悠山人の新古今

日本初→新古今集選、紫式部集全、和泉式部集全、各現代詠完了!
新領域→短歌写真&俳句写真!
日本初→源氏歌集全完了!

短歌写真228 振り向ける

2006-09-30 01:00:00 | 短歌写真
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振り向ける黒きひとみの涼しかり
秋日さへなふ睫毛に隠れて   悠山人

○短歌写真、詠む。
○正準合わせて数名のミス日本が集まる、というので行って、見た。残念ながら主催者によるコーディネイションは最低で、美女集団に気の毒だった。歌にも美女名が隠れていたのは、ご愛嬌。それにしても、皆さん、お美しい。まさに「眼福」♪ 空ばかり写していないで、という読者の声にも応えた。
¶さへなふ=<「障(さ)へに敢(あ)ふ」の約。防ぎきる。拒みとおす。断る。>(旺文版「古語辞典」)。なお、「まつげ」は「目つ毛」。

□ふりむける くろきひとみの すずしかり
  あきびさへなふ まつげにかくれて
【写真】台風の後は、とくに紫外線が強いから、一(位置)にも、二にも、三(サン)にも、ヒカリ(太陽光)を考えてから、撮影に入らないといけない。目線にモザイク。

短歌写真227 世の中は

2006-09-29 08:15:00 | 短歌写真

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世の中は男女にのみあれば
歯ひしてなほ長く睦びよ   悠山人

○短歌写真、詠む。
○男と女。思い込み、別れ話が死に直結する、おぞましい時代。この演技を見ながら、人みな全てかくありせば、のどけからまし、などと思った。
¶歯ひす=<歯する(よわいする)=「歯(し)する」の訓読。たちならぶ。仲間として交わる。> 旧かなは「よはひ~」。(広辞苑) ただし、古語辞典の見出しにない。
¶睦(むつ)ぶ=現代語の「睦まじくする。」 古語辞典の見出し語として、このほか、「むつる」「むつまし」が載る。

□よのなかは をのこをみなに のみあれば
  よはひしてなほ ながくむつびよ
【写真】先日、N高校の野外ダンス・パフォーマンスのステージ。実写を元に、多少手を加えた。


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2006-09-29 08:10:00 | images

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title : ginkgo nuts1
yyyy/mm : 2006/09
memo : 銀杏好きでも、大抵の日本人は、収穫時の「臭」覚は嫌い。毎日せかせかと下を向いての会社往復だけでは、自然の営みになかなか気が付かない。事故に遭わない程度に、上を向いて歩こう!
【写真】これだけ大きいものは、画像検索でも、レア♪


紫式部集122 見ていても

2006-09-28 21:00:00 | 紫式部集

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見ていても切れ目がなくて降り出した
雨はどんなに耐えたでしょうか   悠山人

○紫式部集、詠む。
○詞書は、平王クには単に「時雨する日、小少将の君、里より」。ところが新潮版には、冗長なほどに詳しく載る。理解を深めるために、原文を転記すると、<小少将の君の文おこせたまへる返り事書くに、時雨のさと[(里)]かきくらせば[(注記)]、使も急ぐ。「空の気色も心地さわぎてなむ」とて、腰折れたることや書きまぜたりけむ。立ち返りいたうかすめたる濃染紙(こぜんし)に>。つまり、小少将(「給ふ」と、紫が敬語を使っている)から、どうしようもなく恋しくて、と便りがあったが、使いの者が、天気も怪しいから急いでご返事を、と催促する。紫も、推敲もそこそこに返したら、雨の中を折り返して返事が来た、という次第らしい。日記から、十月時雨の季節の往復。
平王ク歌番号116。
¶かきくらす(掻き暗す)=「①雲が空一面を暗くする
。雨や雪などがあたり一面を暗くして降る。②心を暗くする。悲しみにくれる。」(古語辞典)
□紫122:くもまなく ながむるそらも かきくらし
      いかにしのぶる しぐれなるらむ      
□悠122:みていても きれめがなくて ふりだした
      あめはどんなに たえたでしょうか


image176 ぎんなん1

2006-09-28 03:00:00 | images

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title : ginkgo nuts1
yyyy/mm : 2006/09
memo : 銀杏。ぎんなん。a maidenhair tree's nut。仏語でも独語でも g~ は同じ。一見奇妙な英語名は、江戸時代に日本から欧羅巴に、不正確な発音と一緒に渡ったもの。ことしの春(?)に、この問題の特集が、NHK-TVで放映された。庶民の食卓から高級旅館の料理まで、広く愛されている。日本以外では、まだまだ馴染みが薄い。
【写真】近くの公園通りで、落ちるのを待っている。あす、もう一枚UL予定。


