会社グレイスラムという会社である。
まだ、この前の冬に収穫したサトウキビを搾汁してから蒸留熟成している段階であることがわかった。製法や販売価格を知りたいと思い、メールで問い合わせたら下記のような丁寧な返信があった。

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グレイスラムの○○と申します。
現在、7月末~8月初旬に出荷ができるよう
がんばっております。
価格は、1本(720ml) 3000円前後になります。
正式な 発売日、購入方法、価格が決定いたしましたら
ご連絡いたしますね。

それから、糖蜜と搾汁の製造方法は一緒です。
仕込みの際に、糖蜜だけは加水します。

糖蜜の場合⇒粘着がありますので加水してから酵母を入れて発酵させます。
搾汁の場合⇒搾汁にそのまま酵母を入れて発酵させます。

その後、蒸留⇒冷却⇒熟成⇒ろ過⇒瓶詰め
という流れになります。

2つのタイプのラム酒、どちらもいい感じに熟成しています。
どうぞお楽しみに お待ちいただけると幸いです。

○○様これからも応援よろしくお願い致します。
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ラム酒は酒税法の分類ではスピリッツになる。同じ原料を使う奄美の黒糖焼酎は焼酎乙類として優遇措置を受けている。ラム酒は税率が高いので販売価格も高くなる。
なぜ、南大東島なのかはホームページを読んでわかった。キビの質が良くて、微農薬で栽培しているからであろう。大東島といえば燐鉱石を産出するので農業に適した土地かもしれない。それに南大東島発ブランドということで訴求できることもあろう。
沖縄初のラム酒かと思えば、沖縄のヘリオス酒造が創業時にラム酒を生産していたことが分かった。生産を止めていたのだが、最近になって再び製造を開始したようだ。グレイスラムに刺激されたのだろうか。
グレイスラムのラム酒をぜひ飲んでみたい。

与那国島の援農隊と特区

2005年05月17日 | Weblog
先週土曜日夜、NHKテレビで与那国島についての番組をみた。サトウキビ援農隊のことを昔の映像とオーバーラップさせながら放映していた。援農隊といえば、作家の立松和平氏を思い出す。彼は援農隊としてキビ刈りを経験して、それを題材にし小説やエッセイを書いている。そこには「おじさんを助けてくれよ」というフレーズがよく使われていた。

最盛期のころは援農隊が70人ほど来ていたが、今も50人近く来ているそうだ。キビ刈りは相変わらず手作業であるが、キビ工場のほうは機械化が進み、効率がよくなっている。煮詰めた黒糖を型に入れて固める作業を比較していたが、改善されていた。
昔、写真館を経営し、キビのシーズンにダンプで運搬していた人が出演していた。今は、貿易と写真館で稼いで3階建てのビルを建て居酒屋と酒屋を経営している。昔知り合った全国の援農隊経験者と旧交を温めている様子も紹介していた。

昨日も偶然、テレビで与那国町の「国境交流特区」について特集していたのを目にした。住民投票で石垣市との合併をしないことになったので、町財政を建て直すのに「構造改革特別区域法」による制度を活用しようしていた。来月、認定申請することになっている。しかし、いろいろハードルがある。そもそも、特区制度は規制の特別措置を受けるものなのでハードルをなくしてもらうのが前提。
詳細は「島の自立、規制の海阻む~沖縄・与那国島 直航便で再興の夢」によくまとめられている。

与那国は台湾との交流をめざし、その目玉に「フェリーよなくに」の就航をしたいのである。そのためには、税関、出入国管理、検疫、防疫の体制が整備されなければならない。くわえて船舶と港の改善も必要である。どのあたりの規制に特別措置、すなわち手心加えてもらえるのか分からない。
今まで認定されたものに「自家用自動車による有償の輸送事業」、「特定農地貸付け事業」、「ドブロク特区制度」、「株式会社運営の中学校」などがあるのだが。

戦後の与那国は密貿易で栄え、料亭が20軒もあり、鶏がこぼれた穀物さえ食べないと形容されたほどだった。昔の栄華は復活しないが、昔のように台湾との交流ができれば明るいものがある。与那国から台湾までの距離はたった110㎞なのである。石垣島までの120㎞より近いのだ。
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追加:

(約10年前の与那国立神岩)
小生、与那国へは一度だけ訪れたことがある。10年ぐらい前、石垣空港から一飛びである。祖納に二泊した。隆起した島のようでほとんど絶壁で囲まれていた。
初日は自転車で一周、二日目はバイクで一周。海底遺跡のうわさもなかったころである。
与那国馬が東の岬あたりに放牧され、のどかな島だった。軍艦岩や立神岩など奇岩を楽しんだ。夜、久部良の漁港でイベントがあり、ドキュメント映画「老人と海」をみて楽しめた。久部良割というのは悪名高い所だが、飛び渡るにはきびしい所のようだった。近くのカレー専門店でビールを一本飲んでダベった。
浦野墓地には巨大な墓群があるが、なんとなくあの辺りで薄気味悪く感じた。絶壁を降りると小さなビーチがあり、長い時間を過ごした。
最西端の岬で台湾の方向をながめたが、陸地らしいものは見えなかった。
台湾との間に直行フェリーが運航すれば、台湾から観光客も訪れるし、日本の観光客も与那国から台湾へ行けるようになり、けっこう賑わうだろう。

