ある旅人の〇〇な日々

折々関心のあることや読書備忘を記録する

「ある神話の背景」を読んで

2005年08月11日 | Weblog
朝日新聞の8月5日のページに「沖縄戦・集団自決記述で大江氏らを提訴 元軍人と遺族」
という記事がある。
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太平洋戦争の沖縄戦で起きた住民の「集団自決」を命令した、などとうその事実を書かれて名誉を傷つけられたとして、大阪府在住の元軍人と遺族が5日、「沖縄ノート」の著者で作家の大江健三郎氏と出版元の岩波書店(東京)を相手取り、総額2000万円の慰謝料と出版差し止めなどを求める訴訟を大阪地裁に起こした。
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ノーベル賞作家の大江健三郎の「沖縄ノート」は、相当むかしに書かれたものだが、今ごろになって名誉毀損として提訴するのは、それなりの事情があったのだろうか。

座間味島の守備隊長だった梅沢裕少佐の件については当事者の住民の告白によって集団自決が軍命によるものでなかったことが明らかになっている。虚偽発言には遺族年金の受給資格が絡んでいたというが。
渡嘉敷島の守備隊長の故赤松嘉次大尉についても曽野綾子のルポ「ある神話の背景」によって、神話的悪人にされた経緯が分かっている。

最近、「ある神話の背景」(PHP文庫、1992年発行)を読んだのでそのことについて書いておきたい。

(慶良間諸島の渡嘉敷島と曽野綾子)
曽野綾子は昭和43年に戦中の沖縄女性徒の記録についての執筆取材で沖縄に行ったのであるが、渡嘉敷島の集団自決の資料を目にしてその真実を追うことになった。渡嘉敷島の当時の指揮官である赤松嘉次大尉、海上挺身隊第三戦隊長、当時25歳が告発された文章であった。曽野は当事者への執拗な取材で事件を明らかにしていく。

赤松大尉の部隊は、小型舟艇に爆弾を積み込み、米軍鑑に特攻する人間魚雷であったのだ。島尾敏雄もそのころ奄美の加計呂間島で同じ任務についていたが、米軍上陸もなく、ミホさんと恋仲になっており、悲劇は避けられたのであろう。
渡嘉敷島の集団自決は昭和20年3月28日朝に行われた。島は艦砲射撃や米軍上陸でパニック状態になっていた。赤松大尉は人間魚雷で出撃準備をしていたのであるが事情でできなかった。そこで北(にし)山に転進(退却)して米軍を迎え撃つつもりであった。地下壕など掘る余裕もなく、蛸壺程度の壕をやっとつくったようだ。
軍と村民の間の連絡は駐在巡査が行っていた。赤松大尉は村民のことは考える余裕はなかった。巡査が大尉に村民はどうすればよいかと聞いたので、一カ所に集まったほうがいいとアドバイスした。場所も指定しなかったし、自決命令も出していなかった。
しかし、村民は巡査が集合指示したのを軍命令として受け取った。勝手に集合場所は軍の陣地に近い北山の谷(恩納河原)に決め、豪雨の中をパニックになって集まった。北山の谷には御嶽があったので自然と集合場所に決まったのであろうか。村民の中には防衛隊員もいたので手榴弾を持っていた。赤松大尉が自決用に渡したものではなかったのだ。最初、グループで手榴弾で自決しようとしたが、使い方を知らないので不発が多かった。そこで、棒、鎌、ナイフ、石ころ、縄で成人男子が弱者の女・子どもを殺すという阿鼻叫喚の状況になってしまった。集団パニックの心理状態だろうか。329人の犠牲者が出たのである。

昭和25年に沖縄タイムス社が「鉄の暴風」という戦史を企画出版した。執筆者は大田良博氏であった。時間の余裕もなく、渡嘉敷の集団自決については、事件当時に島にいなかった二人の伝聞で聞き取り、それをそのまま執筆した。村民は軍陣地の地下壕に入ることを拒否され、集団自決を命令されたと書かれたのだ。それによって赤松大尉は「神話的悪人」にされてしまった。「鉄の暴風」の文章がそのまま、遺族会の「渡嘉敷島の戦闘概要」、大江の「沖縄ノート」、家永三郎の「太平洋戦争」、中野好夫らの「沖縄問題20年」に引用され、「神話的悪人」伝説が定着した。
でも、赤松大尉の部隊が数名の島民を処刑などにした事実はある。それは軍隊の常識の範囲内であった。赤松大尉が集団自決命令について積極的に否定しなかったのは、結果的に島民を死に追いやったのも事実であり、遺族年金の受給もおもんぱかる気持もあったようだ。

