GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「人生初の紅葉狩り」2011京都平安神宮・知恩院・円山公園・八坂神社

2011年12月02日 | Weblog
昨夜はホテルで2本の洋画を鑑賞。
映画館で見たマット・デイモン主演、クリント・イーストウッド監督の「ヒアーアフター」(こちらは秀作)と
ロバート・デ・ニーロ主演の「ストーン」(こちらの作品はあまりお薦めできない駄作でした)

無料のモーニングセットを食べて京都南インター近くのホテルを出たのが、ちょうど12時。
京都市美術館に向かいましたが、「夢二」だったので近くの平安神宮の紅葉見物に変更。
今日の予定は未定だったので気分で行き先を決めました。

7)平安神宮
  立ち寄った平安神宮でも紅葉は見られました。

 

 

 

 

8)知恩院
  知恩院は、全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。
  法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれたお寺です。
  江戸時代、元和7年(1621)、二代将軍徳川家忠が三門を建立、
  寛永16年(1639)に徳川家光公が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられた。
 
 

 
 木造建築としては日本最大級の三門(国宝)!
 一般には寺院の門を称して「山門」と書くのに対し、知恩院の門は、「三門」と書きます。
 これは、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という、
 悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)を意味しているそうです。
 

 

 
知恩院奥の納骨堂(私の後ろ)付近に素晴らしい紅葉を発見!
モミジが紅葉で色の染まり方が微妙に変化している様子がとても美しく観賞できます。
右の方が南側で日当たりが良く左側がまだ緑色で、少し上が橙色に染まっています。
一番のお気に入り写真になりました!

 

9)円山公園
  知恩院の横道から円山公園に入る
 
 敬愛する竜馬と慎太郎の銅像を発見!

 

 

 


10)八坂神社
   円山公園を降りていくと大阪の住吉っさんと雰囲気が似ている八坂神社に到着。
   かつての社名から祇園さんの愛称で呼ばれ、7月の祇園祭(祇園会)で知られ、
   旧社格は官幣大社。中世には二十二社の下八社のひとつとされた。
   慶応4年(1868年)の神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、元々「祇園神社」
   「祇園社」「祇園感神院」と呼ばれていたのが、「八坂神社」と改められた。

 

 

 

 
 これで「人生初の紅葉狩り」紀行はおしまい!


           
 最近wowowで録画した「座頭市」シリーズ全27本を毎日のように観ています。人間の悪と善、貧困と富、農民や町民とヤクザ、哀愁に満ちた女郎たち、悪代官とつるむ卑しきもの達、身を崩し酒に溺れた浪人たちが毎回のように登場します。目が見えないの座頭市を卑しめた輩たちは、最後にはたたっ切られ、弱い人たちに情けをかけた市はその重さに堪えきれず、また一人その町を去ります。今更ながら良くできたシリーズだと感心しながら観ています。

          

 劇場で見たのは小学校から中学生時代でしたが、今見ると、全然違う印象を受けます。子供が見る映画がではなく、枯れゆく大人の映画だったと気づきました。座頭市映画以降、私は007を代表するアクション系の洋画に傾倒していきましたが、それらの映画を今観ると、「どうしてこんな映画に夢中になってしまったのだろうか」と思わざるを得ません。その後の「ジョーズ」や「ダイ・ハード」、「インディージョーンズ」等は、確かに心がワクワクするくらいに面白い映像を見せてくれましたが、ただそれだけで心の中に何(その後の人生で糧になるもの)も残っていないような気がしてなりません。  

            

淡い色を付けて満開になり、散っていく桜。
新緑の木の葉が様々な色に染まり、冷たくなった風に吹かれて散っていく木の葉。
自然の営みには人の一生を当てはめて感じるもものが潜んでいる。
桜や紅葉に感動する人たちはきっと同じ気持ちの人たちがたくさんいるに違いない。

 自然の営みや人の心の動きがだんだん分かるようになると、周囲の世界や自然の移り変わりが違って見えてくるようになりました。昔見た名作と呼ばれる映画も違って観えてきたものもそのためです。それはただ時を過ごすだけでは得られないものかもしれません。限りある時を心から惜しむことができて、人を深く愛することができて、初めて「無常」を受け止められる心が育つと思うからです。


  思い通りにならない人生
  想いが届かない人生
  掴みたいものがあるのに掴めない人生
  もっと生きたいのに限りある人生
  昨日吹いた風が今日には吹かない人生
  永遠などないことを知っていながら永遠を求めてしまう人生
  いつまでも若く、健康でありたいと思ってしまう人生

「無常」とはすべてのものが、そのままではなく変化することを意味します。すなわち、自然界にあるのものはすべて刻一刻と老化し、最後に死んでいくということです。ところが私たちは誰もが若くありたい、死にたくないと思っています。「事実」と私たちの「思い」が食い違いを起こします。これが「苦」というものが起こる要因です。その「苦」から逃れるためには、「事実」と「思い」との間に食い違いを起こさないようにするしかありません。「事実」の方は変えようがないので、私たちの「思い」を換えて「事実」に合わせるしかないのです。この方法が<受け止める>というスタンスです。つまり「やがては誰もが死ぬのだ」と思い切り、心から認めるのです。そうすると「事実」との食い違いがないので、「苦」というものは起こらず、心は穏やかになるというわけです。

 この心をもっと探求していけば「悟りの境地」、つまり解脱できるかもしれませんが、信心している修行僧でもない、煩悩の世界を惜しんでいる私にはとても行き着けるとは思えません。この悲哀に満ちた<無常>の世界に未練を感じている私ですから、行き着きたいと思ったこともありません。ただ心を穏やかにして暮らしたいと考えています。

         

 歳を重ねてきて自分自身もまた無常の世界にいることに初めて気づきました。無神論者ですが、上記のような仏法の話も理解できるようになりました。そして、惜しむ気持ちや愛する気持ちをより深く感じ始めたのです。それは緑色の紅葉がどんどん色を変えていく様と似ているような気がしてなりません。しかも、同じモミジの木でも枝のつき方や方角によって陽当たりが違い、紅葉の色に変化が生じます。私たち人間が特別ではなく、同じ自然界に住んでいることを強く意識します。

「限りある命の尊さを実感しながら、心から<生>を惜しむ」

そんな気持ちになったとき
人は生まれてきたことを きっと感謝できるに違いありません。


「紅葉狩り」から帰ってきてこんなことを考えてしまいました。(ホントにおしまい)


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