牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

良い知らせを伝える

2017-02-07 18:46:50 | Weblog
イザヤ書52:7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせると言う者の足は。
16歳の時、イエス・キリストの十字架と復活を聞き、アーメンと信じたその日、種子島の海で洗礼を受け、クリスチャンになりました。
兄が生駒聖書学院入学、牧師の道を歩むよう手紙が届きます。種子島の池田公栄牧師は、今も現役ですがステキな牧師。種子島の合唱隊を育て上げるくらい歌も上手。写真や機材に通じ、イケメンで美しい奥さま、ともかく素敵な牧師。
現在も、種子島で真っ白いひげの牧師として、島中の尊敬を集めています。幼児教育で基督幼稚園、明朗幼稚園の卒園者が5000人にもなります。今年も7月末の日曜礼拝は、西之表キリスト教会です。
当時は、歌も歌わず、話しもせず、運動もしない。致命的なのは人間嫌い?、宗教も嫌い。自分たちが作り上げた物を、神仏として祭り上げ、人間=特に人殺しの軍人や将軍を神とし、大きな社を建て、ひれ伏し拝んたり、太陽など自然崇拝する姿に、人間こそ万物の霊長なのにと思うのでした。何回も来る手紙を読むうちに、生駒聖書学院という気持ちになりました。ところが、生駒聖書学院入学資格には、召命が必要だとあります。牧師に聞くと、神様が呼んでくださることを召命と言う、ますます分からなくなりました。牧師にすると言う声もない。聞こえるのは波音か、こずえを揺るがす風の音だけ。
ある日山へ薪を取りに行き、途中で休憩。当時はいつも新約聖書をポケットに入れていた。その聖書のことばが心に響きました。今日の聖書の、新約聖書への引用句。
ローマ人への手紙10:13-15 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
牧師となるように召されている。良い知らせを伝えるだけで良いのだ。当時は、文語訳聖書でした。
ああ、麗しきかな。良き訪れを告ぐる者の足は! 現在も、現役牧師として、アーメンと言えば救われますと、イエス・キリストの十字架と復活を伝え続けています。聖書の真実の約束に、アーメンと応答し、告白し実行する力を、聖霊が与え続けてくれます。平安で幸せな人生を、アーメン。信じます。
ありがとうございます。今日もまた天国の豊かな愛の一日です。感謝します。

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