牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

約束のⅠデナリを握りしめ

2015-08-12 07:49:06 | Weblog
聖書の一言;マタイの福音書20:1-16 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

通信科神学生のメッセージが届き、今日の聖書の一言と同じ個所。

約束の1デナリをにぎりしめ

中心聖句
「あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらって行きなさい」
(マタイ20:13b-14a)
お読みいただいたマタイの20章の前半(1~16節)ブドウ園での労働者の譬えは19章から続く天国のお話のしめくくりの部分です。19章の天国の話の第1部は「天国は幼な子のような者の国である」(19:14)ということ、第2部は「永遠の命を得るためにはどんなよいことをすればよいか」という質問に対して「永遠の命(天国)に入りたいと思うなら、(自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ)という戒めを守りなさい」(19:17)とイエス様が答えられたこと、第3部は、「隣人を愛せよ」という本当の意味を説いて「富んでいる者が神の国(天国)にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(19:24)とイエス様が言われたこと、第4部は、第3部でのイエス様の答えで「それでは、だれが救われることができるのか」と動揺した弟子たちに対して「人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたも、、、永遠の生命を受け継ぐであろう」(19:28b-29b)と励まし、先に召されたイスラエルの義人たちよりも、イエスを信じた者が先に天国にはいると述べています。

しかし、イエス様の真意は、天国に入り永遠の命をさずかるのが後になるか先になるかではありません。

この20章でのブドウ園での譬えは、一見、労働者からすると不公平とも思えるブドウ園の労働の譬えです。何時間働いても1デナリで、その上労働時間の短い人から、その日のお給金をいただけるのですから、一日働いた労働者からしてみれば、小言のひとつも言いたくなる場面です。ちなみに1デナリはローマの銀貨で、1日の賃金に相当したようです。さて、ここでも「後の者が先になり、先の者が後になる」と譬えを締めくくっています。このしめくくりによって、ブドウ園の譬えが19章での、先に召されたイスラエルの義人が一日働いたブドウ園労働者で、1時間しか働かなかった労働者がイエスを信じたクリスチャンであることが分かります。しかし、イエス様の真意はこのことではありません。

例えば天国行きのエレベーターを想像してみてください。先にエレベーターに入った人はエレベーターの奥に行きますが、ギリギリに飛び乗った人はエレベーターの終点・天国でエレベーターのドアが開いて真っ先に天国に入ります。しかし、エレベーターの奥にいた人も必ず天国に入ることができるのです。後になろうが先になろうが、永遠の命に入ることができるのです。

また、このブドウ園の譬えはもう1つの意味をもちます。ブドウ園とは教会を意味し、労働は奉仕や献金のことを示唆しています。ブロウ園で1日労働しようが、半日労働しようが、3時間しようが、1時間しか労働しなくても、約束の1デナリはもらえるわけですから、教会の奉仕や献金に関係なく永遠の命にあずかれるわけです。

労働とか奉仕で考えるとなかなか納得いかないかもしれません。長年教会の奉仕をしてきた方も、病床洗礼で亡くなる前にイエス・キリストを信じた人も、同じように天国に行くことができるとすれば、人間社会的には不公平だ、それなら死ぬ直前にイエス様を信じた方がいいじゃないかと考える人も出てくるかもしれません。しかし、その考えは、世の中の暮しのほうが、ラクで楽しいと思っているからです。もしも、そう思ってしまう自分がいれば、考え方を変えなくてはいけません。ルカ書の15章に出てくる放蕩息子の譬えの中で、放蕩息子が返ってきたことを手放しで喜び、祝いの席を用意した父に向って、堅実な兄が、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに」(29)と、不公平だとブツブツと言っています。父は、その兄に対して、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」(31)と言いました。長年の教会での奉仕、誠実なるクリスチャン信仰生活では、イエス様といつもいっしょにいるという祝福と喜びと平安があるのです。信仰生活が長ければ長いほど、その祝福は大きく、喜びと平安に満たされている訳ですから、そういう方は何にも代えられない得をしているのです。ブドウ園での労働を、教会の礼拝出席を、奉仕を、献金を、信仰生活を、義務と感じるのではなく、恵みであると感じることのできる人は幸いです。いままでをふり返って見て下さい。イエス様がいつもいっしょにいてくださっていたはずです。

