ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

エリセーエフを知っていますか

2005年06月21日 | Weblog
「エリセーエフの生涯~日本学の始祖」:倉田保雄、中公新書を読んだ。
明治41年に東京帝国大学文学科に入学した帝政ロシアの留学生がいた。大富豪の息子のエリセーエフ、19才だった。11才の時、パリ万国博を見学して東洋文化に関心を持っていた。

本郷に一軒家を構え、お手伝い数名を雇い、家庭教師3人をつけ日本語の特訓を受けていた。そこいらの苦学生とはスケールが違う。漱石門下にもなり、芸者遊びもし、日本舞踊もならい、さらに歌舞伎の吉衛門や菊五郎との交遊もあった。卒論は「芭蕉研究の一片」で準優等卒業をしたほど優秀で大学院にも進んだ。
大学院課程を修了しロシアに帰り、ペトログラード大学で教鞭をとっていたが革命で不自由になり亡命する。パリに移り、ソルボンヌ大学で教鞭をとり、フランスに帰化する。そうこうしているうちに、米国のハーバード大学の要請を受けて東洋語学部教授に就任。ライシャワーなど数多くのジャパノロジスト(日本学者)を育てる。戦争中は米軍語学将校の日本語教育や日本文化の教育にも従事した。神田神保町の古本屋街が空襲を免れたのは、彼がマッカーサーに進言したからだという。
戦後、日本を訪れ、神保町古本屋で資料を買いあさり、古書を高騰させる影響を与えたという。昭和32年、米国の教授の職を辞しパリに戻る。日本文化と漱石文学をこよなく愛し、昭和50年パリで死去した。

小泉八雲以上の大物学者なのだが、この著書で彼の存在を初めて知った。教育活動に熱心であまり著書を残さなかったことで知られなかったのかもしれない。エリセーエフの手に入りやすい著書として「赤露の人質日記」:中公文庫がある。

プロジェクトXはまだ続くのか?

2005年06月17日 | Weblog
NHKのテレビ番組である。2000年3月に始まってからすでに5年以上、まだ長寿番組とはいえないが結構息が長い。
海老ジョンイル(前会長)の遺物といわれ、また事実と異なることを放映し物議も醸した。企業の宣伝番組だとか企業から協賛金をとっているのではないかという記事も見られる。もうそれほど続かないのではないか。最近のは面白くない。
この前の第174回は名古屋城再建がテーマだった。ゼネコン間組の難工事挑戦と鯱を金箔で被う技術復活挑戦にポイントを置いていた。第1回は富士山レーダー建設がテーマでアナウンサーは久保純子と国井雅比古であったという。いつの間にか久保純子から膳場貴子に変わった。国井雅比古は変わらないが今のコンビは大学同窓生である。久保純子はいつまで経っても素人ぽいところが好まれるのだろうか。今はTBSテレビで見かけるが同じ調子である。
テーマ分野は、技術革命、事件、難工事、自然保護など様々である。ドラマ性を持たせるために誇張など演出が多いことだろう。ナレーターの田口トモロヲの独特のしゃべりや関係者をスタジオに呼んで苦労話をさせて泣かせるのも演出のひとつだ。誇張を超えて創ってしまうことで今回のように抗議があったのである。
印象に残ったのは第73回の「8ミリの悪魔VS特命班」と第78回の「炎を見ろ、赤き城の伝説」である。ともに舞台は沖縄で、前者はゴーヤーなどに被害を与える害虫ウリミバエの殲滅、後者は首里城の復元工事をテーマにしたものだった。詳細は小生の日記とホームページに書いている。
「ウリミバエ殲滅の軌跡」「首里城の赤・朱」

(ゴーヤーに卵を産みつけているウリミバエ)


(左は戦前の首里城正殿のガラス版写真でカラーは後に着色されたものである。右は復元後の現在の首里城正殿。さあ、間違い捜しをしてみよう!)