短歌写真226 ひた向きに

2006-09-27 05:00:00 | 短歌写真
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ひた向きに高きをねがふ秋空の
鯉の幟を誰ぞ操れる   悠山人

○短歌写真、詠む。
○秋晴れの空に鯉幟が泳ぐ。しかも、本当に泳ぎ回る。この珍しい風景を見て、たちまち閃いて歌片(うたひら)となった。平安歌人の鱗片(うろこひら)ほどには、なったか。掛詞を自在に駆使するのも、私の作歌の目標の一つである。秋日暮れて道・・・なほ見えず。
¶鯉の幟=「鯉の滝登り」と「高きをもとめる恋」を掛ける。「ひた(直)向き」も、「一所懸命」と方向詞を懸けた。

□ひたむきに たかきをねがふ あきぞらの
  こひののぼりを たぞあやつれる
【写真】父鯉を引くロープが、よく見れば写っている。200%拡大でも、十分に確認出来る。少子化時代の一人っ子。

image2006-0926 世間を-憶良

2006-09-26 00:00:00 | images

image2006-0926
世間を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば   山上憶良【万葉集 05-0893】

○短歌写真-山上憶良。
○生涯忘れることのない学恩。私には二人の I さんがいる。その一人(今月は誕生月。故人。)から、この「
貧窮問答歌」の深刻さを教わった。ただ一回で脳細胞にぴたり張り付く歌は、それほど多くはないが、これはその一首。いつでも澱みなく出て来る。問答歌の最後に、「短歌」として紹介される。「貧窮問答」は、岩文版に「びんぐもんだふ」。それを知った上で、「ひんきゅうもんどう」可。以下、同版原文。
  世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母
  飛立可祢都 鳥■之安良祢婆
  [■=「人」冠+「小」脚。Univ. of Virginia Lib. を見たら、単に「尓」
¶やさし=岩文版は、語法は「霊異記」に関連か、とする。 <「優し」①身がやせ細るようだ。たえがたい。つらい。[用例としてこの歌] ②恥ずかしい。きまりが悪い。肩身が狭い。③優美である。上品だ。風流である。・・・>(旺文版古語辞典) 

□よのなかを うしとやさしと おもへども
  とびたちかねつ とりにしあらねば   やまのうへの おくら
【写真】先日、パラグライダーのデモ・フライトで。
【古典ギリシャ語と万葉語法】いちどULしてから、読み直しているうちに、重大なことに思い至った。なぜ今まで気が付かなかったかと、自身に恥じ入る気持ちである。こうして書いておくことによって、自戒としたい。
「AとBと思へども」の構文であるが、直感的にしっくり来ないまま、専門家ではないので、何となくそのままにしておいた。意味は、今さら言うまでもなく、「Aと思っても、Bと思っても」だけれど、現代語にはこの用法はない。つまり並置語の双方に「と」を付けることはない。ところが、である。
現代の西欧語のかなりの部分が、ギリシャ~ラテン由来であることは、広く知られている。そのギリシャ語(希語。ここでは古典希語)でも、並置語を使う場合には、この憶良の語法と同じになるのだ。
  万葉・・・AとBと
  希語・・・kai A, kai B (ローマ字転写)
さらに付け加えるなら、少し遡れば希語では「,」さえもない。となれば、全く同じ、ということになる。不覚であった! で、思うのだが・・・。
このささやかなブログの読者諸賢、それぞれの道で豊かな学殖をお持ちの方、ぜひ専門外の分野にも鋭いアンテナを張っておいていただきたい、とあらためてお願いしておこう。


紫式部集121 「水鳥は

2006-09-25 07:30:00 | 紫式部集

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「水鳥は水の上」とは言えないわ
私も雲の上にいるのよ   悠山人

○紫式部集、詠む。
○詞書に、水鳥が思い悩むこともなさそうに遊ぶ様子を見て、と。水鳥は水鳥、私は私、と言いたいけれど、私も浮いた(雲居の)暮らしをしているので、よそごとではないわね。平王ク歌番号日記歌01。

¶みづとり(水鳥)=平王クは原文「水鳥」表記、索引読み「みづどり」
。古語辞典に「みづどり」はなく、すべて「みずとり」。
□紫121:みづとりを みづのうえとや よそにみむ
     われもうきたる よをすぐしつつ      
□悠121:「みずとりは みずのうえ」とは いえないわ
      わたしもくもの うえにいるのよ


image175 薄の秋

2006-09-24 01:45:00 | images

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title : Susuki(herbe de pampas japonaise; Japanese pampas grass)
yyyy/mm : 2006/09
memo : すすき。薄。芒。英語で何と言うのかな、と複数の辞書で調べたら、いずれも対応語なし。上には「U」(uncountable)としたが、「C」とするものもある。私は英仏とも、Uとした。というわけで、あえて欧文 title には Susuki と書いておく。図らずも、薄木にも文化論の芽が見えた。
【写真】贅言不要、まさに秋。


