GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「メンターを探せ!」(9)「幸福を招く人生のキーワード <誠実>と<素直>」(下)

2012年05月20日 | Weblog
(手紙の続き)

話を戻しましょう。
 大学を卒業してデニーズレストランに就職し、外食産業で働くうちにデニーズという会社の将来に限界感じ(誠実さがなくなったと感じた)、退職しました。そして、関東から実家の大阪に帰って来ました。息子(現在29歳)が小学校入学の年でした。しばらくして、阪神電鉄から声がかかり、係長として入社することが決まりました。私を誘って戴いた人がリゾ鳴尾浜を設立した方(元デニーズの関西の店舗開発部長)でした。1990年の10月15日の途中入社でした。

 最初の業務は阪神電車高架下施設の直営店舗(お好み焼き屋1店、喫茶店3店、靴下専門店1店、コンビニ1店)の運営・管理責任者の部長(本社では係長)でした。2年後、出向先の会社社長の信頼を得て、12,000千円かけて赤字続きのお好み焼き屋を閉店し、カウンターしゃぶしゃぶの店に作り変えました。
阪神本社の社長室で本人を前にしてプレゼンテーションし、「12,000千でできるなら安い!やりたまえ!」と言って戴きました。あの日の感動は生涯忘れられません。
 私は京大出の大社長を前に上がることなく、自分の熱意を伝えることができました。

「プレゼンは文字は少なくし、必ず数字を多用したシートを作り、
  しかも、決してそれを読みながらしゃべるな! 
  説得する相手の目を見て自分の熱い想いを伝えろ!」
(●グッドラックメンター)

 1992年10月4日(リゾ鳴尾浜のオープンと2日違い)にオープンしました。この店は繁盛し、私は阪神電車の高架下施設に、この店のチェーン展開を考え始めました。その会社(阪神本線の高架下施設・ショッピングセンター管理が主たる業務。現在は阪神○動産に吸収)では、創立以来、直営部門は一度も黒字になったことはありませんでした。プレゼンした本社の社長も部長職の頃、この会社で数年間社長をされていた時期があったことを後に知って、私に運が向いてきたように感じました。そのしゃぶしゃぶ店の赤字がほんのわずかになり、直営部は喫茶店の利益のおかげで、初めて赤字から脱却することができました。その業績を認められ、入社2年半で本社課長に昇格できたのです。当然給与がおどろくほど上昇しました。 直属の社長の人事評価のおかげでした。(私の大切な●メンターの一人)

1998年10月、突然リゾ鳴尾浜に異動になりました。それまでの料飲部長がお客様(○宮市の重要人物)と責任者としての応対トラブルが原因で、不定期な異動が発令され、私が呼ばれました。私の夢(カウンターしゃぶしゃぶのチェーン展開)は、ここで消滅しました。しかし、そんなセンチなことを思っている暇など、リゾではありませんでした。毎日9:30に出勤し、ここでの業務は、料飲部長兼企画部長としてプールのイベントを計画し、またフィットネスの会員募集チラシも異動してきたばかりの私が業者と打ち合わせをして作りました。特にフィットネスは大手のチェーンの進出が激しく、徹底した当社のような単独店では明確な差別化戦略が必要でした。プールもすぐ傍にグループの甲子園プール(その後閉鎖)があり、イベントも差別化が必要でした。広告宣伝の専門家チームを外部から呼び、今までにないチラシ、いままでとは違うイベントを企画していきました。突然の異動、しかも飲食部の他に屋台骨であるレジャー施設(天然温泉とプール・フィットネスクラブ)の販促を任されたのです。任務の重圧はありましたが、一度はやってみたい企画部長という立場を、最大限楽しめました。企画とはまさしく<オリジナル>以外の何ものでもなく、本当に夢中で時間が過ぎていきましあた。

       

 ランチタイムやディナータイムは4階のフレンチ&イタリンアンレストランに上がり、紺のダブルのスーツに着替えネクタイをつけて支配人として動き回り、ピークが終わると、過去の業績分析と会社全体の販促計画の立案が待っていました。4Fレストランの閉店時間は22時、帰りは全館のセコムをかけて帰る日々が5年ほど続きました。夏は誰もが行きたがらない灼熱の屋外バーベキューの改善から手をつけました。もっとも苦情が多い飲食部門だったからです。 (屋外バーベキューあなたに「ウサギとカメ」の話をしましたね) 

