牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

朝と言う字には、十字架が二つ・・・・

2011-08-31 16:53:44 | Weblog
朝の語源 なるほどねーと感心しました。

・ ・で朝には十字架の十が2個あるんですね。
生駒の生にも2個。
榮には1個
言語学者が聞いたら怒るるでしょうが、十は十字架の十と考えれば漢字もまた楽しくなるのでは・・

 ふと 思うことです。

  原人

礼拝メッセージへの応答メールがあり、返信しました。


 朝には十字架が2本、生駒の生にも2本、榮には一本。なるほどと感謝し、今度の礼拝で早速使わせてもらいます。

 クリスチャンになる前、物言わぬ少年でしたから人には言いませんでしたが、この(之)の義によって榮える!と考えていました。キリスト教会へ行き、あなたは罪人ですと言われ、それに反発するほどの正しさもなく(行いは真面目?でしたが、心の考えはそうでなく)教会行きを止めました。

 しばらくして罪を背負い身代わりとなられたイエス・キリストの十字架の話を聞き、アーメンと信じて種子島の海岸でバプテスマを受けクリスチャンになりました。

 その日から、この(之)義によって榮えるが逆転し、イエス・キリストの義によって榮える日々に変えられました。

 義という字は、羊+我、我だけだと我(ガ)ガアガアとうるさい自己義だけです。羊のしたに我がくると義になります。

 羊とは「見よ。世の罪を取り除く神の羊=イエス・キリスト」のことです。十字架の救いを信じ、イエス・キリストとともに歩く人生は、己の義を立てる(誇る)のではなく、キリストによって義とされている人生です。

コリント人への第二の手紙5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

ペテロの第一の手紙2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

 今日もまた天国の一日です。いつもありがとうございます。ハレルヤ!感謝します。


マンガで拘置所や刑務所に福音が広がり、今日は早朝出発日帰りで、鳥取刑務所まで面会です。

 生駒へ来て50年記念に、「歌えない、踊れない、無口の牧師物語」というマンガを発行しました。

 そのマンガ物語を読んで洗礼を受けた方が3名もあり、教会の礼拝に来られた方々も多数あり感謝しています。

 その中で拘置所で読んだ人がいろんな方に紹介し、多い時は10名くらいの方々から手紙をいただきました。

 今年もその反応は広がり、徳島刑務所に二人、無期懲役でもう40年も熊本刑務所収監の方からの手紙もあります。今日は鳥取刑務所へとなりました。

 イエス様はマタイの福音書で、教えてくださいました。

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(25:34-40)

ヘブル人への手紙13:3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。