提訴した関係者は、名誉回復をきちんとした形でやって欲しいのではないだろうか。
なお、渡嘉敷村の公式ページの白玉之塔には「パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決しました」と誰に指示されたのか曖昧になっている。指示はなかったのではあるまいか。

軍隊は民衆のためにあるのではなく、国体維持のためにあるのだ。その維持のためには民衆は犠牲にされることもあることを知っておかねばならない。

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4 コメント

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Unknown (satoru)
2005-08-12 01:57:16
>軍隊は民衆のためにあるのではなく、国体維持のためにあるのだ



あまりにファシスト的な意見に怒りを覚えます。そういいきってよいものでしょうか?
返信する
突然ですが (どーくん)
2005-09-14 09:28:22
こんにちは。

はじめまして。



大変遅い報告になりましたが、

トラックバックさせてもらいました。

キーワードでひっかかったことと、

論調の面白さに惹かれただけで、

他意はありませんが、

しかしご迷惑なら失礼かと思い、

ご挨拶の意味も込めて、

こうして書き込みをした次第です。



末永く付き合っていただければ幸いです。



では。

返信する
リアルとリアリティ (miyahira)
2007-09-29 19:31:09

安仁屋 政昭 陳述書
http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/chinzyutu2.html

沖縄の出張尋問が終わった後の1988年3月30日、富山氏は、私に「玉砕場のことは何度も話してきた。曽野綾子氏が渡嘉敷島の取材にきた1969年にも、島で唯一の旅館であった『なぎさ旅館』で、数時間も取材に応じ事実を証言した。あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われるとは夢にも思わなかった。事実がゆがめられていることに驚いている。法廷のみなさんに真実を訴えるためにも、わたしの証言を再確認する次第である」と語っています(乙11号証-70頁上段)。
返信する
曽野綾子の嘘 (和田)
2009-04-27 15:45:47
ある神話の背景」の曽野の取材方法等に関して少し調べると曽野自身が語っている箇所が2つありました。

1つは「鉄の暴風」に関する太田氏との論争で下記にあります。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/103.html

そこには、『私は赤松氏とは、ほかの人ほど接触しなかった。こういう場合の当事者が何をいっても弁解だということになることは目に見えているから、私はむしろエネルギーを省きたかったのである。はっきりしておきたいのは、私が赤松氏をかばう理由は何もないということだ。私は赤松氏の親類でもない。取材の時に一度訪問したことはあるが、それ以来遺族との交渉もない。 』と書かれています。


もう一つは下記にあります。

http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html

そこには、『もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。』と書かれています。


「ある神話の背景」30ページ以下には、昭和45年9月17日において曾野が赤松等に会い取材したことが明記されています。

ところが赤松が1971年6月21日付で投稿した雑誌 ?「青い海」-下記URLの中の雑誌コピーを拡大すると写真と以下のような記載があります。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/840.html


見開きコピーの左ページ写真には『つい先頃、名古屋で沖縄の召集兵も交えて旧隊員が旧交をあたためた。取材中の作家・曾野綾子さんの姿もみえる』とあり、写真左側の地図を指し示すような人物は見開き右ページの赤松その人にみえる。右ページの写真は若い頃と思われる写真と似てい。名古屋の取材の中に赤松が居た可能性は高い。少なくとも時間的に赤松の投稿が名古屋の会合を踏まえているとはいえる。

そうであれば前記の(曾野は赤松と一度しか会っていない)という言い分は意識的な嘘である。太田良博氏が複数の自決失敗者を集めた証言と違って赤松は渦中の張本人に他ならない。季節の異なる時期に大阪と名古屋という遠く離れた地域のホテルと旅館 ?で雑誌の連載の準備のため取材をしている。


これらの資料を照合すると

Ⅰ 曽野は赤松と複数回会っている可能性が強い。

Ⅱ 曽野は、赤松隊の一人一人と個別に取材したというのは明らかな嘘。

ということになります。

取材法についてこのような嘘をつく必要は赤松への肩入れ以外考えられません。

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