私だけどうしてこんなに辛いのよ
分かってほしい訪ねてほしい 悠山人
○和泉式部集、詠む。
○「恋のうた」と題するが、頭注は「以下116までの部立か」、とする。これほどまでに辛くて憂いある人生を過ごしている人って、いったい私以外にいるかしら。それを思い、それを知る人がいるとしたら、ぜひ私を訪うて、慰めてほしいわ。
□和107:たぐひなき うきみなりけり おもひしる
ひとだにあらば とひこそはせめ
□悠107:わたしだけ どうしてこんなに つらいのよ
わかってほしい たずねてほしい
2007-0307-yts303
才ありて媛にしあれば折にふし
過ぎれる日日の思ひ出づらん 悠山人
○短歌写真、詠む。
○青春の紅涙、不意に浮上。「らん」に「蘭」は、単なる駄洒落。
□短写303 さいありて ひめにしあれば をりにふし
よぎれるひびの おもひいづらん
【写真】もの言いたげに、顔を上げたさま。
【資料】京都新聞 2007年03月06日掲載----------
いまなぜ「社会詠」か 現実と向き合う歌人 文化報道部・栗山圭子
短歌に社会事象を詠み込む「社会詠」について、この冬、京都市内の出版社が運営するホームページで大論争が繰り広げられた。2月初めには約300人を集めてシンポジウムも開催されている。いまなぜ、社会詠か。そこには花鳥風月の風雅なイメージでなく、社会に積極的に向き合おうとする歌人の強い姿がある。
インターネットの議論を発端に開かれた現代短歌のシンポジウム(2月4日、京都市中京区・ハートピア京都)
社会詠は、対象となる事物として生活の場の社会と社会批判や認識を詠み込んだ短歌や俳句を指す。石川啄木の「赤紙の表紙手擦れし国禁の書を行李の底にさがす日」などは、その先駆けとされる。テロや戦争、災害などの際、新聞歌壇などには、特に社会性の色濃い投歌が多く集まる。
ネットで大論争に
論争の発端は昨年11月。歌集・句集出版の「青磁社」(同市北区)のホームページの一コーナー「週刊時評」に、歌人大辻隆弘さんが「正しい社会詠?」の論を寄せた。歌人小高賢さんが結社誌「かりん」で記した「ふたたび社会詠について」への批判だった。戦時体験をイラク戦争に重ねた岡野弘彦歌集「バグダッド燃ゆ」と憲法改正論議を論じ、「詠(うた)ったあとの作者・読者を内包した認識や感覚の変化こそ、社会詠において、大事にするものだ」とする小高さんに、「社会詠は社会批評である前に、第一義的には『うた』である」と反論した。
「社会詠の価値の一つとして〈対話可能性〉というものを考えている」とする歌人吉川宏志さんも加わり、1カ月間に計8編の論が展開された。永田淳社長は「これまで短歌誌などでのやりとりは1カ月に1回。インターネットの即時性という特性が生きた。これだけスピード感ある論争は類をみないはず」と話す。
三者が顔を合わせたシンポジウムでは、議論は一層過熱。小高さんは「社会詠はメッセージ性が強い。メディア情報に影響されていないか、一過性に終わらず、社会の変化に照り返してみることが必要」と語り、大辻さんが「何を詠うかは問題でない。社会詠も日常詠も同じで、言語芸術としての響きが大切」と意見をぶつけた。吉川さんは「平和な日本と海外、戦争と日常の対比のパターンにはまっていることが問題」とパターン化の危うさを唱え、意見の違いを率直に指摘し合った。
「私」の声聞きたい
京都で活躍する中堅・若手歌人らも持論を発表した。林和清さんは、平安末期に源平合戦を詠んだ西行を引用し「歌人は目の前の時局に対し、どうしても詠みたいという欲求にかられる。それは今も昔も変わらない」と話した。
社会詠について、短歌結社「塔」を主宰する永田和宏・京都大教授は「戦争や震災など事件の記録は歴史として残るが、その場に立ち合った庶民がどんなスタンスで対処したかは歴史に残らない。庶民感覚を詠い止めることが大事」と話す。一方で「題詠のようにしてしまう問題もある。昨年の今ごろは『イナバウアー』ばかり。素材としてしかとらえないのはむなしい」と指摘し、「ニュース画面の真ん中でなく隅っこを見て、自分なりの視点を持つことが大切」と語る。
短歌は、時代を生きる人々の日常や心の動きを表す最も私的な表現技法という。いま社会詠がクローズアップされるのは、改憲論議や格差社会の現実と無関係ではないだろう。「私」の切実な声を歌の中に確かめていきたい。
[引用者注:写真一葉があり、その説明文]インターネットの議論を発端に開かれた現代短歌のシンポジウム(2月4日、京都市中京区・ハートピア京都)