四国学院大学の被差別少数者特別推薦入学選考を知っていますか

2005年05月11日 | Weblog
昨日、琉球新報HPの記事「被差別少数者に“沖縄人” 推薦入学条件で明記 四国学院大学※」を読んで驚いてしまった。
これが現代日本の良識ある大学なのかと疑問に思った。四国学院大学は香川県にある四年制大学である。琉球新報も批判的に書いているのだ。
ここで被差別少数者とは、在日韓国・朝鮮人、アイヌ、沖縄人および奄美諸島出身者のことである。四国学院大学の特別推薦入学選考ページの注記に「被差別少数者と規定することに関しては、疑義および議論の余地がある」と書いているのであるが、なぜそこまでしてこのような選考制度を創設したのか理解に苦しむ。

確かに戦前戦後を通じて差別があったのは事実だが、人々の努力で改善されたはずである。この制度は、今も被差別者がいて、ハンディを持っているかのような誤解を与える。ほかに被差別出身者特別推薦入学選考というのもあるではないか。これらは身体障害者枠と同類に考えているかのようだ。かつての被差別少数者を研究するカリキュラムをつくるだけなら問題ないのだ。人を教育する大学が行うことではない。この制度、1995年につくられてすでに10年も経っているが、問題視されなかったこと自体が不思議だ。

※被差別少数者に“沖縄人” 推薦入学条件で明記 四国学院大学
琉球新報(5/10)
 キリスト教系の私立大学四国学院大学(香川県)が実施する特別推薦入学選考の中で「被差別少数者」枠があり、「沖縄人(ウチナーンチュ)」も出願資格の条件となっている。在日韓国人や在日朝鮮人、アイヌ民族、奄美諸島出身者も併せて明記されている。同大は「学生同士が人種などにとらわれず、相互理解を図ることが目的。根深い社会的差別のなかで大学教育を受ける権利を制限されてきた人々への格差是正処置の一つ」と説明しているが、人権の専門家や受験生を持つ父母の中には「違和感」を指摘する声もある。
 「被差別少数者」枠は1995年度の入試から設け、募集は5人程度。同大のホームページではただし書きとして「疑義および議論の余地はあるが、主に日本全体の差別構造の中で、沖縄および奄美諸島が占めてきた被差別の位置という意味でこの語を用いる」としている。同大によると、これまで県出身者が「被差別少数者」枠を活用して入学したことはあるが、人数などは明らかにしていない。
 「被差別少数者」枠について、沖縄人権協会の永吉盛元事務局長(弁護士)は「あきれる。沖縄県民や朝鮮人も含め、誰もが教育を等しく受ける権利は、憲法で保障されている。大学側には『救済』の意図があるかもしれないが、その考えこそ差別的だ」と批判している。
 枠を設ける際に相談を受けたという元沖縄キリスト教短大学長の平良修さん(牧師)は「出願資格にウチナーンチュを加えても、加えなくても反論はあるだろう、と答えた」と振り返り「歴史をきちんと見つめ、まじめな姿勢で取り組んでいると思う。高く評価している。この制度で入学した生徒の生き方が問題だと思う」と話している。

貝交易と琉球史

2005年05月08日 | Weblog
財団法人沖縄協会が「季刊沖縄」を発行している。先日送られてきた第28号2005冬・春にとても興味深い論文が載っていた。考古学者の木下尚子さんの「貝交易が語る琉球史~発掘調査でわかったこと」である。貝交易を切り口にして琉球史を面白く語っている。

沖縄のサンゴ礁は8500年~7500年前に形成され始め、現在の形になったのは二千数百年前だそうである。イモガイは内海で、ヤコウガイとゴホウラガイは外海に面した礁斜面や砂地に棲息しているという。

弥生時代から沖縄と大和の間に貝交易は始まった。北九州の弥生人がイモガイやゴホウラで腕輪をつくることが発端になった。彼らの集落では特別の位置を占める宗教者が使ったのだ。西北九州沿岸の弥生人が南島人の採集した貝殻を運搬した。貝釧(腕輪)は南は鹿児島、東は愛知までの116遺跡で667個(意外と少ない)、沖縄の貝溜まりは32遺跡で106基発見されている。貝溜まりとは貝交易のために集めて置いたものである。