紫式部集120 私には

2006-09-23 02:30:00 | 紫式部集

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私には菊のわずかな露にして
花のあるじはどうか千歳を   悠山人

○紫式部集、詠む。
○今日は、何かと菊に縁のある日。1008(寛弘5)年の重陽節(9月9日)の歌。前日から当日にかけて、「菊の花を真綿でおおって露と香を移し、その真綿で身体を拭くと老いが除けると考えられ、人に贈り物にもした。」(新潮版) 関東ではつい先日、杉並・大宮八幡で宮中に模したこの催しがあった(と、たしかに幼稚園児の可愛い写真を添えて、区の広報に載っていたのだが…)。例年の由。また、洛都の和菓子には、「お菓子」「おまん(饅頭)」「お餅」があって、「着せ綿」はお菓子(生菓子)の定番の一つとか。
ところで先日、この歌とは別にある調べものをしていたが、そのときこの歌を「菊の花」と紹介していたウェブサイトに、複数出会った。たしかこれは「露」ではなかったかと、不安になった。電網を利用するさいには、孫引き曾孫引きなどが充満しているので、心をいっそう引き締めなければと自戒した。紫には、意外なことに、菊の歌はこれ一首だけである。着せ綿は除魔延寿の力を持つとされたので、道長の妻倫子から受け取った紫が、(若い)私は少しだけ頂くことにして、北の方さまこそたっぷり身に付けて、せいぜい長生きなさって下さいな、と詠った。平王ク歌番号115。
唐突のようだが、紫とは違って、菊を大いに気に入っていた明治の文豪の短文が目に入ったので、下に紹介する。

¶わか(若)ゆ=「若くなる。若返る。」(古語辞典)

□紫120:きくのつゆ わかゆばかりに そでふれて
     はなのあるじに ちよはゆづらむ      
□悠120:わたしには きくのわずかな つゆにして
      はなのあるじは どうかちとせを
【資料 幸田露伴「花いろいろ」から「菊」】
 菊は、白き、好し。黄なる、好し。紅も好し。紫も好し。蜀紅も好し。大なる、好し。小なる、好し。鶴翎[かくれい]もよし。西施も好し。剪絨も好し。人の力は、花大にして、弁の奇、色の妖なるに見《あら》はれ、おのづからなる趣きは、花のすこやかにして色の純なるに見ゆ。淵明が愛せしは白き菊なりしとかや、順徳帝のめでたまひしも白きものなりしとぞ。げに白くして大きからぬは、花を着くる多くして、性も弱からず、雨風に悩まさるれば一度は地に伏しながらも忽《たちまち》起きあがりて咲くなど、菊つくりて誇る今の人ならぬ古《いにしへ》の人のまことに愛《め》でもすべきものなり。ありあけの月の下、墨染の夕風吹く頃も、花の白きはわけて潔く趣きあり。黄なるは花のまことの色とや、げに是も品あがりて奥ゆかしく見ゆ。紫も紅もそれぞれの趣きあり。厭はしきが一つとしてあらばこそ。たとひおのが好まぬもののあればとて、人の塗りつけたる色ならねば、遮りて悪くはいひがたし。折に触れては知らぬ趣きを見いだしつ、かゝるおもしろさもありけるものを、むかしは慮《おもひ》足らで由無くも云ひくだしたるよ、と悔ゆることあらん折は、花のおもはんところも羞かしからずや。このごろ或人菊の花を手にせる童子を画きたり。慈童かとおもへどさにもあらぬやうなり、蜀の成都の漢文翁石室の壁画にありといふ菊花娘子の図かと思へど、女とも見えず、また獼猴[びこう
]《さる》も見えねば然《さ》にもあらぬやうなりと心まどひしけるが、画ける人のおもひより出でたる菊の花の精なりと後に聞きぬ。若し其人菊をめづること深くして、菊その情に酬ひざるを得ざるに至り、童子の姿を仮りて其人の前に現はれしことなどありて後、筆をとりて其おもかげを写したらんには、一ト入[ひとしお]おもしろきものの成りたるならんとぞ微笑まる。
-悠山人注①出所は青空文庫。ただし、僅かに補正した。②[ ]は、私の挿入。現代表記。