 私はアルバイト達に存在感示す必要がありました。アルバイトは社員のように上下関係で動くのではなく、一緒に動き回る後ろ姿を示してこそ、初めて上司として認めることを、ファミレス時代に痛感してきました。そんな経験のおかげ部長として人心の掌握は容易に獲得できました。前部長はただウロウロするだけの方だったのが、私のアイデンティティ構築を早めてくれたのでしょう。これもまた私の運を運んでくれたのです。

 バーベキューの全メニューを作り替え、肉の業者も西宮の肉問屋から、社長を次々呼び出し、私の話を理解できる誠実で小回りが効く会社社長を探し出しました。そして、一回の面談で<直感>で決めました。、それが現在の肉の但○屋さんです。

 
          
     今は廃業した懐かしの4Fのフレンチ&イタリアンレストラン

 1Fのレストランメニューもすべて私が作り替え、写真も自分撮って、パウチしてレジ後ろの壁に現在のように貼りました。素直でとても誠実なS君(後に父の仕事を手伝うために退職)は、短期間に私のすべてを教えることができました。彼は非常に優秀な社員でした。そんな新部長の姿を見て、すべてアルバイト、リゾ鳴尾浜の全社員、他部門のスタッフも私を新部長として認めるに至りました。約2年を要しました。その頃、私の給与は、本社課長職では最高額に達していました。それは、直属の上司の信頼を得られたことを意味します。

「人事評価は、直属の上司がするもの、つまり給与の上下はその人が握っている」
(●グッドラックメンター)


 しかし、その後、本社から異動になってきた新専務は、前にいた会社で一緒に仕事をしたことがある方でした。私はその方の考え方・指導方法に反発し、大げんかになり、当時の出向先の社長は冷静に判断し、私を指示してくれました。その方は、1年少しで本社に返されました。会社のすべての現場を混乱させたからです。そのために氏は部長に昇格するのが3年遅れたと周囲から聞きました。

 そんな人が今度は現場の最上位である専務職でリゾ鳴尾浜に異動して来たのです。当然私とソリが合うはずもなく、他の部長を味方に付けて、私に激しいプレッシャーをかけてきました。私の給与は課長職の最下位まで落ち込みました。(2,000千円以上降下) 今考えればあの4年間が、人生で最も辛い4年間でした。今だから話せますが、その頃、胸のポケットには辞表が入っていました。怒りと我慢が限界を超えたとき、氏にたたきつけるつもりでした。

 何度もそんな瞬間がありました。氏も役員室に私を呼び、何度も「辞めてしまえ!」と罵倒したのは、2度や3度ではありませんでした。連れ添いにもその時は諦めてくれ、と言い渡していました。しかし、息子はまだ中学生になったばかり、マンションのローンもたくさん残っていました。自分一人の怒りで、家族を路頭に迷わせるわけにはいかなかったのです。こんなとき、周囲の人は誰も味方しないのが世の常です。相手は最上位だからです。私は「お前に採用されたわけじゃない!私は請われて阪神にきたのだ!」と心の内で叫び続けました。

 新しい専務との諍いというよりは、内なる自分との戦いの毎日でした。そんな時、プールで幼い女の子が溺れて死亡した悲しいな事件が起こりました。私は救急車がきたとき、少女を抱き上げ担架に乗せました。私の部内の事故ではありませんでしたが、常務と共に、少女の自宅まで行き、畳に頭をすりつけて謝罪しました。常務一人で行かせられなかったのです。

 専務はその責任を取らされて、阪神○動産に異動になり、その後に現職の中○専務が来られました。専務の信頼を得るのは容易でした。私の後ろ姿ろしっかり、見ていて下さったからです。また、運が向いてきたのです。給与も毎年上昇し始めました。しかし、最下位に一気下げるのは簡単ですが、最上位まで一気とは行かないというのが会社組織なのです。

(●メンター「信頼は一日で築くことはできないが、一日で失うことはできる」) 

 異動になった専務は異動先で、ヒラの取締役に降格され、社長とケンカしてとうとう50歳を過ぎているにも関わらず、阪神電鉄を退職しました。しばらくして、突然、私に会いに来てこう云いました。「サラリ-マン生活が嫌になったよ」と。私は返す言葉がありませんでした。「ただ、もったない」と呟くのが背一杯でした。そして、哀れにも感じてしまいました。私よりもっといい大学を出て、いい会社に就職し、最上位の部長職に就いたのに、人を見誤りその対応を誤り、人生を棒に振ったのです。