ひめゆり退屈問題

2005年06月12日 | Weblog
青山学院高等部の英語入試問題が物議をかもしていたが、学校側が謝罪したことで一件落着か。
詫びるなら、そういう入試問題をつくるなといいたい。
下記は学校のホームページでの謝罪文である。
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2005年度の青山学院高等部一般入試英語試験問題におきまして、大変不適切な表現があり、元ひめゆり学徒の方々はもとより、沖縄の方々のお気持ち、また全国の皆様のお心を傷つける部分がありましたことを、心よりお詫び申し上げます。
全文
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問題の英文であるが、小生の拙い英文読解力で要約してみたら下記のようになる。
戦後60年経って、戦争体験の証言者が少なくなってしまった。もう20年もすれば直接の証言は聞けなくなるだろう。戦争体験を継承して行くには映像が効果的だと思うと書かれている。
学生時代に沖縄旅行で反戦平和学習を受けた経験の話が続き、防空壕での暗闇でガイドがあまり説明しなくても、戦争の悲惨さをイメージできたそうである。その後、元ひめゆり学徒から戦争体験を聞くのであるが、彼は『退屈で飽きてしまった』そうだ。でも他の生徒たちは感動した様子だったという。
次に中国で行われたサッカーのアジアカップのことに移り、中国人サポーターのひどいブーイングは戦争に関する歴史教育の影響であろうとしている。多面的に歴史を学ぶ大切さを言っているようだ。
最後に当校に入学すると長崎で原爆被爆者から体験を聞くことができると述べている。

論点がいろいろ分散して伝えたいことがはっきりしないが、戦争体験を継承していくことは大切であることは伝わってくる。
こういう文脈のなかでマスコミは『退屈で飽きてしまった』だけを取り上げたのである。
ひめゆり学徒の語り部に好意的でないことについては、吉田司の「ひめゆり忠臣蔵」を思い出してしまう。何度も同じことを繰り返し話すことで「ひめゆり学徒」が美しく神話化されてしまっていることを批判したものである。興味深い内容の本で一読の価値がある。

(ひめゆりの塔とガマ)
小生も、「ひめゆりの塔」を二度訪れた。吉田司によれば「ひめゆりの塔」は沖縄観光の厄払いだそうだが、そういうつもりはなかった。「ひめゆりの塔」は分からないほど小さかった。数十㎝の高さの石に「ひめゆりの塔」と書いているのでやっとこれかなと思えた。近くにある慰霊碑のほうが大きいので、最初はこれかなと思った。すぐ近くに垂直のガマがあり、底から横にガマが続いているようだ。ここにガス弾が投げ込まれ約50人のひめゆり学徒が亡くなったという。平和資料館にも入った。200人以上の故ひめゆり学徒の顔写真が展示されている部屋は入りにくい人が多いようだ。霊魂がまだ彷徨っているのかもしれない。 

出版再考 このままでいいのか、わるいのか?

2005年06月08日 | Weblog
「季刊・本とコンピュータ」という雑誌がある。時々、図書館で読んでいる。最新のが2005年春号で、面白そうな座談があったので読んでみた。「出版界がこのままでいいのか、わるいのか?」というテーマで、紀田順一郎 鷲尾賢也 佐野眞一 小田光雄 永江朗の5氏が好き勝手にしゃべっていて、どうもかみ合っていない。論点が分散していて、本当に座談やっているのかな?と思った次第である。でも、面白かった。

出版業界は書籍1兆円、雑誌1.5兆円だという。大手出版社は書籍部門は赤字なので雑誌部門で補填しているのが現状。各社が新書版を競争のように発行している。新書の刊行点数は10年前の4~5倍になったが、逆に売り上げは低下しているのだそうだ。
若い人が新書を読まなくなり、その教養が衰退し、出版業界もジリ貧気味なのだと言っている。さらに中高年も新刊書に読みたい本がないので、神保町界隈で、リュックサックを背負った人が古本を漁っている光景が多く見られるという。セドリもいるだろうけどね。古本はけっこう売れているので「新刊不況」かな。
100年間のベストセラーを分析した本があり、1960年にフォッサマグナがあり、そこからベストセラーはバカになったという。レベルが相当落ちたということであろう。読者も本もどちらにも原因があるのである。