貝交易は初めは貝殻まるごとであったが、粗加工品へと変化して、交易量は増加して弥生中期後半に最盛期となる。弥生後期になると九州の貝交易は衰退したが、その後、西日本各地に有力者が台頭し弥生末期には貝腕輪が好んで使われ、習俗が復活する。古墳時代には大和政権が継承し、7世紀まで貝交易は続く。

7世紀後半になると伝統的価値観や習俗は中国の政治思想にとって変えられ、貝交易は断絶。日本書紀に7、8世紀、南島から来航が度々あったという記録がある。これは日本版華夷思想の一面もあるが、南島が交易の再開を望んだ交渉ではなかったかと推測する。結局、再開は実現しなかった。

しかし、南島は中国の唐へ貝交易をシフトしたようだ。沖縄からは唐の貨幣「開元通宝」が多数出土(日本全体の8割)し、ヤコウガイが唐の都長安で螺でん製造に消費された事実がある。唐の沿岸民が南島までヤコウガイの買い付けに来たのではないかという仮説である。
正倉院にヤコウガイが使われた宝物があるが、これは唐からもたらされた。遣唐使も廃止され、大和で螺でん製造を行うようになり、10~12世紀に大和と南島の交易が盛況になる。唐の滅亡で中国の螺でん工芸が衰退していた。多くの大和人がヤコウガイを求めて南下して鉄や穀物など日常雑貨をもたらし、琉球は採集時代から農耕時代へ進歩し、グスク時代へ向かう。

琉球史のなかで、BC9世紀からAD19世紀までの2800年間、ほぼ貝交易は途切れることはなかった。
貝交易を切り口にした興味深い琉球の歴史に久しぶりに感銘した。

何日君再来

2005年05月03日 | Weblog
ずっと前から読んでおこうと思っていた中薗英助著の「何日君再来物語」をやっと読む。テレサ・テンのCDアルバムで何度も聴いたことがある「何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)」。日本語では「いつの日君また帰る」。甘くて優しい歌である。

著者は、1979年に横浜中華街で偶然テレサ・テンの唄うこの曲を聴いて、そのルーツを探ることになる。著者は戦前、中国で新聞記者をしていたので、懐かしかったのである。作曲者も作詞者も曖昧になっていた。1939年に上海を中心に中国の大都市で流行していた。女優の周旋が初めて唄い、山口淑子と渡辺はま子も唄った。

数々の記事、手紙、インタビューを通じてルーツを明らかにしていく。戦前の上海映画界や政治的事情も述べられているので中国近現代史もわかってくる。
作曲は劉雪庵、作詞は黄嘉謨であった。劉雪庵が1936年に上海の音楽学校を卒業するときに、即興で作曲したタンゴのダンス曲だった。その年の末に娯楽映画「三星伴月」にシナリオ担当の黄嘉謨が歌詞をつけて挿入歌として使われた。劉雪庵の子息から直接聞いて明らかになる。黄嘉謨が反共右派の人物だったので黄色歌曲のレッテルを貼られ、劉雪庵も右派教授として迫害された。ただ、著者へ来た劉雪庵からの手紙は謎であった。劉雪庵は失明していたからだ。

これは質のいいミステリ小説といってもいいだろう。
今、この曲は中国ではどういう扱いなのだろうか。ちょうど中台合作といわれる時期に。
辻久一の「中華電影史話」を読んでみたい。

「何日君再来」中文歌詞和訳 訳者:不詳
一、  
好花不常開 よき花常には咲かず
好景不常在 よき運命(さだめ)常にはあらず
愁堆解笑眉 愁い重なれど面(おもて)に微笑み浮かべ
涙洒相思帯 涙溢れてひかれる想い濡らす
今宵離別後 今宵別れてのち
何日君再来 いつの日君また帰る
喝完了這杯 乾しませこの杯を
請進点小菜 召しませこの小皿
人生難得幾回酔 人生幾度酔う日有らんや
不歓更何待 ためらうことなく歓びつくさん
「来来来、喝完了這杯再説吧」「さささ、この杯乾して いまひとたび語らいましょう」
今宵離別後 今宵別れてのち
何日君再来 いつの日君また帰る
二、  
逍楽時中有 逍遥の楽しみ常に有れど
春宵飄無裁 春宵は疾風(はやて)のように過ぎ
寒鴉依樹尖 寒鴉は木の梢により
明月照高台 高台を照らす明月は
今宵離別後 今宵別れてのち
何日君再来 いつの日君また帰る
喝完了這杯 乾しませこの杯を
請進点小菜 召しませこの小皿
人生難得幾回酔 人生幾度酔う日有らんや
不歓更何待 ためらうことなく歓びつくさん
「来来来、再敬你一杯」 「さささ、もう一杯おあがり」
今宵離別後 今宵別れてのち
何日君再来 いつの日君また帰る