さて、この譬のイエス様の真意はどこにあるのでしょうか。ぶどう園での労働の対価、約束の1デナリこそが、イエス様の真意であり、誠の福音の核となるものです。では、約束の1デナリとは何を意味するのでしょうか。それは永遠の命です。そして、永遠の命は、「天国の鍵」により、天国に入ることによって与えられます。天国の鍵は、ほかの人を天国へと導き、自分もその中に入るためのものでもあり、クリスチャンの一人一人に渡されるはずべきものであります。そして、天国の鍵とは聖霊様のことです。しかし、あえてここで、言わせてください。わたしは、「聖霊による天国の鍵」とは「常に聖霊に満たされる」という安定した状態のことだと信じています。「聖霊に満たされる」とは、「イエス・キリストのころもを着る」「主の御手がともにある」という表現でも表されています。「聖霊に満たされる」と、超自然的な力が与えられ、それゆえに神を畏れ、崇め、同時に、自分の力ではなにもできないことを悟ります。これは神にすべてをゆだねることです。自分自身の全てを神に支配していただくことです。それは、悔い改めの姿勢でもあります。悔い改め、神に支配していただければ、弱い私たちは主にあって強くなるのです。パウロが第2コリントで「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(12:9)と主張したとおりです。

さて、ここで、わたしたちには心に留めておかないといけないことがあります。それは、イエス・キリストを自分の救い主だと信じた時点で聖霊が入ったとしても、全員が天国に行ける、永遠の命に入れる保証はないということです。

マタイ書の25章をみてみましょう。「十人のおとめ」の譬えのように、10人ともあかりをもち、つまり信仰をもって、花婿であるイエス・キリストの再臨を待っていましたが、5人は継ぎ足す油を用意していませんでした。聖霊に満たされていなかったのです。そして、その5人のおとめは再臨のイエス・キリストに会えませんでした。天国の戸がしまってしまったのです。この10人中5人という割合をそのままに受け取れば、クリスチャンと呼ばれる人の半分は、聖霊に満たされることなく、天国の鍵も渡されないのです。

わたしも含めて、みなさんには、永遠の命である1デナリを握りしめるべく、この世のいとなみが終わる最後の最後まで、聖霊に満たされておいていただきたいのです。「聖霊にみたされる」それは言い換えれば、主を喜ぶということです。ネヘミヤが「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)と言われるとおり、聖霊に満たされることによって、私たちは主の、上からの力を有り余る程いただくことができるのです。それは、主が「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(2コリント12:9)といわれるとおりです。そして、「主を喜ぶ」とは、つまり、第1テサロニケ5章16-18節の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」と言われるごとく、主をわたしたちの前におき、私たち自身を主にささげることです。また讃美をささげることも主を喜ぶことの一つでしょう。ローマ書では「患難をも喜んでいる」(5:3)と、全てを主にゆだね、試練をも歓迎するパウロの姿が映し出されています。わたしたちも、このように、共に主を喜び、いつになるかは分かりませんが、天の御国で再会できますように、今日という一日を大切にし主の絶大なる愛を感じ、日々悔い改めをし、良い時も悪い時もすべてにおいて主に感謝できますようにと祈りあおうではありませんか。

最後に、わたしは、今、ヤベツの祈りをしています。ヤベツは旧約聖書・歴代志1の4章9節から10節という2節にしか出てこない人ですが、この人の祈りは、主の祈りと同じぐらい、今の私にとっては大切な祈りとなっています。それは、聖霊に満たしていただくための祈りであり、しいては、約束の1デナリを握りしめるための祈りだからです。ヤベツは祈りました。「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災いから免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。そして神はかれの求めるところをゆるされた、とあります。比較的分かりやすい祈りですが、もう少し言葉を付け足しますと、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、あなたの御旨をお教え下さり、わたしをあなたのご計画のために大胆にお使いください。あなたの手がわたしとともにあり、聖霊に満たされることによって、わたしを災いから免れさせ、苦しみや不安や悪魔の惑わしをうけさせられないようにしてください」。わたしは、こういう気持ちをもって、オリジナルのヤベツの祈りをしています。みなさんも、このヤベツの祈りを主の祈りと共に、日課にしてみませんか。祈りを通し、聖霊の満たしを求めましょう。



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