しかし古書業界も不景気らしい。阪神大震災や新潟中越地震の後、処分本が大量に神田古本街に流れてきて、価格の低下が生じたという。供給が増えれば価格が下がるのは経済の法則である。地方の古書店もつぶれ、大量に他の古本屋に本が流れているということを紀田順一郎氏が青森の林語堂の話を例に上げていた。でも林語堂の主人はホームページで毎日小説を書いていて、そのなかでの話なので本当の話かどうか分からないよ 紀田さん。紀田さんも読んでいるらしい。

思うに、従来の街の古書店の景気が悪いのは、インターネットの普及の影響があるでしょう。誰でも古本を売れる時代になったのだから。楽天フリマ、アマゾン・マーケットプレス、自前のホームページで古本を通販している人が増えた。ネットに乗り遅れた従来の街の古書店の将来は暗い。加えてインターネットでは価格競争が起こりやすいので価格低下に拍車をかけている。

「季刊・本とコンピュータ」は次号で終刊になるという。さびしいね。

空中都市?マチュピチュ

2005年06月05日 | Weblog
木曜日のNHK番組「世界遺産の旅」は面白かった。インカ帝国により15世紀に建設された謎の空中都市マチュピチュだった。リポーターは中堅アナの藤井康生氏で、大相撲中継のアナウンサーをやっている人だ。
この世界遺産、自然と文化が共存した複合遺産で貴重である。インカ帝国の首都だったクスコから列車で4時間もかけてアグアス・カリエンテスまで行き、そこからバスに乗り換えてマチュピチュの近くへ行き、標高2400㍍のマチュピチュへ徒歩で登ることになる。マチュピチュへは年間45万人が訪れるそうだ。

マチュピチュとは「老いた峰」の意味だが、遺跡はふたつの峰の間の尾根に展開する。その広さ9㌶で、石組みの壁と床がほぼ完全に残っている。16世紀にインカ帝国はスペインによって滅ぼされたが、このマチュピチュはスペイン人に発見されず、1911年になってアメリカの歴史学者によって発見された。出土品はすべてアメリカへ送られていた。

今回は、最新の研究からマチュピチュの謎に迫ろうとする。
遺跡からは174体の人骨が発見されている。男女半々だったそうだ。遺物には武器はなく、スズや銅の装飾品があり、平和で豊かな生活をしていたことが窺われる。
以前に、滅ぼされたインカ帝国の皇族が逃れて新たに隠れるようにマチュピチュを建設したのだという説を聞いたこともある。だが、16世紀のスペイン人が書いた歴史書には「ピチュをインカユパンキが治めた」と書かれている。インカユパンキとは、第9代皇帝チャパキュティである。
なぜ建設したのか。遺跡には太陽を観測する施設があり、冬至や夏至を知るようになっていた。インカとは「太陽の子」の意味だし、観測と儀礼の場としてマチュピチュが建設されたのではないかと推測していた。
当時、500人以上の人口があったという。500人程度で「都市」といっていいかどうか。山の斜面には石垣で段々畑がつくられ、トウモロコシが栽培された。この段々畑のことをアンデネスという。トウモロコシは炒めて食べるほか、チチャという酒にする。このチチャは神にも捧げられる。今も近くの農村では、その風習が残されている。高いほうの峰ワイナピチュの頂にも畑がつくられていた。
建築資材は遺跡近くから切り出して使われていた。インカ帝国は鉄器を持っていなかったので、鉄の含有量が多い硬い石をハンマーみたいに使ったそうである。人々は、いろんな地方から集められた。頭蓋骨に後頭部を長くしたものが多いのは、石工が得意な地方から連れてこられたと推測していた。

おそらく、インカ帝国が滅びてしばらくして、人々はマチュピチュを去ったのではないだろうか。なぜなら帝国の儀礼は必要なくなり、不便な陸の孤島を去って便利な土地へ移住したことが想像できる。
今もペルー人によって発掘が進められている。新たな発見が期待される。
マチュピチュの遺跡は写真ではよく見たが、映像で長くみたのは初めてだ。為になった。行ったような気分になれたようだ。