★話が長くなりましたが、要約すると

・対人間関係のスタンスは、人によって態度を変えたり、
 もしくは好き嫌いで応対を変えるようなことは、決してしない事。(=誰にでも誠実に接すること)
  *これにはバカな輩に足を引っ張られないようにする意味もある。
・大切な人(=自分を成長させてくれる人)を判断できなければ、有意義な人生を見過ごしてしまう。
・若い頃は、相手がどんな人なのか、敵か味方か、大切な人なのか、わからないもの。
 だからこそ、誰にでも誠実に接すること。
・約束・時間は必ず守り、しかも清潔感がある服装をする事。

 (「動物は清潔感を出せないグッドラック●メンター)

 (●メンター「景観は心を表す」(茶道の言葉)

上記のことをあなたに伝えたかったのです。
人生を無駄に送らないためのキーワードは「誠実」と「素直」です。自分自身が誰に対しても同じように誠実に接し続けるうちに、誠実な人、不誠実な人が見分けがつくようになります。しかし、自分が不誠実の場合は、正しい判断ができなくなってしまうことを、決して忘れないように。

 そして、いつまでも「素直」であること。「素直」というのは自分が未完成な人間であることを常に自覚していることを意味します。地位が上がったり、金持ちになろうが、「素直さ」を忘れない限り、人は成長し続けることができます。高い山に登れば登るほど、視野が広まり、様々なことが目に入ってきて気づかされることも多くなります。仕事の質も変わってきます。


 これが「心を強くする」ことにつながります。その強い心さえあれば、愛するファミリーを守ることができるのです。そんな男性になって下さい。

 それでは、これでお別れですが、私たちの人間関係はこれからも続きます。いい別れ方をすれば、またいい出会いに続きます。私の最後の職場は本当に素晴らしい仲間に囲まれた13年半でした。あなたのお母さんとももう少しお話ししたかったことが、唯一の心残りとなりましたが…。
 
 T君、君の前途は大きく広がっています。このまま「誠実に」、そして両親から受け継いだ「素直さ」を持ち続ければきっと幸せは向こうの方からやってくるでしょう。
 
 幸せは探すものではなく、また掴むものでもありません。向こうからやってくるものだというこを、これからの長い人生をかけて学んでください。

 私とはいい別れ方ができましたよ、T君! GOOD LUCK! 』


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (KN)
2012-08-21 13:20:04
ご無沙汰しております。「高架下施設・ショッピングセンター管理が主たる業務の会社」でお世話になったKNです。もう20年も前のことです。
素敵なプログですね。貴殿が若い頃からお持ちだった心の広い世界が懐かしく思い出されます。
会社生活の終盤は大分苦労されたようですね。
「前にいた会社で一緒に仕事をしたことがある新専務」というのは、本社でその会社の窓口になっていた人で、テナントの喫茶店で水漏れ事故が有った時に随分いじめられました。私は、「もし将来あなたがこの会社に出向することがあったら、その時に私の言っていることがわかる」と言ってやりました。そして彼は、その会社を吸収合併した阪神○動産に異動になったのですね。
 彼が言う「サラリ-マン生活が嫌になったよ」という意味は、具体的には「入社同期から一人でも役員が出たら会社をやめる」ということでした。ああこの人はそれだけの人だったのかと思いました。元々は建築家として入社してきた人なので、その道を貫けば人生を無駄にすることも人に迷惑をかけることもなかったろうにと思います。
退職後の私の仕事は「中小企業診断士」です。お陰さまで、飲食業の仕事には大変手ごたえを感じています。
返信する
ウサギとカメ (グッドラック)
2012-08-25 01:00:18
私は人生は「ウサギとカメ」http://blog.goo.ne.jp/goodluckyuji713/e/97cda17e21dd20290517008bacf5135a
のようだと思っています。どんな思いで人生を送るか、
「入社同期から一人でも役員が出たら会社をやめる」こんな思いで人生を送っていたなら、可哀想というしかありません。組織人として最も苦労した時期でしたが、その苦労があって上記のように「ウサギとカメ」の新解釈ができたのです。震災後、三宮の1カウンター14席しかないという喫茶店を2/3に再オープンしている最中にあの受け止め方ができたのです。考え方、受け止め方一つで人生が大きく変わってくるのです。「中小企業診断士」とても意義ある仕事ですね。経営者に診断結果を知らせ、新たな取り組みを方を伝えられれば、より価値ある仕事になるはずです。今までの嫌な経験をもう一度受け止め直し、価値ある人生の糧として欲しいと願っています。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。